「警察と泥棒」 第一章 相原健人の部屋

長編14
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「警察と泥棒」 第一章 相原健人の部屋

寒さを感じて目が覚めた。たしか自分は炎天下を歩いていたはずで、寒さはともかく、こうして眠りから覚めること自体が現実的ではない。現在までの成り行きを思い出そうにも記憶が曖昧で、そのうえ視界もぼやけているが、目を拭おうにも手が動かない。

相原健人(あいはらけんと)は寝起きのモヤのかかった世界が晴れるまで、冷房によるものとは違う薄寒さに耐えながらじっとしていた。

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視覚に頼らなくてもわかることはあった。健人は自分が手を動かせない理由を、触覚と聴覚で理解した。この空間の冷たさを凝縮したような金属の感触が、半袖から伸びる両腕をまとわりついていた。

また、手首には重みのある金属の輪がつけられていて、自分の座っている椅子と繋がっている。揺らしてみると、乾いた鉄の擦れる音が否が応でも耳の奥まで届いた。それだけで、自分がいま置かれている非日常的な空間を感じることができた。

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しかし、目が冴えるにつれ、その非日常は次第に鮮明さを帯びていった。もっとも、周囲は淡い電灯で照らされている他光源がなく、視覚が回復したところで辺りは薄暗かった。

まばたきを繰り返しながら周りを観察する。それは自分の見慣れてきた光景で、夏休み真っ只中の今、この光景からはしばらく遠ざかっているつもりだった。健人が座っていたのは、誰がどう見ても学校の教室の真ん中だった。もちろん、普通の教室とは明らかに違う点もいくつかあった。

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いちばんの相違点は、何よりも、自分を縛りつける手錠だ。よく見ると足にも枷がついていて、立ちあがろうにもすぐに椅子に引き戻されてしまう。また、教室のようなこの部屋には窓がなく、床の質感も一見すると木のようであるが、よく見ると無機質なコンクリートのざらざらとしたものだと確認できた。

しかし健人がこの部屋を教室と判断した最大の理由は、目の前の壁に設置された大きな黒板だった。

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その黒板には白い文字が書かれているが、薄暗い今の状態ではとても読めそうになかった。黒板のうえには丸い壁時計がつけられていて、盤上にあるはずの針は確認できないが、それも光源不足のために見えていないだけかもしれない。

誰が、どのような目的で自分をこの部屋に閉じ込めているのか。肌寒さとは別に体の内側から悪寒が走る。僕はグループのみんなとデパートで遊んでいたはずだった。そして遊び疲れた僕たちは外に出て…。

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そこで健人の記憶は、鬱蒼とした森を抜け出したように開けた。そうだ、思い出した。僕たちは、あんな路地裏の道を通ったばかりに、こうしてどこなのかもわからないところに連れられる羽目になったのだ。

論理的でないことは許せないと雅志(まさし)に反対されてもなお、強引に路地裏へみんなを連れ立ったのは、紛れもなくあいつだ。グループの中で、いや、日本中の、世界中の誰よりも僕が嫌いなあいつの顔が、憎しみの感情とともに脳裏によぎった。

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その時、バッという音とともに黒板の上の蛍光灯が、薄暗い空間で一際明るい光を放った。同時に、ライトアップされた黒板の文字が鮮明に浮き上がって見えた。いや、それよりも…。

健人の目は黒板のうえ、壁にかけられた時計の盤上に向いていた。そこにはやはり針はなかったが、代わりに長方形の枠内にデジタル数字で15:00と表示され、その数字は単調な音とともに少しずつ減っていった。

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カウントダウン。健人は突然始まったそれに動揺を隠せないでいた。十五分後に、僕はどうなってしまうのだろう。今更ながら恐怖の実感が追いついてきて、体の震えがとまらなかった。

そして、自分をこんな目にあわせたあの男の顔を思い出して、頭の中で殴りつけた。今回のことだけじゃない、何もかもあの男のせいなんだ。そんなことをじくじくと考えている間にも、盤上の数字は刻々と削られた。

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健人は仕方なく、黒板の文字を追うことにした。白のチョークで書かれた文字は整っていて、その筆跡はどこかで見たことのある気がした。

