「今日、夕ご飯食べたら肝試しをやらないか?」
佐川洋介が夕食のカレー用にジャガイモの皮を剝きながら、目の前で同じようにニンジンの皮を剥いている矢野美香子へ声を掛けた。
ふたりは都内にある大学のサークル仲間、男女各四人、合計八人で長野県にあるキャンプ場へ遊びに来ている。
男子は三年生の佐川洋介、柴山幸男、二年生の杉田正弘、そして一年生の関口誠の四人。
そして女子は四年生の矢野美香子、三年生の湯沢美紀、一年生の吉川麻耶と曽根郁美の四人だ。
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何のサークルかというと、実は特に具体的な活動目的はなく、レクリエーション研究会というざっくりとした名のもと、大学を跨いで集まった三十名ほどのメンバーで、あれこれ楽しく遊び回っているだけなのだ。
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今回はせっかくの夏休みなのだから何か夏らしいことをやりたいということで、キャンプ場へ来ることになったが、そもそもテントを張って本格的にキャンプをやるような根性も道具もない連中だ。
宿泊はあっさりとテントではなくバンガローに決まったのだが、夏休み期間中で予約が取れるかと心配しながら、矢野美香子がネットで検索すると、案の定、どこもかしこも予約で埋まっている。
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とりあえず片っ端からキャンセル待ちを入れておいたのだが、ラッキーなことにすぐその夜、長野にあるこのキャンプ場でキャンセルが出たと通知が入り、運良く予約が取れた。
こうして声掛けに応じて集まった八人で車に乗り合わせ、長野までやってきたのだ。
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◇◇◇◇
「肝試し?この辺りで面白そうなところがあるの?」
今回のメンバーの中でただ一人の四年生、最年長になる矢野美香子は、ニンジンを剥く手を止めることなく佐川洋介に聞いた。
「さっき昼飯の後、柴山と向こうの丘の方へ散歩に行ったんだけど、この向こうに廃屋があるのを見つけたんだ。
その家の中にカードを置いて順番に取ってくるっていうのはどう?」
「うん、面白そうだけど、また男女ペアを作るのに揉めるわよ。」
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今回のメンバーの中に明確な彼氏彼女の組合せはないのだが、だからこそ、表立って言わないそれぞれの思惑があってぐずぐずと揉めたりする。
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「じゃあ、いっそのこと今回はひとりずつということにしようか?」
「え~そっちの方がみんな不満に思うわよ。せっかく皆でキャンプに来たのに、何でひとりぼっちで怖い思いをしなきゃいけないのって。」
「だから、そう思わせておいてくじ引きでのペアリングを納得させるのさ。」
「う~ん、佐川君の思い通りに上手くいくかな。ペアリングもみんなの楽しみのひとつだからね。」
「まあ、やってみようよ。」
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◇◇◇◇
夕食のカレーを食べながら、佐川洋介は他のメンバーへ計画通りに肝試しの提案をした。
ここから出発して三百メートル、徒歩で五分程行ったところに一軒の廃屋がある。
その廃屋の一番奥の部屋に仏壇があり、その前のテーブルにカードが八枚置いてあるので、それを取って戻ってくるというだけのルールだ。
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「毎回ペアリングで揉めるから、今回は怖い思いを充分に楽しんで貰うためにひとりずつ行くことにしようかと思うんだけど、どうかな?」
佐川洋介の提案に予想通りの文句が出たが、予想外に賛同の声も上がった。
「私はひとりで行ってみたいな。そのほうが怖くて楽しめそう。」
見た目では一番怖がりそうな一年生の吉川麻耶が、不敵な笑みを浮かべてそう言った。
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「俺もひとりがいいかな。」
二年生の杉田正弘もひとりで行くことに賛成した。
「じゃあ、ひとりで行きたい人、手を挙げて。」
手を挙げたのは、いまのふたりと三年生の柴山幸雄、湯沢美紀の合計四人。
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従って、ペアを希望したのは佐川洋介、矢野美香子、そして一年生の関口誠と曽根郁美の四人ということになる。
