中編7
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ある廃墟での集い

カクテルパーティ効果という言葉は、私が大学生の時にお世話になっていた教授から聞いたものです。

言葉の意味について簡単に説明させていただくと、どんな雑多な情報の中からも、自分に関係することにはつい脳が反応してしまうという現象のことを、心理学ではそういいます。

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ちょうどたくさんの人の話し声の中、背後から、それはたとえ近くでなくても、自分の名前を呼ばれれば、つい振り返ってしまうような。

そうです。カクテルパーティ効果の名前は、パーティで名前を呼ばれるという状況に由来しています。

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私がどうしてこんな話をしているかと言いますと、このカクテルパーティ効果というものが、いまからみなさんにお話しする、ちょっとした怪談話に関係すると考えたからです。ちょっとした、とあえてつけたのは、私が準備した話は、怪談と呼ぶにはあまりにも、面白味がないかもしれないと思ったからです。

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…え?怪談は面白がるものではないって?確かに、その通りだと思います。

事実、都市伝説などの怪談話を面白がって、心霊スポットや廃墟などの曰く付きの場所へ赴いて、様子がおかしくなった人を何人も知っています。

私の周りには、それこそ「曰く付きの人間」と言ってもいい連中が多くいたものですから。

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怪談を面白がるのには、危険が伴います。

しかし、恐怖に憧れ、密かに胸を躍らせるのもまた人間の心理です。

みなさんがここに集まられたのも、少なくとも怪談を面白いと思っているためであることに、異論はないのではないでしょうか。

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そして、このような日にせっかく集まられたからには、何か一つでも面白い話を持って帰ってもらいたいと思うのもまた、人の心理として当然ではありませんか。

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話をもとに戻しましょう。カクテルパーティ効果でしたね。

私は大学で心理学を専攻しているのですが、カクテルパーティ効果は脳科学にも密接に関係しています。

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科学、と言いますと、オカルトや怪談話とは相入れないように思われますが、しかしどちらも、「説明できない」という点については同じと言えるのではないでしょうか。

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科学についても、たとえば、水は100度で沸騰しますが、ではなぜ100度なのかと聞かれれば、そう簡単には答えられないはずです。

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…大気圧の蒸気圧が100度であるため?

世の中には賢い人もいるものですね。

ですが、私の言い分では、それでは答えになっておりません。

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大気圧も蒸気圧も、それが100度というのも、すべて人間が言葉として決めたものです。同じ温度でも、摂氏と華氏では全然違うではありませんか。

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私が言いたいのは、要はなぜその温度でなければ水は沸騰しないのか。逆に言えば、なぜその温度だと沸騰してしまうのかという理由は、正確には誰もわからないはずです。

そしてそれは、怪談でも同じです。

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たとえば、シャワー中に後ろから視線を感じてしまうのは、どうしてでしょう。

これは、説明しろと言われてもできるものではありませんよね。

しかし、一度意識してしまうと、どうしてもそのように感じてしまう。

そして一度意識してしまったものは、なかなか忘れることはできません。

これもすべて、人間の心理ですね。

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…え?早く本題に入れって?

そうでしたね。今日みなさんに集まっていただいたのは、私のこんな話を聞いてもらうためではありませんでした。

この廃墟の雰囲気に飲まれて、つい長話をしてしまいました。

しかし、さっきから彼は勘違いしているようです。というのも、私のしてきた話は、彼のいう「本題」に少なくとも関係はしているはずです。

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ここでもう一つだけ、カクテルパーティ効果と脳の話をさせていただきます。

私たちは人の話し声で溢れたうるさい環境でも、自分の名前を呼ばれると脳が反応して聞き取ってくれます。

それは、名前というものが自分に関係していることだからです。

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つまり、それは名前でなくても、自分が強く意識していることであれば、脳はつい情報をキャッチしてくれるということでもあります。

それと似た話で、たとえば今日このようにお集まりいただいたのも、あなた方が常日頃から意識していることによって、私の呼びかけが、まるで自分のことのように感じたからではないのでしょうか。

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でないと、私がSNSに投稿した、「自殺志願者募集」の呼びかけを見て、わざわざ夜中にこんな廃墟にまで来ませんよ。

あなた方は日頃から、自殺について考えてきた人たちではないでしょうか。

それは、私も、同じです。

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「この男のせいで」

言い終わると、私はある1人の男に飛びかかり、ズボンのポケットに隠していたカッターナイフを取り出して、男の首筋に走らせた。

男の首筋からは血が吹き出し、彼は悶え苦しみ、空虚な建物には彼の叫び声が反響した。

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…やがて彼の息が絶えるのを確認すると、私は彼の血のついた上着を脱いだ。