しかし美しい文字とは裏腹に、その内容は恐ろしいものだった。この建物には自分の他に四人が収容されていること。各々の部屋は縦並びに配置され、十五分以内に手元のボタンを押すとタイムアップと同時に床が"落ちる"こと。

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さらには、ボタンを押せば階下の者を殺す可能性はあるが、自分は確実に助かること。反対に押さなければ、自分は他の誰かの選択次第で死ぬかもしれないこと…。

ここでいう"四人"とは、今日一緒に遊んでいたグループの四人で違いないだろう。また、健人は黒板の文字を読んで初めて椅子の右手部分にボタンがあることに気づいた。今はぼんやりと赤く光っているが、もし完全に押せば、煌々と光り輝くのだろうと想像した。

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でも、押せるわけなかった。いくら自分の命が惜しくても、仲間を蔑ろにできるわけがない。

その"仲間"に、当然あいつのことは含めなかったが、万が一自分の手で彼に復讐できるとしても、きっと自分は躊躇うだろう。何より、自分の復讐によって楓(かえで)を悲しませたくはなかった。

しかし、黒板に書かれた最後の一文を読んで、健人の決意は大きく揺れ動いた。

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「最後に、あなたの上下の部屋にいる者の名前を、上の階の者から順に以下に示す」

その文の下には、相原健人ともう一人、瀬戸秀太の文字が縦に並んでいた。名前は二人分だけで、相原健人は紛れもなく僕だ。そして、瀬戸秀太は僕の名前の下にあった。健人はしばらく書かれていること以上の意味を理解できないまま、二つの名前を呆然と見つめていた。

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やがて、それは自分にとって疑いようがないくらいに好都合な情報だと気づくと、思わず笑みをこぼさずにはいられなかった。自分の名前の上が空欄ということは、僕の上の階には誰もいない…?

それよりも。僕の下には"あいつ"がいる。

瀬戸秀太。

それが、これまで執拗に僕をいじめてきた、世界一嫌いな男の名前だった。

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僕たち五人が、グループなんていうひとまとまりの存在で周りから認知され始めたのは、今から二年前、中学三年生の夏頃だった。受験生にとっての天王山である夏から逃げるように僕たちは集い、それでいて誰よりも夏のそばにいた気がする。

中学三年生の夏休みは、なぜか特別な感じがした。部活を引退し、勉強のことを考えなければ膨大ともいえる暇な時間の中で、あの頃の僕たちはもっとも中学生を謳歌できていた。

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そして、秀太、楓、雅志、萌香(もえか)と過ごす時間は、学校も部活もない夏休みという白色のキャンバスに、様々な色をつけてくれた。僕たちはいろんなことをして遊んだけど、中でもケイドロは数ある遊びの中でもいちばんのお気に入りだった。ちょうど学校の近くに適度な広さの公園があったから、夏期講習の合間を縫っては五人で集まって子どものように駆け回った。

でも、そのケイドロが原因で、僕は秀太にいじめられるようになった。

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始まりは、僕が"泥棒"の時、"警察"だった秀太から逃げようとして、公園の脇に生えた木の枝にぶら下がったことだった。そして、彼は何としても捕まえようと、やっと手の届く高さにある僕の足を掴もうと飛び跳ねていた。

ふと、僕は握っていた枝から手を滑らせた。なんとか地面に落ちることなく持ち堪えたが、秀太が僕を触るのに十分な高さまで体が沈んでいた。

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僕はその手から逃れようと、腕を曲げて枝に体を引き寄せた。一方で秀太は、ジャンプして僕のズボンを掴んだ。上に行こうとする僕の動きと下に引っ張ろうとする秀太の手が、ベルトのないズボンを容赦なくずり下げた。

そして次には、僕はズボンが完全に脱げた状態、つまりパンツだけ履いた下半身のまま、枝に宙ぶらりんにぶら下がっていた。

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たった、それだけ。

それだけのことで、僕は対等なグループの一員から、みんなを笑わせて場を盛り上げるためのお調子者要員に成り下がった。自分を笑うその時のみんなの顔を、僕は絶対に忘れない。中学生なんてまだまだ幼稚で、パンツだけで一日中笑うことができた。僕もみんなに合わせて笑った。でも次の日も、その次の日もみんなが笑うから、次第に僕は嫌気がさした。

