これは僕が高校生の時の話だ。当時僕は犬を飼っていた。とても利口で、フリスビーで遊ぶのが大好きな柴犬だった。帰宅部だった僕は、学校が終わるとすぐ家に帰って、暗くなるまでポチと一緒に公園で遊んだ。
ポチというのが、その犬の名前だ。覚えやすい名前と人懐っこい性格のためか、近所の人にもよく可愛がられていた。散歩に出た時なんかは、歩く時間より人に撫でられる時間の方が長いのではという日もあった。それくらいにポチは、みんなに愛される犬だった。
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ある日の放課後、いつものように公園でフリスビーをして遊んでいた。僕が投げて、ポチが取りに行くという単調な遊びだった。ポチは相変わらず楽しそうだったが、僕の方が少し飽きてきた。だから遊びに変化が欲しくなり、僕は出来るだけ遠くへ投げてみようと思った。
毎日投げていた甲斐あって、僕が全力を出すとフリスビーはかなり遠くまで飛んでいった。ポチは驚いた様子もなく、すぐに落下地点へと駆け出した。その公園はかなりの広さで、その敷地の端の方は芝生の代わりに雑草なんかが生い茂っていた。
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僕の投げたフリスビーはそんな伸び放題の草の中へと飛んでいき、ポチも後を追って飛び込んでいった。はじめは、ためらいなく草の中に消えていったポチがおかしくて笑っていた。しかし、いくら待っても戻ってこないから、僕は茂みの方へ探しにいった。そこの草は腰あたりまで伸びていて、名前を呼んでも一向に姿を現さないから、草をかき分けないことには見つからないと思った。
僕は腕が痒くなるのを我慢しながら、草の間を探し回った。
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しかし、全然ポチは見つからなかった。それどころか、先にフリスビーの方を見つけてしまった。フリスビーの落下地点よりもポチが遠くへ行くはずはないと考えていたが、それよりも手前はすべて探し終えていた。その公園は森と呼べるような木々で囲まれていて、つまり茂みの奥は鬱蒼とした木ばかりが生えていたから、ポチはひとりで森の中に入ってしまったのだろうか?
そう考えると心配でたまらなかったが、すでに日は傾きかけていた。結局その日はポチを見つけられないまま、涙ながらに家へと戻った。
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翌日から必死にポチを探した。公園だけでなく、公園の周りの住宅地なんかも名前を呼びながら隈なく歩き回った。そんな僕の様子を見て、ポチを可愛がっていた近所の人たちは協力を申し出てくれた。正確な数は覚えていないが、おそらく十人くらいが、一緒に探すのを手伝ってくれた。
しかし、一週間が経ってもポチはどこにもいなかった。この日僕たちは、公園をもう一度手分けして探していた。僕は一刻も早くこの公園から離れたかったが、協力してくれる人がいる手前言い出せなかった。楽しかったポチとの思い出が胸に溢れ、思わず泣きそうになるのを必死に堪えなければならなかった。
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その時、
「いたよ」
どこかからそんな声を聞いた。その声は女の人の声で、茂みの方から聞こえた。振り返って僕が駆け寄ると、周りにいた他の何人かもこちらに向かってきた。誰かがポチを見つけてくれた、やっと会えると上気していたか、声の聞こえた地点にいってみても、ポチどころか、誰もいなかった。
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もしかしたら、茂みの奥の森から声が聞こえたのかもしれない。そう考えて、そこにいた数人と一緒に暗い森の中に入ることにした。ひとりでは躊躇われる森の中の散策も、複数人でなら心強かった。ポチを必死に探していながらも、僕が森に入るのはこの一週間ではじめてのことだった。
それは僕が、この森に何かよからな雰囲気を感じていたからだった。絶対にポチを救いたいと願いつつ、森の中にだけは入りたくないという気持ちがあった。しかし今はそんなことを言ってられない。…そうして自分の心を勇気づけていた時、ひとつ、あり得ないことに気づいた。
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「みなさん、この森から早く出ましょう!」
自分よりも歳上の彼らに向かって、僕は大声でそう言った。全員の背中がびくっと動いてこちらを向いた。どの顔も、僕の突然の異変に訝しげな目を向けていた。
「理由はあとで話します!」
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そして僕は先頭を切って、一目散に元来た道を走った。背後で彼らが不満げに何かを言いながらも、仕方なくついてきてくれるのがわかった。茂みのところまで戻ってきた時、彼らはみな、肩で息をしていた。
それもそうだ。ポチ探しに協力してくれた全員が、六十歳を越したおじさんだった。
そう、"おじさん" だった。
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…それならば、あの時の声は誰の声だったのだろう。
「いたよ」
そう言ったのは、たしかに女の人の声だった。僕がなぜ森を出たのか理由を話すと、全員がはっとした後、青ざめた顔をしていた。その時、ひとりのおじさんが声を上げた。「やっさんがいない!」
僕は身の毛がよだつ思いをした。
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やっさんとは、近所の人たちの中でも特にポチを可愛がってくれたおじさんのことだった。気前がよく、たまに飼い主である僕にもジュースを買ってくれたりした。
「いつか一緒にお酒を飲めるといいなあ」
自分もコーヒーを飲みながら、やっさんは豪快な笑い声をあげるのだった。面倒見がよく優しいやっさんはみんなから頼りにされていて、ポチがいなくなったことを知った時も、真っ先に僕のところへ駆けつけてくれた。
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しかし、そんなやっさんがいないという。声を上げたおじさんは、彼も一緒に森に入ったというが、それぞれがポチを探すこと、また森から走り出ることに夢中で、隣に誰がいたかなんて覚えていなかった。
