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長編10
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ただそこにいた人

近頃、自分はまるで社会の癌ではないかと思うようになった。仕事帰りの夕方、憂鬱な俺はホームまでの階段を重い足取りで登っていた。

階段の一段一段を歯を食いしばって登るように、俺は身を粉にして毎日働いてきたつもりだった。しかし、四十年勤めた今の会社に、自分の居場所はないような気がした。

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若い頃はたくさんの人に求められ、羨望の眼差しを向けられていたはずだった。しかし昔の面影もないいまの俺は、上司や部下から次第に除け者にされていた。妻にさえ半年前に逃げられ、仕事でもプライベートでも孤独を感じつつ、それでもめげずにやってきた。

自分でも老化による体や脳の衰えを十分に感じている。それによって以前のようには仕事で成果をあげることができなくなったことも、痛いほど自覚している。

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ただ、時間は移ろい社会は成長し、周りの環境は刻一刻と進化している。その中で進化をやめた者は容赦なく淘汰される。ましてや進化どころか退化し始めた俺のような存在は、現状維持すらままならない。今の俺は誰がどう見ても、落ちこぼれの部類に入るだろう。

しかし、そんな俺とは違って、たとえ自分が進化しなくても、周りの作用によって常にトップに君臨する夢のような存在も一定数存在する。

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身近なところで言えば、優秀な部下のお陰で親子三代にして成功し続けている、うちの会社の社長が挙げられるが、最たる例としてふさわしいのは「癌」だろうと思う。

癌という病気は、その性質を変えずに最も恐ろしい病の座を結核から奪った。

それは新しい医療が結核を克服したからで、癌は進化も努力もせずに、人間にとっていちばんの脅威となり続けている。

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自分は変わらなくても、周りや環境が己を持ち上げる。ただそこにいるだけで、畏れ多いものとして存在できる。俺は癌のような存在に憧れていた。仕事で辛い日などは自暴自棄になり、癌になりたいとさえ思った。

しかし現実の俺はどちらかというと「社会の癌」であり、それは文字通りの意味しか表していない。…さすがに社会の癌は言い過ぎのような気もした。俺はあくまで真面目に働いてきたのであって、決して人を傷つけるような下劣な男ではないのだから。

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階段を登り終えた俺は肩で息をしながら、帰りの電車が来るのを待っていた。吐く息は白く、最も嫌いな季節がやってきたことを体で知る。それでも俺は、何十回も寒い冬を乗り越えてここまでやってこれた。健康な体に感謝しなくてはと思いながら、寒さで震える体をさすった。

…しかし一ヶ月後の今頃、病院のベッドの上での生活を余儀なくされることを、この時の俺は知る由もなかった。

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遅れてきた電車に不満を呟きながら、満員に近い車内に乗り込む。走り出した電車は不吉な未来を予告するように、甲高い軋みの音をあげた。

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駅からアパートまでの夜道は静かで暗い。ちょうど都市と田舎の間のような雰囲気の街では、俺によく似たサラリーマンをよく見かける。この街はまるで労働者が働き詰めの体を休めるためだけにあって、まだ八時なのに街全体が寝静まっているように思えた。

だから、横を通りかかった公園の暗がりから妙な声を聞いた時、隣で寝ていると思っていた人が実は起きていた時のような、どきりとした感覚に襲われた。

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それは男の声であり、二人の男が争っているような不気味なものであった。何かを言い合っているというよりはむしろ殴り合いか何かをしていて、そのために漏れるような言葉にならない声だった。

俺のいる場所から人の姿は見えなかった。想像される暴力的な光景を見たくなくて、この場から足速に立ち去ろうとした。しかし、公園の半分を通り過ぎた時、はじめて声の正体が案外近くにいることに気づいた。

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ちょうど手前に生えているブロック状に整えられた草の影で、二人の男が取り組み合っていた。草の途切れる部分から偶然に見えた男たちの様子は体格の違う生き物の異種格闘技戦のようで、大柄の男はすぐに小柄な方を組み伏せると、喉を絞って出したような声を漏らしながら、倒れた男の首のあたりを押さえつけた。

いや、目の前の男はもう一人の首を確実に絞めていた。もしかしたら俺は殺しの現場を目撃しているのではないかと悟った時、大柄な男の目と俺の視線がかち合った。

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「何見てんだごらあああ‼︎」

咄嗟に視線を逸らしたが、相手は俺の存在に気づいていた。慌ててその場を離れようと走り出したが、日頃の運動不足のせいで何度も足がもつれた。なんとか百メートル程走って家の角に隠れ、公園の方を見るが、男は追ってきてはいなかった。俺は大きなため息をつきながら、酷使した両膝を労わるように撫でた。

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はじめて自分の体が震えていることに気づいたが、決して寒さが理由ではなかった。俺は目が合った男の顔が忘れられなかった。鋭い眼光に噛みつきそうな口と歯、なによりも顔の右半分を裂くように走る生傷が、脳裏にこびりついて離れなかった。