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「もうそろそろ、いい加減にしてよ」

ある時僕は、揶揄うことをやめてほしいと勇気を持って伝えた。さすがにみんなも僕をいじることに飽き始めていて、ただやめるタイミングがわからないだけのようだった。僕が言い出したことでどこかホッとした様子さえ見せる人もいた中、秀太だけは違っていた。

「何言ってんだよ、お前は俺たちの笑いを奪う、"笑い泥棒"だ!」

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そして彼はグループの誰よりも立派な体格を武器に、僕の両手首を大きな手で掴みまとめると、もう片方の手でズボンに手をかけた。僕はあれ以来ベルトをつけるようにしていたから、すぐにはズボンは落ちなかったが、その分長い時間、みんなの前で辱めを受けた気分だった。

もう、誰も笑わなかった。そう言いたかった。

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しかし、さっきまでみんなはあれだけ僕の勇気に納得してくれたのに、いざズボンが下がってパンツが見え始めると、秀太に合わせて笑うのだ。僕は他の四人とはもう立場が違うのだと、その時ようやく理解した。僕はもう、本当の意味でグループの一員ではなくなっていた。

もしあの時、僕が"警察"で秀太が"泥棒"だったら、違う未来になっていたのだろうか。そんなことを毎日考える僕の心は次第に曇っていき、そして心なしかその曇りは、グループ全体に広がっていくような気がした。

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そして黒色という何よりも強い色がグループの内側に滲み始めると、元通りの鮮やかな色は二度と取り戻すことができなくなった。楽しいはずの夏休みが終わると、僕たちの関係は少しずつ変わっていった。まるで秋の日が落ちるように、少しずつ、確実に、僕たちは以前のグループではなくなっていった。

それでも高二になった僕たち五人は、いまだに"グループ"のまま、しかしそれぞれの高校生活を楽しく送っていた。はずだった。

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グループはもう以前の形ではなくなった。それは僕の責任かと言われれば、首を傾げたくなる。悪いのは、全部あいつだ。秀太が僕をいじめたりするからで、僕は何も悪くない。

中学の頃のいじめはまだ優しかったのだと、冷たい椅子の上で健人は思った。現在進行形で続いているいじめの内容を思い出すと、いつもはらわたが煮え繰り返りそうになる。

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僕は、高校生になっても瀬戸秀太という男から逃れられなかった。あいつはいつまでも幼稚で、いまだに人のズボンなんかをずらそうとしてくる。でも、そのやり口と体格だけは高校生になっていて、それに彼には、グループのみんなとは別の仲間もいた。

健人は椅子につながれた手錠に、あいつに両手首を掴まれた時の感触を思い出していた。冷たい鉄よりも、汗に濡れた生暖かい"手錠"こそが、これまで僕を縛りつけ苦しめてきたのだ。

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あやうくボタンを押しそうになるのを、すんでのところで耐えた。時計を見ると、数字は7:30まで減っていた。タイムリミットまで半分の時間を使って、秀太に対する復讐心は健人の内に少しずつ成長していった。

上の階に誰もいないということは、ボタンを押す押さないに関係なく、自分が死ぬリスクはない。そのうえでもしボタンを押せば、あいつを"殺せる"かもしれない。健人はこれまで感じていた恐怖心の一切を失い、いまや自分の願望を叶えてくれる赤いボタンを、まるで玉座に座った気分で丁寧に撫で始めた。

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その時には楓に対する申し訳ない気持ちは微塵もなく、むしろ楓の存在は、健人の復讐心にさらに火をつけた。

健人が秀太を憎んでいる理由は自分に対するいじめだけではなかった。江崎楓。健人が想いを寄せている彼女は、グループができる前からずっと、秀太の彼女だった。

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中学生の時から秀太は楓と付き合っていて、今思えば馬鹿な秀太が他の四人と同じ高校に入れたのも、楓が好きだから猛勉強したからなのかもしれない。でもそのせいで僕は相変わらず秀太にいじめられる羽目になったが、もはやそんなことはどうだっていい。