「あれ?佐川君はひとりで行くんじゃないの?」
湯沢美紀が突っ込んだ。
「俺はどっちでもよかったんだけど、男女ふたりずつの四人がひとりで行くって手を挙げたから、残りの数合わせをしただけだよ。」
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「じゃあ、そこ一年生ふたり、ペア組んでね。」
矢野美香子が関口誠と曽根郁美を指差した。
「え~っ?ということは、俺はまた矢野さんとのペアになるの?」
佐川洋介は口を尖らせて矢野美香子に向かって文句を言った。
「嫌だって言うの?」
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「嫌じゃないけど、ちょっと飽きたかなって思っただけ。」
「そんな倦怠期の夫婦みたいなこと言わないの。静かに若いふたりを見守ってあげましょうよ。」
「その言い方がおばさん臭いよな。たまには関口みたいな若い男の子を連れて肝試しに行ったら?」
「そうやって、いつもペアリングで文句を言って話を抉らせているのは佐川君でしょ?」
「・・・・」
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◇◇◇◇
結局組合せは、佐川、矢野の年長ペアと関口、曽根の一年生ペアで決まり、残りはひとりずつ行くことになった。
「じゃあ、さっき明るいうちに俺と柴山が置いたカードがちゃんとあるかどうかの確認がてら、最初は俺達年長ペアが行ってくることにするよ。
後の連中は戻ってくるまでに順番を決めておいて。」
佐川洋介はそう言い残して、矢野美香子と共に懐中電灯を手にバンガロー横の山道を廃屋に向かって歩き始め、
ふたりの姿はすぐに街灯ひとつない闇の中へ消えていった。
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「あのふたりって、なんだかんだ言っても本当に仲がいいわよね。早く恋人宣言しちゃえばいいのに。」
闇の中へ進んで行くふたりの後ろ姿を見送りながら、湯沢美紀がぷしゅっと缶ビールの栓を開け、小さくため息をひとつ吐いた。
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◇◇◇◇
「やっぱり、ちょっと怖いわね。」
木々の間、街灯もなく舗装されていない幅三メートルほどの道を廃屋目指して歩いて行く。
「手をつないでやろうか?」
佐川洋介は、そう言って手を差し出した。
「ありがとう」
先ほどのやり取りとは打って変わって、矢野美香子は素直に佐川洋介の手を握った。
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「私はもう卒業まで残り半年だから、佐川君とこうして肝試しをするのはこれが最後かもね。」
「ああ、秋にもう一回キャンプ系の企画を考えているんだけどね。でも肝試しっていうシーズンじゃないかな。
ああ、ほら、見えてきたよ。」
微かな星明りの下、前方に黒い塊が現れ、そして歩みに従い徐々に大きくなってくる。
確かに何も灯りがない真っ暗な古い民家だ。
矢野美香子は指先で握っていた佐川洋介の手を指と指を絡ませてしっかりと握り直した。
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「どこから入るの?」
「こっち」
玄関の引き戸が半分開いており、ふたりはそこから家の中を覗き込み、そしてゆっくりと中へ入っていく。
かなり古い建物であるが、家の中は床が抜けているようなこともなく、意外にまだしっかりとしていた。
歩くと床が軋むのはしかたがない。
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佐川洋介は夕方の明るいうちに一度来ているため勝手が分かっているものの、この闇の中では雰囲気がまるで違う。
しかし迷うことなく矢野美香子の手を引いて一番奥の仏間まで来た。
「あれ?」
仏間に入ったところで、佐川洋介は立ち止まった。
「どうしたの?」
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矢野美香子は、何かあったのかと佐川洋介の後ろに隠れるようにして部屋を覗き込みながら聞いた。
「いや、夕方に柴山とカードを置きに来た時は、あの座卓、部屋の真ん中にあったんだ。」
佐川洋介が指差す座卓は部屋の隅に置かれている。
それでも座卓の上には、彼の言った通り八枚のトランプが無造作に散らかっていた。
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「誰かが来たっていう事?」