男の顔をこれだけ確認できたなら、向こうもまた自分のことを覚えているのではないか。恐怖に身震いする俺の頭の中では、先程の光景が鮮明に蘇った。

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二人の男は、やはり殺し合いをしているように見えた。男の顔の傷は、小柄なもう一人の男の反撃によってついたものだろう。傷の具合からおそらく刃物を使ったのだろうが、大男はそれに物怖じせずに相手を組み伏せた。そして確かに、遠慮を知らない剛腕で、ぎゅうぎゅうと首を締めつけていた。

あの小柄な男は、今頃どうなっているのだろうか。もしかしたらもう殺されていて、そうであれば俺は殺人現場を目撃したと警察に連絡するべきなのだろうか。

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しかし、正義感に胸を揺さぶられる一方で、このような面倒なことに自分から関わる必要はないとも思った。俺は、ただそこにいただけなのだ。それにもし大男が自分の顔を覚えているとしたら、いつの日か復讐されそうで怖かった。

結局俺は男が追いかけてこないのをいいことに、びくびくしながらも無事帰路に着いた。その日の夜は寝つきが悪かったが、翌日からは仕事ばかりの日々に再び没頭し、一週間が経つ頃にはその出来事について、すっかり気にしなくなっていた。

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しかし、平穏な日々はある日突然に崩れ落ちた。ある平日の夜、仕事帰りの俺はいつものようにレジ袋片手にアパートまでの夜道を歩いていた。

例の一件があった夜以降、公園の前を通るのを避けていた。相変わらずあの時の男の強面を忘れられずにいたが、日々の生活は何も変わりなく、今日もいつも通り風呂に入って晩酌して、床につくのだろうと疑わなかった。

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だが、アパートの前に着くと、二階の廊下に人影を見た。その時はまだ平静でいられた。宅配便かなと思って目を凝らして見上げ、地上からははっきりとわからないその人影はやけに大きいなと思った時、俺はいつかのように必死に走り出していた。

二階に佇んでいたのは、間違いなくあの時の大男だった。彼はアパートの扉の方ではなく、道路のあるこちら側を見ていた。おそらく俺を待っていたのだろうと思った。そういえば彼が立っていたのは、俺の部屋の前だった。

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ちらりとしか確認できていないが、男の顔には傷があった。その鋭い目つきは確実に俺をとらえていて、彼は笑っているように見えた気がした。彼は自分のことを、この一週間探し続けていたのだと思った。

もしかして、あの男はヤクザだったのか。殺しの現場を見られたから、組織の仕事として、並外れた情報網を使って俺を捕らえようとしているのか。あるいは、ただのチンピラなのか。だとしたら、なぜまだ警察に逮捕されていないのだ。

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彼が追いかけてきているのかはわからなかった。しかしもしも追いかけてきていた場合に捕まらないため、俺は紐を絡ませるように右へ左へと街の十字路を駆け巡った。

そしてやっとの思いでたどり着いた町外れのコンビニでひと息ついた時、俺の体は震えていた。今度の震えの理由は怒りだった。なぜ俺がこんな目にあわないといけないのか。あいつこそが、社会の癌だ。憎しみに満ちた感情が頭にこびりついて離れなかった。俺は結局コンビニで一晩過ごし、次の日の朝、満身創痍の体で出社した。

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…しかし、それはこれから続く悪夢のような日々の入り口に過ぎなかった。その日の夜も、男の影がアパートの部屋の前を塞いでいた。俺は寝不足で倒れそうだったがそれでもなんとか走ってその場を離れ、会社の近くのビジネスホテルで過ごした。

次の日も、その次の日も、俺は部屋に入れなかった。流石に警察に相談しようと思い立ったある日、俺のスマホに電話がかかってきた。

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「逃げられると思うなよ」

その一言で電話は切れたが、俺はその声の主が間違いなくあの男であることを確信した。それは俺に向かって怒鳴った時のしゃがれた声と同じだった。

そのような電話は毎日かかってくるようになった。会社には通い続けていたが、本当は何もかも放り出して一刻でも早く遠いところに逃げてしまいたかった。

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スマホの画面に非通知の着信が表示されるたびに、自分の心は削られていくような気がした。ある電話では警察に相談したら実家に危害を加えるとも言われた。もうアパートには何週間も帰っていない。男の声を聞くのが怖くて通話に応じるのをやめると、翌日から会社の方に連絡がくるようになった。

もう、どこにいても逃げられないのだと思った。あの日から一ヶ月経ったある日、寝不足の頭の中で男の声が四六時中響くようになった俺は、唯一男から逃げられる手段があることに気づいた。