私の半袖の腕には、何度も焼き爛れて原型を留めない皮膚が疼いていた。

私はその腕をぼりぼりと掻くと、ゆっくりとまた話し始めた。

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彼のことはすぐにわかりました。

私の話を逐一遮ってきた彼の声によってです。

この場においても、私の邪魔をしてくるなんて、驚きも通り越して呆れてしまいました。

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失礼しました。彼と私の関係について、みなさんに説明するのが先でしたね。

簡単に言えば、彼は私の同僚で、同じ教授のもとで助手をしておりました。

そうです。カクテルパーティ効果を教えてくれたのと同じ教授です。

そして私は、(血を流して横たわっている男を指差して)彼よりもよくできました。教授にも好かれておりました。

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そんな私を、彼はよく思っていなかったのでしょう。彼はある日を境に、私に対して嫌がらせをするようになりました。

そしてそれは次第にエスカレートしていきました。

ある時は、熱々に沸騰した湯を腕にかけられました。

ちょうど研究室に、コーヒーを入れるためのケトルがあったからですね。

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私もはじめは抵抗しましたが、小柄な私は巨漢の彼から逃れるすべはありませんでした。そして、それが何度も繰り返されると、私は次第に無気力になりました。

抵抗が無駄だと分かった時、私はひたすら耐えることにしました。そんな私を見て、彼はひたすらに笑っていました。

私は大好きな教授に余計な心配をかけたくなくて、彼のことを黙っていました。

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今考えれば、私も彼も、なんて幼稚だったのでしょう。

まあ、彼が大気圧なんて言い出した時には、それほど馬鹿でもないのかと思ってもしまいましたが、しかし私は何度、これまでに彼のことを恨んできたでしょうか。

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そして何度、水が100度で沸騰してしまうことを憎んだできたでしょうか。

もし水が簡単に沸騰してくれなければ、私の腕はこのようになることはなかったでしょう。

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彼のいじめは執拗でした。私の腕は、彼に目をつけられてから完治することはありませんでした。

彼が私にこのようないじめをした理由は、明確です。つまり、私がいなくなればよかったのです。

私がいなくなれば、教授のポストはいずれ彼のものになるでしょう。それだけでなく、彼の気持ちは随分と晴れるでしょう。

彼は私を嫌っていましたから。

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一度意識してしまうと、なかなかそこから離れることができないというのは、さっきの話でもありましたね。

彼は、私を意識しすぎていました。

そして私がSNSで、一緒に自殺してくれる人の募集をかけているのに気づいた時、きっと声高々に笑ったことでしょう。

すべては彼の思い通りになっている、と。

今日彼がここに来たのも、おそらくは私が本当に死ぬかどうかを確認するためです。

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-私は先程、怪談を面白がるのには危険が伴うと言いました。

それは、彼に対しての言葉です。

自殺志願者を馬鹿にした、そして私を馬鹿にした、彼に対しての警告です。

しかし今はもう、彼には何一つ聞こえていないようですね。

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「最後に」

私はひと呼吸おいて、カッターナイフとは反対のポケットから縄を取り出すと、再び話し始めた。

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-もうひとつだけ、話をさせてください。

何も、難しい話ではありません。

怪談話をすると、霊が寄ってくるという簡単な話です。

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これも、一種のカクテルパーティ効果のようなものなのかもしれませんね。

なぜなら私には、普段は見えないものが見えてしまっているからです。 

きっと私が意識してしまっているからなのでしょう。脳というのは、本当に不思議ですね。

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現にいま、私が話をしている最中も、さっきからぞろぞろと集まっているではありませんか。

幸か不幸か、本当の人間でここに来てくれたのは、私が死ぬほど憎んでいる、彼だけのようですね。皮肉なものです。

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しかし彼が死んだ、いや、私が殺した今、この場で生きているのは私だけになってしまいました。

それなのに、どうして私の名前を呼ぶ声が、こんなにうるさいのでしょうか。

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…そりゃあ、あなた方幽霊にとっては、私の怪談話なんて、面白くないでしょう。

しかし私は、それもはじめに忠告しましたよ。

…あんまり怒らないでください。

私もすぐにあなた方の仲間になりますから。

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私の心配事は、私の小柄な体が、果たして首吊りに向いているかどうか。

そして、死んでからもなお彼の幽霊にいじめられないかどうかの二つです。

なんたって、幽霊という説明できない存在を、もう信じないわけにはいかなくなったわけですから。

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数分後、私の体は宙に浮いた。

もがき苦しむ私の目下で、何十もの顔が、こちらを見て笑っていた。

その顔の群衆に、もうこの世のものではない彼の顔を、薄れゆく意識の中で見た気がした。

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