その頃小学校6年生だったボクの家は、父母と、そしてじいちゃんの4人暮らしだった。
じいちゃんは、前の年の始め辺りから体調を崩して、その頃はほとんど床に付していた。
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確かあれは、長い梅雨が明けて、ちらほら蝉の声が聞こえ始めた夏のある日のことだったと思う。
ちょうど夏休み中だったボクは、朝から外出していった父母に、留守番を言い付けられていたんだ。
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朝から広い仏間の真ん中に置かれた座卓の前に胡座をかき、夏休みの宿題をやっていた。
仏壇の前に敷かれた布団には、じいちゃんが横になっている。
布団の横には、じいちゃんが可愛がっていた黒猫の「ネコジロウ」が心配げに香箱座りしてじっとしていた。
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聞こえてくるのは縁側からの蝉の声と扇風機の風の音、そして時折じいちゃんの咳き込む声だけだ。
タンクトップ一枚のボクは、学校からもらった「夏休みの友」と懸命に格闘していた。
すると、「たつや~」という弱々しい声が背後から聞こえてくる。
ボクは立ち上がると、じいちゃんの枕元に座り、「どうしたの?」と呼び掛けた。
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紺色の着物姿のじいちゃんは、無精髭を生やした骨張った顔をこちらに向け、「たつや、お前にお願いがあるんじゃが」と言うと、激しく咳き込む。
ボクはじいちゃんの胸を擦りながら、「なに?」と聞いた。
じいちゃんは一頻り咳き込んだ後、天井を見ながらゆっくり語りだした。
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「今日わしを訪ねてお客さんがくるはずじゃ。
合図は車のクラクションじゃ。
もしそれが聞こえたら、玄関の鍵を開けてやって欲しい」
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お客さん?クラクション?
あまり深く考えず、ボクは素直に「ウン」と答える。
そしたら、じいちゃんは満足げに微笑み、また瞳を閉じた。
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それからボクはその日の課題を済ますと、しばらくネコジロウの蚤を採ってやっていた。
すると、だんだんと眠くなり、そのまま畳の上で寝てしまった。
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しばらく心地好い微睡みの沼にプカプカと浮かんでいると突然、
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shake
─パパア!~~~~~ン、、、
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車のクラクションの音で、ボクは意識を取り戻した。
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─じいちゃんのお客さん来たのかな?
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立ち上がり、仏間の襖を開けて、廊下を真っ直ぐ歩いて玄関まで行くと、扉の鍵を開ける。
「はい」と言いながら扉を開くと、目の前に腰の曲がった老婆が立っていた。
ボクはその顔を見た瞬間、背中が総毛立つ。
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日本髪を結い白い着物姿で、右手には提灯をぶら下げているのだが、その顔には皮膚がなくて、正に骸骨そのものだった。
老婆はギョロギョロとした眼球でボクを見ながら「有村源蔵さんはおられますかの?」と低い声で言った。
「じ、じいちゃんは今、寝てるんですけど」と言って後ろを振り向くと、驚いたことに、じいちゃんは真後ろに立っていた。
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「じいちゃん、大丈夫なの?」
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ボクの声が聞こえているのか、いないのか、じいちゃんはふらふらと磁石に引っ張られるように、ボクの横を通りすぎ、老婆の前に立つ。
老婆は「じゃあ、行こうかの」と言い、クルリと後ろを向くと、ひょこひょこと門に向かって歩きだした。
じいちゃんもその背中に従い、ふらふら歩きだす。
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「じいちゃん!」
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呼び掛けるボクの声に、じいちゃんは一度だけ振り向くと、悲しげな目をして微笑み、また前を向いた。
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門の向こうには何だろうか、箱バンくらいの大きさの巨大な真っ黒い毛むくじゃらな固まりがある。
その背中には、神社の社のような豪華な屋根があった。
じいちゃんは老婆に促されながら、黒い毛むくじゃらの中に、吸い込まれるように消えていった。
老婆も後に続き、消えていった。
するともう一度だけ、
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shake
─パパア!~~~~~ン、、、
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とクラクションが鳴ると、巨大な黒い固まりはゆっくりと四本の足で立ち上がり、のそりのそりと歩き始めた。
ボクは慌てて道路の真ん中に立ち、改めて黒い固まりを見た。
それはどうやら、巨大な黒猫のようだった。
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ボクは思わず「ネコジロウ!」と叫ぶ。
するとそいつは一回だけこちらを振り向き、大きな瞳をキラリと光らせて「にゃあ」と鳴くと、長いしっぽをクルリと巻いて、今度は天を見上げてピョーンとジャンプした。
じいちゃんと老婆を乗せた巨大な黒猫は、まるで草原を駆け抜けるように一直線に青空に向かって進んでいき、あっという間に雲の彼方に消えていった。
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狭い道路の真ん中で、ボクはただ呆然と立ち尽くし、空を見上げていた。
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…
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……
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………
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…………
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……………
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タツヤ!……タツヤ!……
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遠くの方からボクを呼ぶ声が聞こえる。
その声は少しずつ大きくなってきた。
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たつや!たつや!
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目を開くと、いきなり母の顔が斜め上から飛び込んできた。
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「あんた、寝てる場合じゃないのよ。
じいちゃんが、じいちゃんが、、、」
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そう言ってハンカチを顔にあてる母を横目に、ボクは起き上がり、仏壇の方を見る。
布団に仰向けになったじいちゃんの顔には白い布が掛けられていた。
枕元には父が正座し、うつむき加減で泣いていて、その向かいには白衣の男の人が正座していた。
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「ネコジロウ、ネコジロウは?」
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ボクの質問に、母は「あんた、こんなときに何を言ってるの?じいちゃん、死んじゃったんだよ」と、怖い顔をして睨む。
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ボクはしばらく立ったまま、じいちゃんを見ていたが、やがてゆっくり仏間を横切ると、庭側の障子を開け、縁側に降り立った。
折しも夕刻で、庭の木や石灯篭は鮮やかな朱色に色付けされている。
ふと見上げると、真っ赤に染まった夕焼け空がどこまでも広がっていた。
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いつの間にか頬からつたった暖かいものが、顎先からポトリと落ちた。
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう
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