「そうかもしれないね。ここにカードを置いたのはもう三時間も前だから、同じキャンプ場に泊まっている誰かが来たのかもしれない。」
「そうだ、ちょっと待っていて。」
矢野美香子は、持っていたポシェットの中から小さな付箋紙とペンを取り出すと、他のメンバーの名前を書いてカードに貼付け始めた。
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「よくそんな付箋紙なんか持っていたね。」
「自分の手帳に使うからいつも持っているのよ。」
一分も掛からずに六人分の名前を書くと、その付箋紙を貼り付けた六枚のカードを座卓の上に並べて部屋を出た。
「さ、じゃあ戻ろうか。」
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仏間を出て軋む廊下を歩き始めた時だった。
(・・・てきねえ・・・)
どこからか女の声がした。
「何か聞こえた?」
佐川洋介が懐中電灯を振って周りを見回したが、誰もいるはずはない。
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「いま、女の人の声で『てきねえ』って聞こえたわ。本当に私達の他には、誰もいないわよね?」
矢野美香子もはっきりとその声を聞き取ったようだ。
彼女も同じように部屋の中を見回しながら、不安そうに握った手を引き寄せて佐川洋介の腕に抱きついた。
「『てきねえ』ってなんだろう。」
「飛騨弁で『くるしい』ってことだと思うわ。気味が悪い。早く出ましょう。」
ふたりは急いで玄関へと向かった。
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そして玄関にたどり着いたところで、佐川洋介がいきなり立ち止まった。
「どうしたの?」
矢野美香子の問いに、佐川洋介が顔をしかめて玄関の入り口を指差した。
「さっき、家の中へ入る時にわざと引き戸を全開にしておいたのに。」
目の前の引き戸は閉まっている。
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(・・・てきねえ・・・)
再びどこからか女の声が聞こえた。先程よりも声が大きい。
ふたりに近づいてきているようだ。
「行こう!」
佐川洋介は玄関の引き戸を開け、恐怖から体を硬くして腕にしがみついている矢野美香子を引き摺るように外へ飛び出した。
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ふたりは道へ出たところで廃屋の方を振り返った。
すると開け放たれた玄関の奥にぼんやりと白い影が立っているのが見えた。
そして今飛び出してきた玄関の引き戸がふたりの目の前でカラカラ、ピシャ!っと勝手に閉まったのだ。
「うわあ!」
佐川洋介は、矢野美香子の手を握りしめると、バンガローに向かって走り始めた。
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◇◇◇◇
「どうした?何があった?」
焚火を囲んで皆と談笑しながらビールを飲んでいた柴山幸雄は、息を切らして駆け戻ってきたふたりに驚いて立ち上がった。
他の五人も、佐川洋介と矢野美香子の只ならぬ様子に不安げな表情を浮かべている。
「あの家はマジやばい!肝試しは中止だ!」
ふたりは、たった今廃屋であったことを皆に話した。
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「え~っ、それって本当にお化け屋敷だったってことですか?」
吉川麻耶が不安そうに言った。
しかし柴山幸雄はにやっと笑った。
「俺、そういう経験ってしたことないんだ。ちょっと行ってみたいな。美紀、一緒に行かないか?」
柴山幸雄が湯沢美紀を誘った。
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「そんなこと言って本当は私が幸雄に抱きつくのを期待しているんでしょ、スケベ。あははは。」
湯沢美紀は夕方から飲み続け、かなり酔っ払っているようだ。
「俺も行ってみたいな。でもさすがにこんな話を聞くとひとりで行く気にはならないから、皆で一緒に行かない?」
杉田正弘が言い出し、みんなで一緒ならと他のメンバーも同意しかけた。
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「何言ってるんだ!悪いことは言わないから、絶対にやめておけ!」
佐川洋介は、柴山幸雄の肩を掴んで怒鳴った。
「でも出たとしても声が聞こえたり、扉が閉まったりしただけなんだろう?
