はじまりは一匹の猫だった。
大学生の私は、講義が終わって家に帰る途中、ふらふらと目の前を横切る猫に目を疑った。
その猫は黒猫だったが、縁起が悪いなんてちっとも気にならなかった。
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その猫は足が5本あったのだ。
見間違いかと思ったが、何度見てもやはり1本多かった。
余分な1本は、猫の腹のあたりから下に垂れていて、神経が通っていないのかコンクリートに引きずられて血が滲んでいた。
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それが足だとわかったのは、変な方向に曲がって見えた足の裏に肉球を認めたからだった。
私はこういうこともあるのだとか、自分は疲れているのだと強引に納得して、しかし拭い切れない寒気を覚えて帰路についた。
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2日後、朝のニュースであの猫が捕獲された報道を見た。
自分の家のある地名が発見場所となっていたため、あの猫で間違いなかった。
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ただ、画面に映るそれの足は7本に増えていた。
背中から1本と、胸のあたりから1本新しい足が生えていた。
専門家の話によると、それは「発芽」という名称で呼ばれる現象であるらしかった。
そしてそれは、動物だけでなく人間にもみられる可能性があるのだという。
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そのようなニュースはやがて毎日見るようになった。
耳が8つある犬や、顔が2つある猿が、連日報道された。
それらは発見され次第捕獲され、とりあえずの対処方法として、檻に監禁された。
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そのような「異形」の出現の理由として、さまざまな憶測が飛び交った。
放射能や公害といった環境問題が囁かれ、食べ物の添加物や水質汚濁などの飲食物の問題にまで発展したが、そのどれもが根拠のないものにすぎなかった。
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あの猫の報道から1ヶ月もたたないうちに、ついに人間にも異形が誕生したというニュースを、新聞を読んでいた父の口から聞いた。
一人の女性の額に3つ目の目が発芽したのだと、誰かの文章は父の声となって淡々と伝えた。
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同じ女である私は、その女性に同情し、彼女のこの先を案じた。
彼女もまた、異形となった動物たちのように檻に入れられてしまうのだろうか。
ふとそんな心配が頭をよぎった。
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父は、何事もないようにコーヒーを啜って、仕事の支度を始めた。
もうこのような類のニュースは珍しくなかったので、父の反応も仕方のないことなのかもしれないと私は思うことにした。
事実、そのような現象は、次第にニュース番組の中だけでなく、身の回りでも当たり前になり始めていた。
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たとえば、ある時大学の講義で隣に座った男の子は、しきりに右手の小指を揉んでいた。
そんな彼が消しゴムを落としてそれを拾う時、私は彼の小指の先が、陰茎の形をしているのを見てしまった。
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彼がそれを揉んでいるということは、おそらく自慰を意味するのだとわかった時、私は講義をさぼってでも退席しようと考えた。
そんな私の変化に気づいたのか、彼はにたにたと笑いを浮かべながら、私が机の上を片付けるのを、いやらしく小指を揉みながら眺めていた。
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日常に異形が溢れ始めると、人々の興味の対象は、それがいかに珍しいかというものになった。
ニュース番組だけでなく、夜のバラエティ番組でもそのような特集が組まれた。
またSNSでも、珍しい異形の写真を載せることが人気者になる条件となりつつあった。
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自分の承認欲求のために躊躇なくスマホのカメラを構える人で街は溢れ、冷たさと異様な熱気に包まれていた。
そこには人としてのプライバシーなんてまったく存在していなかった。
異形となった人はただのものとして扱われ、人々はそれにいいねを押した。
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極めつけは、従来とはまったく違う動物園の誕生だった。
そこには私たちのよく知る動物が並ぶのではなく、私たちの知らない姿をした動物が檻に入れられていた。
来客たちは、珍しさを求めてやってきた。
彼らにとっての大きな幸福は、異形のものを眺めることにあった。
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それは自分の正常を意味していて、異形を眺めることは安心感を得るための手段であり、また、日々変化し続ける世界で生き延びるストレスの最良の癒しや、そんな日々を勇気づける刺激となっていた。