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四十年以上勤めてきた会社を辞める決意がやっとついた。会社の人たちは特に引き止めることもなく突然の退職に同意した。その二日後、俺は再び会社の前に立っていた。顔馴染みの守衛は忘れ物と言ったらあっさりと俺を通してくれて、これまでの苦労を噛み締めるように、ビルの階段をゆっくりと登った。たどり着いたのは屋上だった。俺はもう死ぬつもりだった。

あの男から逃れるには、これしかなかった。どうせ死ぬなら、この会社の屋上から飛び降りて死にたかった。会社の中での自分の居場所は、この屋上だったのかと思った。しかし俺はもう、その唯一の居場所でさえ手放すつもりでいた。

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そして何十メートルも下の地面に向かって身を投げた。…しかし、俺は死ねなかった。

地面に激突する寸前、偶然にも真下に立っていた女性と目があった。俺たちは互いに叫ぶこともなくぶつかり、結果彼女は即死した。俺は、彼女のお陰で、一命を取り留めることになった。

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俺は一命を取り留めた。

しかし、この一件のせいで健康だけが取り柄だった体に障害を負った。一生歩くことができなくなり、病院のベッドでの生活を余儀なくされた。また自殺未遂のショックで、これまでの記憶を失っていた。俺は何か忘れてはいけないことがあったはずだと案じつつも、なにひとつ思い出せないまま、絶望する日々を送っていた。

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…気づけば病院での生活は、すでに半年が経とうとしていた。

「そこにいるだけって感じだもんね」

ある時、看護師たちの会話が聞こえた。消灯後、周りが寝静まった部屋でひとり起きていた俺は、ベッドを区切るカーテンの向こうで看護師の女性二人が自分のことを話していることに気づいた。

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彼女たちは俺の世話が楽だと言った。ひとりで歩けないから徘徊の心配がなく、何に対しても従順なので扱いやすいらしい。

俺は他人から聞かされた自分の評価に嫌気がさした。なんてつまらない人生なのだ、俺の居場所はここではないと自暴自棄になり、自分を閉じ込めるこの病院からすぐにでも抜け出したい衝動に駆られて、ベッドの上で必死にもがいた。

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病院から逃げ出したいと考えた時、俺は自分が何かから逃げているという忘れていたはずの記憶を思い出した。一度火のついた記憶は瞬く間に脳裏で蘇った。俺はある男から逃げていたのだ。まるで地獄にいる鬼のような、眼光は鋭く口が大きい、顔の右部分に傷のある男の顔…。

看護師たちが去った後も、俺は地獄の底に落とされたような気分で寝つけなかった。目を閉じると暗闇にあの男の顔が浮かんでくるような気がして、誰でもいいから自分のそばで話し続けていて欲しかった。

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その時、誰かがこの部屋に入ってくる気配がした。ゆっくりと扉が開き、カーテン越しに再び人の立つ気配がすると、俺はなんだか涙が出そうになった。

カーテンにかすかに映る人影は、大きかった。それがさっきの看護師のものでないことは一目瞭然だった。

音が立たないくらいにじわじわとカーテンが開くと、思い出したばかりの男の顔が、現実のものとなって笑いながら言った。

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「逃げられると思うなよ」

俺はあの時死ねなかったことを、心の底から後悔した。

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翌朝、〇〇病院に務める寝不足の私は、昨日の失態を反省しながらある病室の扉を開けた。

いくら最近プライベートがうまくいかないからって、ストレス発散として、患者の目の前で悪口を言うのはあからさますぎた。

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でも、いつまで悩んでいても仕方がない。私はそう割り切って、明るい声で患者ひとりずつに声をかけていった。やがて例の患者のカーテンの前にきた。私は少し躊躇いつつも、意を決して勢いよくカーテンを開いた。

「おはようございまーす!」

しかし、私は唖然として立ち尽くしてしまった。そこにいるはずの患者の姿はなく、乱れた布団だけが人のいた形跡を残して朝の光に包まれていた。

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ふとベッドのそばの窓が開いていることに気づいた。ここは四階だった。最悪の想像が頭をよぎり、もしかしたら私の悪口が原因なのかと思うと血の気がひいた。よろめきながらもおそるおそる窓の下を覗き込んだ。だが、患者の姿はそこにもなかった。

私は訳がわからずにおぼつかない足取りをそのままに、部屋を出るとナースステーションへ向かって走り出した。師長に怒られるのかと思うと億劫な私は、いなくなった患者のことを呪いたくなった。

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しかし、彼の顔を思い出そうとしても、自分が少しも覚えていないことに気づいた。ただそこにいたはずの人は、もうどこにもいなくなった。

結局彼の行方はわからず、私が彼の顔を再び思い出したのは、事件沙汰になってから一週間後のことだった。

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仕事からの帰り道、公園で誰かが大男に首を絞められているのを見た。

苦しそうにもがく小柄な男は、たしかに行方不明になった、あの男の顔だった。

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