ああ、疲れた。
私は残業でくたくたになった体を引きずるように、アパートの自宅に帰ってきた。
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家を出たのはまだ日も出ていない早朝だったはずなのに、帰宅時間は残業のせいで23時を超えていた。
つまり、1日のほとんどを会社で過ごしたことになる。
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おそらく大慌てで家を飛び出してきたのだろうが、私には今朝の記憶がまるでなかった。
それくらいに今朝が遠い過去のように感じ、なによりも、もう何も考えられないくらいに疲れ果てていたのだった。
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私は大きなため息をつきながら中に入り、玄関の鍵を閉めた。
そして、奥につづく廊下の暗闇をそのままに歩いて、部屋の電気をつけた。
部屋に入ってすぐの壁には姿見があり、私は帰宅後の習慣として、通勤鞄を放り投げながらそれを見た。
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鏡に映った自分は、朝に見た時よりも一段と老けていて、思わず笑いそうになってしまう。
早くお風呂に入って、さっさと寝ようかな。
その前に、楽しみにしていたデザートでも食べてしまおうか。
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私は、一刻も早く元気いっぱいの自分に戻りたいと思い、今日一日をともに戦い抜いたよれよれのスーツを脱ぎ始めた。
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ふと、猛烈に眠気が襲ってきて、鏡を見ながら大きな欠伸をした。
もちろん、鏡の中の自分も私と同じく、大口を開けて欠伸をした。
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…え?
私はとっくに欠伸をし終えていた。
それなのに、鏡の中の自分は、大きく口を開けたまま動かなかった。
その顔は口を開けているからか、さっきよりも老けて見えたが、そんなことはどうでもいい。
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私が今どんな顔をしているかは、鏡の前にいるのに、わからなかった。おそらく、今にも泣き出しそうな顔であろう。
私は鏡の中の自分から目を離せずに、泣きたい気持ちを必死に押さえ込み、心の中で何度も、元に戻って、と懇願した。
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しかし、鏡の中の自分は一向に閉口する気配はなかった。
それどころか、私の口はどんどん大きくなっていった。
まるで口腔のすべてがめくれ上がって外にさらけ出されたようになったとき、私はもう見ていられなく思い、部屋の電気を消してしまおうと、泣き叫びながらスイッチに手を伸ばした。
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部屋の電気は私の手によって消されたが、消灯する間際、鏡の中の自分はもはや口だけの存在となって、
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次の瞬間。
鏡から飛び出して、現実の私を、がぶりと口に含んだ。
ようやく閉じられた口からは、スイッチにたどり着いた右腕だけがはみ出していた。
それをちゅるりと吸うと、顔に手足の生えた、まるで幼稚園児の書いた絵のような化け物となった私は、もぐもぐと咀嚼しながら鏡の奥へと歩いていった。
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鏡には、もう何も映っていなかった。
それを確認する者も、もういない。
しかし、ある意味で、私の最後の願いは叶っていたのだ。
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そこは元どおり、私が帰って来る前の、誰もいない真っ暗な部屋であったのだから。
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いや、まだ不十分だ。
「わっすれっもの〜」
しばらくして私は現れると、ひょいと腕を伸ばして、床に無造作に転がっている通勤鞄を、鏡越しに拾った。
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その姿は人間の形をしたスーツ姿の私で、その顔は元気いっぱい、満たされた表情をしていた。
「急がないと遅刻しちゃう」
吐き出すようにそう言って、私は小走りで去っていった。
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鏡の中の見えないところから、玄関の施錠の音が聞こえた。
そして、アパートの廊下をかつかつと足音が遠ざかっていき、真っ暗な部屋に、再び静寂が訪れた。
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これで、本当のほんとに、元どおり。
作者こわこわ