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私は一度、両親に連れられて動物園に行ったことがあった。
私は全然乗り気じゃないのに、父は「一度見ておいた方がいい」と強引に私を車に乗せた。
私の腕を引っ張る父の力が思ったより強くて、私は父にも何かしらの発芽がきてるのではないかと心配になったが、ただ動物園に家族で行きたいという気持ちが強いだけだと思った。
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私たちの家族はまだ誰も発芽していなかった。
しかし以前とは何かが違っていた。
優しい父が私を思い切り引っ張ることなんて、以前はあり得ないことだった。
私は動物園に到着すると、その人の多さに愕然とした。
来客数が多いこともさることながら、檻にいれられた「人」の数にであった。
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私たちはある檻の中に、あの3つの目の女性を見た。
私の懸念は現実となっていて、その現実はすぐ目の前にあった。
私は目の前の光景に愕然とした。
彼女はまだ人に見られることに慣れないように、赤い顔をして俯いていた。
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ニュースで見た時には長く美しかった髪は、額の目が隠れないよう短く切られ、ストレスで白髪が増えていた。
私は目も当てられなく思い、早く次の檻に行こうと父の服を引っ張ったが、父はぎらぎらした目で檻の中の彼女を見つめていた。
その横顔に、まるで父が動物になってしまったように思い、私はぞっとして後ずさった。
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父を支配しているのは、好奇心なのか性欲なのか、または憧憬なのかはわからなかった。
ただ見られ続けた彼女の羞恥だけが、とても人間らしい感情として、私を慰めていた。
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ある日、ついに父にも発芽がきた。
休日の朝、父はソファーに座って新聞を読んでいた。急に新聞紙の破れる音がして、私は振り向くと、彼の額から一本の足が生えていて、新聞紙に穴を開けていた。
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突然の発芽は猛烈な痛みを伴うと聞いたことがあったが、父はその痛みによって気絶していた。
彼の叫び声を聞かずに済んだのが私にとっての幸いだった。
異形となった父を発見した母の叫び声は、おそらく一生忘れられないだろうが…。
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その日の午後には、母が呼んだ業者がやってきた。
その時には父の意識は戻っていた。
父は鏡で自分の発芽を確認して、「そうか、俺もついになっちまったか」と呟いていた。
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業者の男は父に何かのタグをつけると、父の腕を引っ張って連れて行こうとした。
業者の男の引っ張り方は乱暴で、まるでものを扱うようであった。
しかし、次には突然彼は叫んでいた。
父がやり返したからではなかった。
業者の男にもまた発芽がきたからであった。
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彼はまるで勃起したみたいにズボンの前を膨らませていた。
おそらく下腹部から、腕か足が生えてきたようだった。
彼は悶絶して転げ回り、私は30分ほどどうしていいかわからずそれを見ていた。
母は気絶して倒れていた。
父はずっとにやにやと笑っていた。
それはもう私の知っている父ではなかった。
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やがて業者の男は立ち上がると、「見苦しいところをお見せしました」とズボンの膨らみを隠さずに私に頭を下げた。
そして父に向かって、「私も一緒に行かなければいけなくなりました」と優しい声で言った。
父は「お前もか」と言って、そして二人で笑いあった。
彼らはお互いの異形を触ったりしながら、車に乗り込んでいった。
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私にはなぜか、異形となったことに対して、彼らが少しだけ喜んでいるようにみえた。
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この世界では動物と人間の境界が曖昧になり、代わりに異形かそうでないかという一本のラインが何者かによって引かれた。
その何者かは神様なのか、私たち自身なのかはわからなかった。
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そして、いろんな動物が、正常から異形へとそのラインを次々に乗り越えていった。
首と同じくらいに鼻が長いキリン、人間の口のように唇と歯のあるインコ、ムカデのような百本足のワニ…。
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人間もまた、例外ではなかった。
人間は他の動物と違って、思考する生き物だ。
しかし異形となってしまうと、その思考力が徐々に失われていくのだった。
動物園でみた彼らは、皆うつろな目をしていた。
彼らは一匹の動物として、他の目に晒されるのであった。
