もう何年も前、1年間無償で借りられる家、という文言につられて新田(にった)さんはとある田舎の僻地にふらりと移住した。
「その時は何というか……全部嫌になっちゃって。社会人として働き出してからの社会の荒波とか、そういうの全部……。それで仕事やめて一回投げ出して……引きずられるようにして、その無償で住む人を探してるって家に」
田舎では、一定期間無償で家が借りられるというのは実はそう少なくない。
管理しきれなくなった物件を人に住んでもらう事で空き家にしない、というのは実は大きな意味を持つ。
空き家にしておくと動物が入り込むし、電気線なども傷みっぱなしになってしまう。
それならば家の管理のために誰かしらに住んでもらったほうが都合がいい……という事がままあるのだ。
「若かったから、田舎暮らしにちょっと憧れもあった。人と出会うこともあんまりない。車があるから少し遠くのスーパーに何日かに一回買い出しに行けばいい。働くのにずっと必死で貯金ばっかり、使ったことは一度もなくて……貯金を食い潰してなくなったら働こう、なんて甘いこと考えてた」
新田さんの心は疲れ果てていた。
だから田舎の薄暗い広い屋敷がとても風通しのいいがらんとした物静かな空間が心地よく感じられた。
「家具も何もかも揃ってた。少し前まで老夫婦が住んでたらしいんだけれど、2人だけでは広すぎるし病院が近くて手狭な所に引っ越すんだって言ってて……俺からすれば、どういう理由でも借りられるだけ有難いし……有り難く住ませて貰ったんだけどね」
新田さんは家と、庭、それから家具一式を引き受けた。
住み始めてから色々と不便な点も見えてくるようになったが、それもまた味のように感じられたし工夫次第ではどうにでもなる。
田舎の辺鄙な場所にある一軒家であたりにご近所さんなどもいない。
たった1人での生活だったが、電波はあるし電気も通っているし……なかなか快適な生活ぶりだったので、新田さんも“田舎ってこんなに住みやすかったのか”と驚いた位だったという。
「で、住み始めて2ヶ月位かなあ、経った頃……フッと牛乳のにおいがしたんだよね」
それは、一瞬の幻想のような“におい”。
居間の隣の和室を通ってもう一つ向こうの寝室に向かおうとした時、鼻腔にふわりと“牛乳のにおい”がした気がした。
「こう……ホットミルクからフワッとたつようなにおい……わかるかな……ちょっと甘い、牛乳の……一瞬、ほっこりしちゃうにおい」
それは、昼となく夜となくふわりと鼻腔をくすぐった。
「前の住民が何か溢したのが畳に染み付いているのかなって」
ただ、それにしては匂いが濃いような気がする、と思っていた。
「気になると匂いの元が知りたくなって、どこだろうって和室のいろんな場所を調べてみたんだよね……そうしたら、やっぱり畳からにおいがするんだよ」
和室のど真ん中の畳の1枚。
ちょうどその畳をすんと嗅いでみると甘い牛乳のような匂いがしているのがわかった。
「この畳に何か溢したのか……って、何となく納得してスッキリして……まあいっか、って」
とありあえずスプレータイプの消臭剤を畳に吹かけて、和室をざっと掃除する。
掃除をすると何だか無心になってしまい、そのまま日が落ちるまで家のあちこちを掃除して回った。
心なしかスッキリとしてやり切った気持ちになったし、せっかくだから……と新田さんはその日は早めに夕飯を食べて風呂に入り細々とした家事を片付けてさっさと床につこうとした。
――――カタン。
居間の隣、和室の襖を開けるとふわりとまた牛乳が香った。
「和室から“いま暖めたばっかり牛乳”のにおいがして」
(おかしい。昼間に消臭スプレーもかけたしその後に乾拭きもしたのにこの匂いはなんだ……?)