大丈夫、危ないと思ったらすぐに逃げてくるさ。」
柴山幸雄は笑ってそう言い、佐川洋介と矢野美香子を除く六人は一緒に廃屋へ向かうことになった。
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◇◇◇◇
「じゃあ、行ってくるからふたりで仲良くお留守番よろしくね~。」
焚火の横で不安そうな表情を浮かべている佐川洋介と矢野美香子に、赤い顔をした湯沢美紀が手を振った。
先頭を柴山幸雄と湯沢美紀が並んで歩き、その後ろを杉田正弘と吉川麻耶、一番後ろを関口誠と曽根郁美と、何となく年齢順の三組のカップルとなって六人は廃屋へ向かってキャンプサイトから山道に入っていった。
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「結局、声が聞こえたのと、玄関の扉が動いただけなんでしょ?」
沈黙が怖いのか、吉川麻耶が杉田正弘に話しかけた。
「テーブルの位置も動いていたって佐川さんが言ってましたよね。
あと、玄関で白い影が見えたような気がしたって。」
後ろから曽根郁美が口を挟んだ。
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「声は何て言ったんだっけ?」
「『てきねえ』って。」
杉田正弘の問いかけに湯沢美紀が答えた。
「でも矢野さんは、よくそれが飛騨弁で『くるしい』っていうことだって知っていましたね?」
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一番後ろから曽根郁美が問いかけると湯沢美紀がそれに答えた。
「だって矢野さんは岐阜の出身だもの。お洒落でセンスがいいからそう見えないけど。」
「あ、それって岐阜の人を馬鹿にしてます?」
すかさず曽根郁美が突っ込んだ。
***************
「ほらあそこだ。」
先頭を歩く柴山幸雄が懐中電灯で前方を照らすと、その丸い光の中に古ぼけた家が浮かび上がった。
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「あれが勝手に閉まったっていう玄関の扉ね。」
湯沢美紀が自分の懐中電灯で摺りガラスの引き戸を照らし、反対の手で柴山幸雄の手を握った。
「じゃあ行こうか。」
手を握られた柴山幸雄がどことなく嬉しそうな声でそう言うと、ゆっくりと引き戸に手を掛けた。
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「あれ?開かない。幽霊に中から鍵を掛けられちゃったかな?」
ガタガタと引き戸を開けようとしても全く開く様子がない。
先ほど佐川洋介と矢野美香子が入ったのだから、鍵が掛かっているはずはない。
先程、突然閉まった時に鍵を掛けられたのだろうか。
「どうしよう。裏から入ろうか。」
柴山幸雄が諦めて家の横に回り、裏手を覗き込んだ。
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「あれ?開きましたよ。」
関口誠が、柴山幸雄の後ろでカラカラと難なく引き戸を開けた。
「なにそれ、幸雄は幽霊に嫌われているんじゃないの?」
湯沢美紀が茶化すと、柴山幸雄は怒ったように関口誠に向かって言った。
「じゃあ、幽霊に好かれている関口、曽根の一年生ペアが先頭で入れよ。」
「え~っ、そんなあ、もう、関口君が余計なことするから。」
今度は曽根郁美が怒ったような声で言った。
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せっかく引き戸を開けたのにふたりに怒られる形になってしまった関口誠が、口を尖らせてしぶしぶひとりで玄関へ入っていくと、文句を言った曽根郁美も黙ってそれに続いた。
玄関を抜けて家に上がると、家の中は静まり返っていて何も聞こえない。
とにかくカードの置いてある一番奥の仏間へと関口誠が先頭を切って廊下を進むと、残りの五人も黙ってそれに続いた。
廊下が軋む音を不気味に感じながら進んでいくが、特に何も起こらない。
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そのまま真っ直ぐ突き当りまで進み、仏間の前まで来た。
襖を開け、中へ入ると部屋の真ん中に大きな座卓が置いてある。
「柴山さん、テーブルの上に何もないですよ。確かこの仏間のテーブルの上に名前の付箋がついたトランプが置いてあるって言ってましたよね?」
関口誠が五人に向かって確認するように言うと、吉川麻耶が座卓を指差した。
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「佐川さんは、真ん中にあったはずのテーブルが部屋の隅に動かされていたって言っていたけど、今はまた真ん中よね。
誰が動かしたの?」
もちろんその問いには誰も答えられない。
六人は黙って仏間の中を見回したが、相変わらず静まり返ったまま何も起こらない。
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「せっかくだから、少し家の中を探検してみようぜ。」
期待していたほどの事が起こらず、肩透かしを食ったような気分になった柴山幸雄は、湯沢美紀の手を引いて仏間を出た。
当然、この部屋に残る理由のない四人もそれに続いた。
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柴山幸雄は仏間を出て廊下を少し戻ったところで横の部屋に入ってみた。
そこは台所だった。
「あ、あれ何?」
台所を通り抜けようとした時、杉田正弘がダイニングにあるテーブルの上に何かが置いてあるのに気付いた。
傍に寄って見るとそれは付箋紙の貼られたトランプだった。
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「皆の名前が書いてあるからこれに間違いないわね。でも奥の部屋に置いてあるんじゃなかったの?