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しかし、檻の数には限界があるため、動物園に収容されるのは、よっぽど珍しいものに厳選された。
動物園の目的が、人々に(もっとも、ここでいう人々とは、一部の正常な者たちという意味であるが)娯楽と刺激を与えることであり、そのためには展示物の物珍しさは最優先の事項であった。
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それは人権よりも優先された。
檻に監禁されるのは、ある意味幸福なことでもあった。
檻から溢れた異形は行き場を失い、ある動物園ではゴミのように処分しているという話を聞いたこともあった。
そういう意味でも、動物と人間の違いなんて、今では全然意味をなしていなかった。
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先日、私の母にも発芽がきた。
彼女の背中からはドラゴンのトゲのように腕が3本並んで生えた。
その発芽の仕方はこれまでに類がなく、その珍しさから母は最高級の檻に入れられた。
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動物園にもランクがあった。
最高ランクのSランクの動物園は一部のお金持ちのためのリゾート施設のようになっていて、そこの檻に入れられる動物もまた丁重に扱われるのであった。
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母は、以前異形を目にして気絶していた面影もなく、意気揚々と業者に連れられていった。
その業者もまた、頭から尻尾が生えていた。
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いつのまにか世界の天秤は反対に傾いていて、以前の多数派が今では少数派となっていた。
かつては異形と呼ばれていた動物たちが「ヒト」とよばれ、正常な人間であった人たちは、発芽のきていない「異形」として扱われるようになった。
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そして、私は、いまだに発芽がきていなかった。
ある時、私のひとりぼっちの家に、腕の5本生えた男がやってきて、かつて父がつけられたようなタグを私につけると、その5本の腕で私を担いで車に乗せた。
彼はただ無表情にそれをおこなった。
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発芽がきた人は次第に思考力を奪われ、それが多数派となったいまではほとんどの人には感情や表情がなかった。
彼らは本能的に、一切を考えることなく、ただプログラミングされたように生きているのであった。
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私は家族3人で来たあの動物園に連れられて、ある檻に入れられた。
私の檻の前には、まだ少しだけ思考力の残っている人が書いたのであろう、「いまだに4本しか手足のない珍しい異形」と歪んだ文字のプレートがかけられていた。
私は4本しか手足がないのを証明するためなのか、衣服の一切を脱がされた。
女だとか、人間だとか、そんなことはもう通用しなかった。
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そして連日、私は人目に晒された。
見物人は、ただ本能的な娯楽と刺激を求めて、ぞろぞろと私を見にやってきた。
そのどれもが無表情にこちらを見つめていた。
私がその視線に耐えきれずに泣き叫んでも、彼らは眉ひとつ動かさなかった。
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私はこの状況を逃れる方法を考えたが、鉄の檻に入れられている以上、無駄だと思った。
そして、考えること自体、無駄なのだと思った。
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相変わらずの見物人の無表情に、私はもう何も感じなくなっていた。
目の前の群衆は、私の日常風景のひとつとして処理された。
どれくらいの時が経ったのか、私はもう何も考えることをやめていた。
といっても、いまだに私には発芽がきていなかった。
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しかし、もし発芽がきて外の世界に出られても、もはやこんな世界で生きていくこと自体、無意味に思われた。
自分に思考力が残されていることは、ただ自分に自殺という手段が残されていることのように思った。
無表情な彼らは、自殺ということすら考えられないのだろう。
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目の前の群衆を見ていると、自分がまだ幸福なように感じられた。
私は自殺をすることで、幸福なまま死ねるのではないか。
私が今、舌でも噛み切って死んだら、目の前の無表情はどのようになるのだろう。
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自暴自棄な思考は歯止めをきかず、私はもうすぐ本当に自ら死ぬのだろうと思った。
私は最期に、自分の死に目を見るのはどのような顔なのだろうかと、一人ひとりの顔をゆっくりと見てみた。
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ふと、その見物人のひとりに、いつか見た三つ目の女の顔を見つけた。