新田さんは再び畳を調べる事にした。
電気をつけて、顔を近づける。
やはり、畳から牛乳の匂いが立ち上っている。
「じっとよく見たら畳の目に何か詰まってて、茶色っぽい土みたいな」
しゃがみ込んだ新田さんは爪でカリカリと畳の目を引っ掻くとポロポロと何か土のようなものが浮いてきた。
指に、甘いような胸の悪くなるような牛乳の匂いが移る。
「……粉ミルクが完全にダメになっちゃったらあんな風になるのかも。茶色で、固まっててボロボロしてて……昼間見た時はそんなに思わなかったんだけどね……」
何度洗っても指から匂いが取れず、仕方がないから手にオーデコロンを振りかけて再び手を洗って、ようやく匂いがしなくなった。
「その日はそれで寝たんだけれど」
深夜。
急にぱちりと目が覚めてしまった。
さっきまで眠っていたはずなのに、眠っていた気が全くしない。今まさに床についたのかという程に意識もしっかりと覚醒している。
(はやく寝過ぎたかな)
掃除をしていい運動になったとはいえ就寝したのは9時を回った頃で随分とはやかった。
手元の携帯電話で確認すれば時間は深夜の1時頃。
「なんとなく思い付きで、袋麺でも作って食べようかと思ったんだよね」
新田さんは寝室の電気をつけて居間へ向かおうとした。
田舎の深夜、一切の物音がしない。
虫の声やたまに野生動物が草を踏む音を耳にすることもあるが、今日は何も聞こえない。
「その日はいやに静かだなぁ、って」
何の気なしに襖をするりと開けた。
和室が煌々と照らされる。
和室の真ん中。
あの畳の上に、見知らぬ女がこちらに背を向けて座り項垂れているのを新田さんは見た。
(……!!?)
思わず声をあげかけたがすんでの所で叫びを飲み込んで耐えた。
が、開けてしまった襖を閉める事もできず行動を起こせないまま新田さんはそのまま部屋の真ん中に座り込んだ女を注視するしかない。
「旅館の浴衣、想像つくよね?白地に一面綺麗に模様の入ったような、そういうのを着てる女がそこに座って揺れてたんだ」
女は新田さんの方を見る事もなく、ぶつ、ぶつ、ぶつ、と、何かを呟きながらぺたりと座り込んで身体ごと頭を上下に揺らしていた。
長い髪がわさわさと揺れている。
〈……て……た……て……べ……〉
(何……?なに……?なんか言ってる……)
新田さんはその声に耳を澄ませた。
〈たべ……てェエ……たべて、たべっ……ェて……たべ……ェ……〉
その女は甲高い声を引き攣らせながら、食べて、と。
仕切りにそう呟いている。
〈ァアアッ……タァ……た……べってぇ……たべてえ……ね……ねえェ……あのねえあのねえ食べてくれないの、あのねえ……このこ……食べてくれないのよお……〉
女がおもむろに立ち上がるとくるりと振り向いて新田さんに白いラグビーボールのようなものを投げつけてきた。
――――べちゃ!