ただ、秀太みたいな奴が、楓と付き合っていることが許せなかった。もし楓が自分の彼女になるなら、僕はどんな試練にだって耐えるつもりでいた。

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すらっとした体躯。白くて細長い手足。肌の色とは対照的な肩まで伸びた濃い黒髪。どこか物憂げな瞳とその上にかかる長いまつ毛。笑うと頬に小さなえくぼができるところまで、彼女のすべてを完璧だと思った。

でも完璧な容姿とは裏腹に、内面は何かが欠けているような危うさがあって、なんとなく僕は、彼女を一目見た時から、自分と似ていると思った。何かに負い目を感じているような彼女の心を、体を、自分のものにできるのなら…。

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僕の内に湧き出るのは、そんな彼女を独り占めにする、秀太に対する嫉妬心に違いなかった。しかし、それは今では違う感情へと姿を変えていた。

楓への失望、そして憎悪。楓はどうして秀太なんかを選ぶのか、もしかしたら楓の方から秀太を誑(たぶら)かしているのではないか。そんな根拠もない思考に苛まれ始めた時、僕はもう誰とも関わりたくないと思った。

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グループなんて、いっそ抜けてしまえばよかった。そうすれば、今こんな目に合っていないし、苦しい思いをせずに済んだかもしれない。

僕も"あの子"みたいに、グループを抜けてしまえばよかった。

…ふと思いついたその言葉に、健人ははっとした表情で固まった。

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違う。"あの子"は、自分からグループをやめたんじゃない。

僕が、グループを抜けさせたのだ。

その時、脳裏によぎる記憶の中で、一人の少女がこちらを見ていた。冷たさと愛嬌を兼ねたような楓の瞳とも、垂れ目がちな萌香とも違う、すっとした一重瞼のあの子の目が、記憶の中で自分を見ていた。

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そしてその目は、秀太を見る時の僕の目と同じだった。

僕も、"彼女"をいじめていたのだ。

その記憶は今まで頭の奥底に閉じ込められていて、これまで自分にとって都合のいいことしか思い出してこなかった。僕はいつまでも被害者でいたかったのだ。今でも秀太にいじめられることで、自分がかつて加害者だったこと忘れようとしていた。

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中学三年の夏休み、僕たちのグループは五人ではなく六人だった。そしてもう一人、彼女を誰よりも溺愛する"教師"のことが思い浮かんだ。

あの子をいつも気にかけていた、煙草の好きな一人の教師の顔。いつも達磨のキーホルダーを腰のあたりに身につけていて、黒板をチョークで叩くたびにさくらんぼのように揺れる赤い残像。そして、几帳面に書かれた黒板の板書を生徒が書き写すのを待っている時の、じとりとした含みのある視線…。

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黒板の文字。

ふと、健人は俯きかけていた顔を上げた。目の前の黒板に書かれた文字は、記憶の中のそれと瓜二つだった。

まさか。僕はどうしてこのような状況に置かれているのか、すべてを知った気がした。

これは"彼"の、僕たちに対する復讐。

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いや、正確には、僕たちではなく"僕"に対する復讐なのかもしれない。だって、あの子を不登校にさせたのは、紛れもなく僕なのだから。

それに気づいた今、他の四人はすべて僕が陥れた被害者だった。秀太でさえ、この状況に置いては被害者だ。

加害者は、僕だった。

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健人はがっくりと項垂れた。両手をだらりと前に突き出してしまいたかったが、椅子につながれた手錠がそれをさせなかった。

彼はもう、生きる意味を見失っていた。これまでのすべてが間違っていたのだと彼は思った。中学で起きた何もかもをなかったことにして、高校生活を楽しみたかったのに。でも、それは自分勝手なエゴで、今の今まで封じ込めてきた過去の記憶は、決して無に帰すことはできない。

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ましてや、健人は"あの子"の人生を台無しにしていた。自分ばかりが被害者だと信じて、決して己の罪に向かい合おうとしてこなかった。そんな奴が、自分だけこの先の人生を楽しむことを誰が許すのか。楓の彼氏になんて、誰がなれるものか。