いまでは私が檻に入れられ、彼女が正常とみなされているはずなのに、私はそれでも、彼女の方が檻に入っているような錯覚を覚えた。
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彼女も他の人に漏れず、ただ無表情にこちらを見ていた。
もう髪はすべて抜け落ちて、額の目は白く濁っていた。
顔もやつれていたが、ただかつての彼女の面影が雰囲気として残っていた。
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かつて父に見られて恥ずかしそうに俯いていた面影が、その無表情の中にも感じ取れるような気がしたのだった。
しかし、彼女があのような羞恥を感じるようなことは、もう二度とないのだろう。
なんたってもう感情も思考力もないのだから。
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私は自分が死ぬことよりも、目の前の彼女のようになってしまうことが怖かった。
そう思うと同時に、自分がかつて彼女の羞恥に慰められていたことを思い出して、絶望した。
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あのときの私は、結局父や他の人と同じで、異形を見ることで自分の正常を確認して、それ以上何かをしようとはしなかった。
彼女のために何かできたはずなのに、ただ彼女の羞恥を見て安心していただけなのだった。
無表情で見ているよりも、よっぽど酷いことを私はしていた。
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そう思うと、私は涙が頬を伝うのを感じた。
私は、泣いてしまうことさえ煩わしく思った。
死のうと思っていた私は、どうして泣いているのだろうかと嘆いた。
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もう何も考えられなければ楽なのに。
私は声も我慢せずに泣いた。
どうせ誰も気にしないのだからと、顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。
鉄の檻に、私だけの音が、繰り返し繰り返し響いた。
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そのとき。
私は、彼女の3つの目から、透明な液体が流れるのを見た。
それは、確かに涙だった。
彼女の表情は相変わらずの無表情で、しかしその目からは美しい涙が溢れて、それを拭うこともせずに、泣き続ける私を見て彼女は泣いていた。
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感情のない彼女の涙は、何を意味するのだろうか。
私はそれを考えて、やめた。
ただ彼女は泣いていた。
それだけで、私はとても救われるように感じた。そして、これまで閉じ込めていた感情が、一気に爆発した。
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私はいままでの孤独を思って泣いた。
彼女への自分の仕打ちを思い出して、また泣いた。
彼女はそんな私を見ながら、ぼろぼろと涙を落とし続けた。
私と彼女は、そうしてしばらくは泣き続けていた。
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彼女は、泣く時でさえ無表情なんだね。
散々泣いて、次第に冷静になりながら、まだ涙を落とし続ける彼女を見て私はそう思った。
途端に、これまでに感じたことのない何かが、体の中に生まれるのを感じた。
それは、怒りのような、悔しさのような…。
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しかし私は、そんな後ろ向きな言葉ではなく、これは生きる気力なのだと自分に言い聞かせた。
そして、自分が発芽しない理由は、もしかしたらこのおかしくなった世界を救うためなのではないかと考えた。
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私に思考力が残されているのも、感情があるのも、他の人を思いやって、考えて行動しなければならないからではないか。
私は泣いている場合じゃない。ましてや、自分で死のうなんて、考えてはいけない。
生きる意味は、自分で決める。
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そして、私のために泣いてくれた彼女と、もう一度笑い合うんだ。
全身に力が湧く。こんな気持ちは、以前の世界では感じられないことであった。
私はいま、ものすごく幸福なのかもしれないと思った。
やるべきことが、私だけにしかできないことだとわかったとき、人はこんなにも満たされた気持ちになるのか。
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私は足に力を込めて立ち上がり、右腕で涙を拭った。
そのとき、私はその右腕に、何か違和感を感じた。
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不思議に思いそちらを見やると、
自分の涙に濡れた親指が、ありえない位置からひとつ、生えていた。
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私はそれでも、自分を幸福だと思った。
最後に抱いた感情が、決して絶望にならないように、何度も何度も、私は幸福なのだと、自分に言い聞かせた。
作者こわこわ