後ずさるのとそれの白い塊が胸元に当たるのは同時だった。
そして、新田さんは……運悪く投げつけられたその白いものを腕の中に収めてしまった。
「うわぁあっ!?」
腕の中にあるもの。
それは何も着ていない血の気のない真っ白な色をした赤ん坊。
ラグビーボールのような形だと思ったのは腹が異様に膨らんでいるせいだった。
悲鳴をあげた新田さんが思わず手を離すと〈どしゃっ〉と水を含んだ泥か土を落としたような音がした。
足元に落ちた赤ん坊が仰向けに転がった。
新田さんの見ている前で、小さな口がかぱりと開いた。
喉の奥から何かが迫り上がってきているのか、こぽこぽこぽこぽと洗面台から水が溢れたような音をさせながら赤ん坊がどろどろの吐瀉物を吐き出しはじめた。
はち切れんばかりに膨れた腹を上下させるたび、口からは噴水のように吐瀉物が溢れる。
甘ったるい牛乳の匂いが足元から立ち上ってきた。
〈ねえ、このこ、たべさせてもおおきくならないの〉
右側から女の声がした。
新田さんは気が遠くなったのを感じた。
「それで、次に目が覚めたのが朝方。部屋中に牛乳の匂いがして……早朝だったけどもう怖くて怖くて、家を飛び出したんだ。車でコンビニまで行こうと思って……」
新田さんは胸の悪くなるような牛乳の甘い匂いを全身に纏ったまま早朝まだ日が昇り切らない時間に家を出た。
真昼間、日が完全に登り切ってから家に帰ると早々に荷物をまとめてこの家を貸してくれた老夫婦に連絡を入れた。
「……引き留めたりは、されなかったよ」
すぐにでも家を出たいと話す新田さんに老夫婦は「今日にでも出て行って大丈夫、家具も掃除もそのままでいい」と気落ちしたように話した。
「それでその日のうちに荷物を纏めて、もともと何も持たずにフラッと越しただけだから、身の回りのちょっとした小物ばっかり。すぐ車に詰め込んで、夕方には逃げた」
もう帰ろう、と、車でゆるゆると田舎道を走らせている途中。
引っ越した当日に挨拶に行ったずいぶん遠いお隣の家に住むお婆さんが畑仕事をしているのが見えた。
「挨拶しとこうと思って車を停めて声かけてんだ。もう引っ越すんですって」
新田さんはその言葉を聞いて隣さんがあからさまにホッとした顔を見せたのを見逃さなかった。
「あの家って何かあったんですか?もう引っ越すので教えてもらえませんか」
何としてでも聞き出そうと食い下がった新田さんに、隣に住むお婆さんは“絶対に私から話を聞いたと言う事を誰にも言わない”というのを条件に話をしてくれた。
「何十年も前だけど……あの家で女の人が赤ちゃんを育ててたんだって」
最初、あの家に住んでいたのは若い夫婦だった。
ただ何があったのか理由はわからないが女性が赤ん坊を出産してすぐに夫が身を眩ましてしまった。
この辺りは田舎の辺境で家と家の距離があまりにも遠い。
近所付き合いはあってないようなものだが、周りはできる限り気にはかけていた。
周りに住んでいた人々は、子供を背負ってスーパーに来ていた彼女を誰からともなく家まで送ったりして静かに見守っていた。
それでもやはりこの環境で子供を一人きりで育てるのには限界があったのだ。
とある時彼女は1人で大量の缶ミルクを買いにやってきて、その日以降、買い出しに来なくなってしまった。
「普通、買い出しって数日に一回は行くだろう。そんな様子だったから、もう何日も来なくて1週間経った頃にちょっと見にいかないかって話したらしいんだけど」
お隣の家の旦那、さらにその隣その隣と仲の良い数人で、女性の家に様子見に行ったそうである。
到着すると玄関は開いていて、声をかけても返事がない。
いやな想像がその場の全員に過ぎったそうで、すぐに広い部屋の中を女性と赤ん坊を探して回った。
女性は、あの和室にいた。
あたりにはミルクの甘い香りが充満している。
和室の真ん中で大きな丼鉢を抱えてスプーンで必死に何かを掬っては仰向けに寝ている子供の口に注ぎ込み続けていたのだ。
子供の腹ははち切れそうなほどぽこりと膨れて、口からは粘度の高いドロドロにとろけた白いものが溢れて流れて畳に染み込んでいた。
「……その人は和室で死んだ子供にずっとご飯あげてたんだって」
女性は、死んでしまった子供を育てていた。
液体だと溢れてしまうからだろうか、粉ミルクに水を含ませてペーストにしたものをずっと子供の口に詰め続けていたのだ、と。
「それ聞いて、もう二度と戻らないって心に決めて地元に帰ったの。やっぱ、タダって怖いんだなって思ったよね」
新田さんは地元に戻ったあと再び引っ越しをした。
田舎とは縁遠い、大都会である。
作者怪談夢屋