自分はもう生きる意味がないのだ。彼は死んでも構わない気持ちで、最後に、秀太を自分の手で殺すかどうかを考えた。どうせ僕は罪深い男だ。残り二分を切ったタイマーの音が、彼の思考を急かしていた。

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黒板の名前があいつと二人きりなことを、健人は狂いたくなるほどに嫌悪した。もし上の階に楓がいるのなら、今の自分は大声で楓にボタンを押すよう頼んでいるかもしれない。楓になら殺されてもいいように思えた。もちろん聞こえるかわからないが、そのために恥ずかしげもなく愛の言葉を叫んでいるかもしれない。それなのに僕の上下の部屋には、ただあいつがひとりだけ…。

健人は自分の顔から血の気がひくのがわかった。もうひとつ、気づきたくもないことに気づいてしまったから。

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「もし上の階に誰かがいたら」と思うことは、「実際は上の階には誰もいない」ということに等しい。

そうであれば、他の四人はみな自分の階下にいるということになる。もちろん楓も、いくつ下にいるかはわからないが、自分よりも階下にいることは紛れもない事実である。

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「そんなの、ずるい」

健人は弱りきったか細い声で呟いた。自分は決して秀太を殺せないことを悟ったために、彼は大きなため息をついた。

もし、自分がボタンを押せば、秀太がボタンを押さなかった時には彼を殺せる。しかし、秀太が健人の思惑に気づいて、そのためにボタンを押した時には、秀太の階下にいる誰かが命の危険に晒される。

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その誰かは楓かもしれないし、残り二人のうちの一人なのかもしれない。しかし、少しでも楓を危険な目に合わせる可能性がある限り、自分にはボタンは押せないように思った。

グループの仲間を信じて、全員がボタンを押さないか、それとも全員がボタンを押すか。僕たちが誰も傷つかずに生き延びるには、この二択しかない。

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でも、それは単純な二択ではなく、たとえ全員が助かったとしても、ボタンを押した以上は、もう二度と以前の関係には戻れないだろう。いや、グループなんてなくなってしまえばいい。いま健人を苦しめるのは、決してグループに対する愛情なんかじゃない。

みんながボタンを押すか押さないか、それはいちばん上の階にいる自分次第だという感覚が、彼を時間いっぱい悩ませる理由になっていた。

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と同時に、自分だけは確実に助かるという安心感が、彼を自暴自棄へ誘おうともしていた。唯一ボタンを押さなくても死ぬリスクがないのは、自分だけ…。

…本当に、そうか?

その時、部屋全体がボタンの色と同じ、ぼんやりとした赤い光に染まって点滅を始めた。時計を見ると、すでに残り一分を切っていた。

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彼は頭を抱える代わりに、やるせなく天井を見上げた。最初に状況確認をしようと辺りを見回した際、天井だけは見ていないことを思い出した。

視線を上に向けた彼は、目を見張った。

そこには頭を潰しやすくするためか、分厚い鉄板が仕込まれていた。

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健人は粘ついた唾を飲み込んだ。自分だけが安全なんて、そんなことあるわけないのだ。"彼"がもっとも殺したいのは、おそらく僕なのだから。じゃあ僕は、ボタンを押すべきなのか?

寒さに震えていた体は、いつしか沸騰しそうなくらいに熱くなっていた。鎖に巻かれた腕を無意味に振ってみるが、当然それはびくともしない。

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生きる意味なんてわからないと思っていた彼は、どうしようもなく生きたいということに気づいた。残りのカウントダウンが10秒を切った時、彼の頭に浮かんだのは、以前二人きりで話した時の、楓の物憂げな笑顔だった。

誰もいないはずの上の階から、かすかに人の足音が聞こえた気がした。やがてタイムアップと同時にその足音を掻き消すように、学校のチャイムを模したブザーが鳴り響いた。

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健人はまるで試験を終えた後のように、ゆっくりと静かに、目を閉じた。

建物全体がひとつの生き物のように動き出したのは、それからまもなくのことだった。

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第一章 相原健人の部屋 了

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