あれ?でも五枚しかないよ。」
曽根郁美が一枚足りないことに気がついた。
「誰の分がないのか、みんな自分の名前のカードを取ってみてよ。」
湯沢美紀の指示で、それぞれ懐中電灯の光で自分の名前を確認してカードを取り上げた。
しかし、そこで誰からも自分の分がないという声が上がらない。
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「カードがなかったのは誰?」
湯沢美紀の問いかけにも誰も反応しない。
「麻耶がいない!」
曽根郁美が、皆の顔を懐中電灯で照らしながら叫んだ。
他の四人も周囲を懐中電灯で照らしながら確認したが、確かに吉川麻耶が見当たらない。
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杉田正弘は廊下に飛び出すと、小走りに奥の仏間に戻った。
吉川麻耶を残してきたのかと思ったのだろう。
しかしそこにも彼女の姿はなく、驚くことに部屋の真ん中にあった大きな座卓もなくなって、畳だけのがらんとした部屋になっていた。
「何だよ、この家は!」
杉田正弘は元のダイニングへ戻った。
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「奥の仏間にはいなかった!」
ダイニングに残っていた四人にそう報告した時だった。
(・・・・てきねえ、でえれえ、てきねえ ・・・)
はっきり聞こえた。女性の声だ。
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「関口!美紀と曽根を連れて外に出てくれ!俺と杉田は吉川を探す。もし外に吉川がいたら大声で呼んでくれ。」
柴山幸雄がそう叫んだが、関口誠から返事がない。
「関口!関口!どこにいる?」
しかしいくら見回しても、その場に関口誠は見当たらない。
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(・・・・はんちくてえ ・・・・)
また声が聞こえた。しかし意味が分からない。
「何なんだよいったい!杉田、美紀と曽根を連れて外に出てくれ。俺はふたりを探す。」
「ひとりで大丈夫ですか?」
「知るか。」
柴山幸雄を残し、杉田正弘はふたりを連れて外へ飛び出していった。
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◇◇◇◇
「ビール飲む?」
矢野美香子がクーラーボックスのフタに手を掛けて佐川洋介に聞いた。
「うん、飲む。矢野さんも飲むでしょ?」
「もちろん、でも、今更だけどお互いその『さん』とか『くん』づけで呼び合うのはもうやめない?」
「でも一応先輩だからリスペクトしないと。」
「リスペクトされるほど偉くないし。」
「じゃあ、矢野!」
佐川洋介も矢野美香子の言いたいことは判っているのだが、わざとカラかっているだけなのだ。
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「もうちゃんと呼んでよ。洋介!」
「でもさすがに年上だからなあ。じゃあ『美香子さん』ということで。」
「まあ、それでいいわ。」
矢野美香子はまだ少し不満そうだったが、とりあえず下の名前で呼んでくれることになったのでヨシとしたようだ。
矢野美香子は缶ビールを手渡すと佐川洋介の横に座った。
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「みんな大丈夫かな?なかなか帰ってこないね。」
缶ビールを口に運びながら、佐川洋介が心配そうに呟いた。
「うん、あそこは本当にやばいわよね。あの『てきねえ』っていう声は本当に苦しそうだったもの。」
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「最後にあの玄関の引き戸がいきなりピシャって閉まった時は、ほんとにキンタマ縮み上がっちゃったよ。」
「ねえ、男の人ってそういう時、本当にキンタマが縮み上がっちゃうの?」
「うん、自分で確認したことはないけど、感覚的にたぶんそうなっていると思うよ。」
「触ってみてもいい?」
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「何をさらっととんでもないこと言ってるんだよ。もうとっくに元に戻っているよ
・・・えっ?何だ、あれ・・・」
佐川洋介の視線の先、矢野美香子の肩越しに見えるキャンプ場の入り口に何か白っぽいものが動くのに気がついた。
よく見ると女性のようだ。
そしてその女はゆっくりとこちらに近づいてきている。
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「や、矢野さん!」
「『美香子さん』でしょ?」
「あ、あれ!」
佐川洋介が指差す方向を振り返り、矢野美香子も固まった。
