たった今、歯医者で親知らずを抜いてきた。
歯を抜くのはいいとしても、そのために打った麻酔のせいで話せば舌を噛むし、よだれは止まらないしで不便この上ない。
医師は一時間ほどで効果が切れると言っていたが、あと三十分もこの苦しみが続くのかと考えたら嫌になる。
もうすぐ日没だし、これといった用事もないのでさっさと家に帰って麻酔が切れてからの晩酌の用意でもしておこうか。
そう思い、足早に家路を急いでいてふと足を止めた。
俺がいま歩いているこの抜け道は通ってはいけない道だった。
理由はどこからか老婆の霊とやらが現れて、ここを通らせまいと邪魔をしてくるらしい。
事の発端は、数年前に餅を喉につまらせた老婆が助けを求めて家から這いずりながらこの道まで出てきたのだが、無情にも助けは来ず、力尽きたという。
それ以来、ここを通る人間に這いずりながら助けを求めるそうだ。
それを無視して逃げようものなら、たちまち阿修羅のような顔にかわり、ムササビのように滑空しながらどこまでも追いかけてくるという。
つい最近までは口裂け女をパクった馬鹿らしい噂話だと思っていたが、それを裏付けてしまうような事故が起きてしまった。
この抜け道の先にある国道で、女子高生が車にはねられた。幸い命はとりとめたその子は「お婆さんが飛んで追いかけてきて、背中に覆い被さってきた」と証言したのだ。
それをきっかけに皆が信じるようになり、この道は管理の人が誰も通れないように封鎖したと聞いていた。
封鎖してあるのに、なんで俺はここにいる?それにきづいた瞬間、周りの空気が一気にピシッと張り詰めた気がした。
ズサ…
ズサ…
いやにクリアに、何かが這いずっているような音が近づいてくる。
「う、ウソだろ?」
恐る恐る音のする門壁に目をやると、門壁の下の三センチにも満たないわずかな隙間から、カタカタと不気味な音を立ててまるでFAX用紙を押し出すかのごとく、ペラペラな老婆がひねり出てきた。
「な、なんか聞いてたのと違う!」
俺は麻酔で麻痺したまま歯を食いしばってしまったせいで、舌を思い切り噛んでしまったようだ。鉄の味が半端ない。
後退りする俺にペラペラな老婆が風になびきながら恐ろしい唸り声を上げた。
ぐう…
く…ぐるじい…
たすけ…く…
だず…「く、来るなバカ!」
俺はその時、大事な事を思い出した。
たしか、この一反木綿老婆に出くわした時の対処法を聞いていた気がしたのだ。
だ…だずげで…
ぐるじい…
ぐる…「そうだ思い出した!」じい…
老婆は餅を喉につまらせて死んだ。だから老婆に向かって「餅」と叫べば、老婆は慌てて逃げていくというのだ。俺は迷わずペラペラに向かって叫んだ。
「もひー!!」
麻酔のまだ切れてない状態の俺の滑舌は、老婆をただ怒らせただけだった。
「もひー!もひー!」
老婆の顔はみるみる阿修羅のような顔になった。真っ赤な顔にはとんでもない数の血管が浮き出している。
「もひー!もひー!もひってひってんひゃん!!」
親知らずを恨んだ。麻酔を打った医師を恨んだ。ついでに歯科助手のお姉さんも恨んだ。そして腰が抜けて動けない、そんな情けない自分を恨んだ。俺は死を覚悟した。
その時、背後から誰かが叫んだ。
「餅!餅!餅ー!!」
「うんぎゃらぼっち!!」
すると、たちまち般若木綿と化していたペラペラDQN老婆が、苦悶と恐怖を顔にたくさん浮かべながら、まるでゴキブリのように民家の中へとすり逃げていった。
「た、助かった…」
俺を助けてくれた恩人は女子高生だった。話に聞いていた事故にあったあの子だ。
彼女はあの日以来、自分で歩く事もできなくなり、車椅子生活を余儀なくされている。
彼女は言った。
「私みたいにあのババアのせいで不幸になる人を見過ごせないの。私はいつかあのババアに復讐してやるわ。簡単に成仏なんてさせない。私は残りの人生の全てを使ってあのババアに嫌がらせしてやるの」
少々、口が悪いがこの女の子の思いは強い。
いま思えば、彼女の圧倒的な説得力と、その真剣な眼差しに魅了されていたのかも知れない。
「貴女は命の恩人です」
俺も残りの人生の全てをかけて、せめてこの女の子の足となって共に戦いたいと。本気でそう思った。
俺はその日から彼女の事を師匠と呼んだ。
そして、俺と師匠が血の滲むような修行を十年も耐え抜き、ムキムキにパワーアップしてまたあのペランペラン阿修羅のもとへと帰ってきたのだが…
それは、また別の機会に。
了
作者ロビンⓂ︎
ふう、また悪いクセがでました…ひ…