その日工場での深夜勤が終わり、パート達を入場口の方に見送りながら、工場内を通路だけ残して消灯して回っていた。
パートリーダーのMさんは一旦事務所に書類を上げてもらう必要があったため、Mさんだけは工場の入場口とは別の階段から一旦事務所に上がってもらい、書類を提出した後また元の階段を降りて工場内に入り、僕と一緒に通路を消灯しながら工場内に人が残っていないか見回りしつつ入場口に向かうことになっていた。
僕はMさんが書類を提出して降りてくるのを階段の下で待っていたのだが、なかなか降りてこないのですぐ近くの工具置き場で暇を潰すことにした。
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工場の管理者として勤務した経験のある方なら理解していただけるかもしれないが、工場内の全ての備品を毎日同じ定位置で保管・管理し続けるというのは、当たり前のようでかなり難しいことなのだ。
工具を例に取ってみても、毎日様々な人が定位置から工具を持ち出しては戻すということを繰り返している。
きちんと元の場所に戻してくれれば良いのだが、工具を使うということは何かしらトラブルがあったということであり、忙しさのあまり定位置に戻すのを忘れてしまうということが度々起こるのである。
つまりは、僕は今日も工具がきちんと揃っているかを確認しに行ったわけである。
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工具置き場には工具を引っ掛けるパネルが付いていて、サイズ順にきれいに並べられた工具が揃っており、抜け漏れは無さそうだ。
僕はパネルからラチェットレンチを手に取った。
ラチェットレンチは普通のレンチと比べると高価なのだが、ボルトを差す穴が片方向にだけ「カチカチ」と回るようになっているためボルトを回すのが非常に楽で、これがあると作業が捗るのだと上司に力説して買ってもらったものだった。
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ラチェットを指で回し、「カチカチ」と小気味良い音と感触をしばし堪能する。
「カチカチ、カチカチカチカチカチカチ」
「カリカリ」
「カチカチカチカチカチカチ......」
「カリカリカリカリ」
ふと顔を上げると、工具置き場の奥の暗がりに人影が見えて一瞬ギョッとした。
しかしよくあることだ。実習生の一人が僕を驚かせようと身を潜めて、ワッと声を出すタイミングを図っているのだろう。
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「カリカリ」
「さあ帰るよ。そんなとこいたら怪我するよ」
「カリカリカリ」
「もう気づいてるよ。もう帰ろう」
「カリカリカリカリカリカリ」
「カリカリカリカリカリ」
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ラチェットを回す音がする。しかし僕ではない。音はその人影が出しているようである。
「カリカリカリカリカリカリ」
人影がこちらに歩み寄ってくる。しかし工具は全部揃っていたし、ラチェットはパネルにある分しかないはずだ。おかしい。
「カリカリ...」
人影が非常口の緑色の光に照らされて、僕はその異様な姿をはっきりと見た。
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見た目は身長150〜160cmくらいの女で、赤い着物を着ており、頭はパサパサのおかっぱで切り揃えられ、顔はコケシのようにのっぺりとして凸凹感が全くなかった。
それが、首から上だけをひたすら右方向に回していた。
首を少し回す度に「カリカリ」とラチェットのような音を立てている。
「カリカリ、カリカリカリカリカリカリカリ」
「カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ」
目の前の光景に理解が追いつき背中に怖気が走った瞬間、それは首から上の回転と歩みをさらに早めてこちらに歩いてきた
僕は反射的に事務所の階段へと走り出した。
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事務所に上がると、Mさんと次長が談笑していた。
僕は今起こったことを二人に話そうとしたが、流石にオバケがいるとは言えないことに気づき、「不審者がいるかもしれない」とだけ伝えて三人で工具置き場を見に行った。
そこにはもう何もおらず、疲れてるんだよと言われて終わった。
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それからも僕は当たり前のようにラチェットレンチを使っているのだが、いつかまたあの「カリカリ」という音が聞こえたらと思うと、気が気ではない。
作者zki