キャンプ場の薄明りの中を徐々に近づいてくるその姿に、
佐川洋介は思わず矢野美香子を抱きしめ、
矢野美香子も顔をその女に向けたまま佐川洋介の胸にすがりついた。
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「あれ?」
佐川洋介の胸に身を預けていた矢野美香子が体を起こした。
「あれ、あれは麻耶ちゃんだわ。何で向こうから歩いてくるの?」
確かに目を凝らしてみるとあれは吉川麻耶だ。
キャンプ場の入り口はあの廃屋の正反対になるのに、なぜそちらからひとりで戻ってきたのだろうか。
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矢野美香子は立ち上がると、吉川麻耶のところに走って行った。
「麻耶ちゃん、どうしたの?皆は?」
泣きながら歩いていた吉川麻耶は不安だったのだろう、矢野美香子が駆け寄ると抱きついて大声をあげて泣き始めた。
「解からないの。あの家の中にいたのに・・・気がついたら、向こうにあるお墓のところにいたの。」
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とりあえずバンガローの中で吉川麻耶を休ませると、矢野美香子は佐川洋介に言った。
「洋介、あの廃屋に行ってくれない?みんな帰ってこないところからすると麻耶ちゃんを探しているのかもしれない。」
「はいよ。」
もちろん怖いなどとは言っていられない。
佐川洋介は、懐中電灯を掴むと廃屋へ向かって走って行った。
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◇◇◇◇
三人が廃屋から出ていくのを見届けると柴山幸雄は奥の仏間に戻った。
「吉川?関口?」
ふたりの名前を交互に呼びながら、仏間から台所へと順に見ていくのだが、やはりどこにもいない。
(・・・ てきねえ・・・)
再び声が聞こえた。恐怖で足が震える。
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しかし柴山幸雄は責任感の強い男だった。
佐川洋介がヤバいから肝試しは中止だと言うのに逆らい、みんなを誘ってここに来たのは自分なのだという意識が、この場から逃げ出すことを彼自身が許さなかった。
「吉川?関口?」
台所からさらに奥へ進むと、そこに居間であったと思われる狭い畳の部屋があった。
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恐る恐るその部屋に足を踏み入れた瞬間、懐中電灯がいきなり消えた。
いくら振ったり、叩いたりしても全く反応しない。
しかし部屋には窓があり、外の月明かりがカーテン越しに多少入ってくる。
そのため真の暗闇というわけではなく、徐々に目が慣れてくると、かろうじて部屋の様子が分かるようになってきた。
部屋を見回すと部屋の片隅にシーツを丸めたような白い塊があるのに気がついた。
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何だろうと思い目を凝らすと、その白い塊はもそっと動いた。
「うわっ!」
柴山幸雄は驚いて後ろに飛び退いた。
その塊は、白いワンピースを着た髪の長い女だった。
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その女は俯いて畳の上にうずくまっていたのだが、声に反応したのか、彼の方に顔を向けてゆっくりと立ち上がった。
柴山幸雄の飛び退いた方向が悪かった。
部屋の奥へと飛び退いた彼は、白いワンピースの女に出入り口をふさがれる形になり、逃げ道を失ってしまった。
見るとその女のワンピースはボロボロで、胸元からは乳房が覗き、スカートの裂け目からは白い太ももが見えている。
しかし服がボロボロになっている割には特に怪我をしたり、血を流したりしている様子はない。
ただ異様に肌の色が白い。
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女が何かを求めるようにゆっくりと両腕を上げると、その右腕に大きな痣があるのが柴山幸雄の目に留まった。
まるで抱きつこうとしているようにそのままゆっくりと、まるでスローモーションのように近づいてくる。
柴山幸雄は暗闇に白く浮き上がるその姿を見つめたまま、全身が固まってしまったように身動きが取れなくなっていた。
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◇◇◇◇
佐川洋介が廃屋の前まで来ると、そこには杉田正弘、湯沢美紀、そして曽根郁美の三人が立っており、彼の懐中電灯の光に驚いたようにこちらを見ていた。
懐中電灯の光が逆光になり誰が来たのか分からないのだろう。
「杉田、どうした?何があった?」
その声で現れたのが佐川洋介だと気がついた杉田正弘が駆け寄ってきた。
「佐川さん!