しかし、やっさんがいなくなったことは本当だった。その日は辺りが暗くなるまで粘ったが、結局ポチもやっさんも見つからないまま引き上げることになった。翌日にも同じメンバーで集まったが、やっさんはまだ家に帰ってきていないという。
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そしてその日から、行方不明になったやっさんのことまで探さなければいけなくなった。
ポチの時とは違い、やっさんの行方がわからくなったことはすぐに警察に伝えられた。失踪事件と認められ、多くの人員を使って探し回ったが、やっさんの目撃情報は少しも得られなかった。僕は、複雑な気持ちでいた。今やみんなポチのことなんて忘れて、やっさんのことばかり心配していたから。
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犬と人間を比べたら、失踪して一大事になるのは人間の方に決まっている。そう自分に言い聞かせるが、あれほどポチを可愛がってくれた人たちの僕に対する態度が、あの日以降冷たくなった気がして悲しかった。
僕は居ても立っても居られなくなり、警察がプロとして捜索を進める傍ら、素人なりに足を使ってひとりで捜索活動を続けていた。もし自分がポチを見失うなんてことがなければ、やっさんは行方不明にならなかった。そう思うとやっぱり申し訳なく感じて、一刻も早く失踪の手がかりをつかみたいと毎日必死に汗を流した。
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それにしても、あの時の声はなんだったのか。草をかき分け二つの名を呼びながら、僕はそう思った。女の人の声音で「いたよ」なんて言ったあの声に対して、僕は次第に腹立たしい気持ちを抑えきれなくなった。必死に捜索を続ける自分たちに、誰かがからかって嘘の情報を伝えたのだと思うと悔しかった。
僕の中であの声は怪異的なものではなく、現実の人間が発したものだということで落ち着いていた。僕はポチとやっさんに加えて、僕たちを馬鹿にしたあの女の正体も、密かに探し続けていた。
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そして僕は再び、あの時の茂みの前に立っていた。そもそも、ポチはどうして消えたのだろう。僕はこれまでの不可解な出来事について、いちから考え直すことにした。そのためにすべての始まりである、この忌まわしき公園の茂みに立つことを決めたのだ。
辺りいっぺんの茂みに、大きな穴などは見当たらない。そうであればポチはやはり、その奥の森の中で失踪したと考えられた。それは、やっさんが森の中までは着いてきていたという証言からも考えられることだった。
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じゃあ、あの声の主は、どこへ消えたのだろう。あの時僕のほかに複数人がその声を聞き、おそらく声がしたであろうこの茂みに駆け寄った時には、誰の姿もなかった。
考えられるのは、その女の人は近くにある別の茂みに身を隠していたか、あるいはあらかじめ木の後ろに隠れていて、声を上げたあと森の奥へ逃げたかのどちらかだろう。しかし、僕たちは森に入る前にも周辺の散策をしていたから、前者であれば彼女はとうに見つかっているはずだった。
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…もし、彼女も森の方へ行ったとしたら、やっぱりそこに何かがあるのではないか。僕は森の暗がりをじっと見つめて、大きく深呼吸をした。ひとりだけど、行くしかない。これは、ポチとやっさんに対する罪滅ぼしなのだ。
そして僕は体を小さくしながら、少しずつ森の中へと進んでいった。森といっても、住宅街にある公園を取り囲むような規模の小さいものだから、いつかは開けて街に出るはずだった。
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しかし、僕がどれだけ歩いても、街は見えてこなかった。途中で日が暮れないように正午近くに森へ入ったが、辺りは黄昏時のように薄暗かった。ポチとやっさんの居場所を掴む手がかりも見つからない。…もしかして、このままでは自分まで行方不明になったりはしないか?
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そう思うと同時に言いようのない不安に駆られ、いっそ引き返してしまおうと何度も踵を返した。一方でこのまま進んだ方が街に出られるのではないかと思う自分もいて、僕は同じところを何度も行ったり来たりした。そんな時、不意に誰かの声がした。
それは、いつか聞いた、あの女の声だった。
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「いたよ」
…僕は右も左も、自分がどっちから来たかもわからずに、無我夢中で走り出した。"誰か"ではなく"何か"が、草木をかき分けて自分を追いかけてくるのがわかった。
僕は一瞬だけ、その何かの姿を目の端に捉えていた。
嘘のようで本当な、犬の体に"やっさん"の顔をした生き物の姿…。
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そのあと、僕は息も絶え絶えに走り続け、気づいた時にはいつのまにか元の茂みへと戻っていた。僕は、安堵と絶望がいり混じった気持ちでその場にへたり込んだ。自分が無事に帰ってこれたことに安堵するとともに、ポチとやっさんは二度と帰ってこれないという、生々しい実感に絶望していた。それでも、僕は次の日から、また捜索活動を再開した。
ポチも、やっさんも、"飼い主"である女の声をした何かも、その日以降姿を見せることはなかった。僕はかつてポチを可愛がってくれたみんなにあの一言を言いたくて、そしてやっさんの声が聞きたくて、今でも時間の許す限りいなくなった者の捜索に励んでいた。
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「いたよ」と、自分がそう言える日を夢見て、今日も森の中へと分け入った。
当時高校生だった僕はいつのまにか二十歳を迎えていたが、僕の成人を祝ってくれる近所の人は、誰ひとりとしていなかった。
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