関口と吉川がいなくなっちゃったんです。柴山さんがひとりで中に残ってふたりを探しています。」
「関口もか?吉川はバンガローにいる。」
「バンガローに?なんで?」
「そんなこと知るか。とにかく杉田はふたりを連れてバンガローへ戻ってくれ。
俺は柴山と関口を探す。」
「はい。」
そして佐川洋介は、廃屋の中へ飛び込もうとしたところで、もう一度杉田正弘を呼び止めた。
「杉田、バンガローに戻ったら、吉川に彼女がいたというお墓の場所を聞いて、その辺りを調べてみてくれ。」
「お墓?どういうことですか?」
「吉川に聞けばわかる。」
佐川洋介は、そう言い残して玄関から中へ入っていった。
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◇◇◇◇
目の前の白いワンピースの女は、じわじわと近づいてきている。
しかし柴山幸雄は、蛇に魅入られたカエルのように全く身動きが取れず、その女の姿をじっと見つめているだけだ。
いわゆる金縛りの状態なのだろうか。
女がゆっくり顔を上げた。
元気であれば美人であろうその顔は痩せこけて、悲し気な表情がその顔を覆いつくしている。
見ているだけでこちらも泣けてくるような表情だ。
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(柴山!関口!どこだ?どこにいる?)
どこかで佐川洋介の声が聞こえた。
彼が助けに来てくれたのだ。
柴山幸雄は助けを求めようとしたが、身動きも取れなければ、声も出ない。
佐川洋介の足音が部屋の外を通り過ぎて行く。
(・・・ てきねえ ・・・)
目の前の女がまた呟いた。
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◇◇◇◇
バンガローの扉がいきなり開いた。
「きゃあっ!」
吉川麻耶の看病をしていた矢野美香子は驚いて悲鳴を上げたが、扉から飛び込んできたのは杉田正弘だった。
「矢野さん!」
「杉田君!他のみんなは?」
「湯沢さんと曽根さんはここにいます。佐川さんと柴山さんは、関口を探してあの廃屋の中にいるはずです。」
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「関口君もいなくなったの?」
杉田正弘は頷くと、壁に寄り掛かって座っている吉川麻耶の傍に寄った。
「佐川さんが俺に、吉川からお墓の場所を聞いてそこに行けって。どういうことか解る?」
吉川麻耶は頷いた。
「私が、さっき気がついた場所の事を言っているのね。
たぶん佐川さんは、関口君もそこにいるんじゃないかと思ったんだわ。」
杉田正弘は吉川麻耶からそのお墓のある場所を聞くとバンガローを飛び出していった。
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矢野美香子は、残った湯沢美紀と曽根郁美から、六人で出かけた後に何が起こったかを聞いた。
「その声は『はんちくてえ』って言ったのね。」
「どういう意味なんですか?」
曽根郁美が矢野美香子に聞いた。
「直訳すれば『腹の立つ』とか『悔しい』って言うことよ。
いったい何に怒っているのかしら。私達が家に土足で勝手に入ったから?」
それは誰にも判らない。他の三人は黙ってしまった。
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「洋介、大丈夫かしら。私も行こうかな。」
矢野美香子が佐川洋介を名前で呼ぶのを聞いて、湯沢美紀はおやっというような顔をしたが、すぐに矢野美香子を制した。
「矢野さん、ここで待ちましょう。
そうやって入れ替わり出ていくと、佐川さんや柴山さんが戻ってきてもまた探しに行くことになっちゃう。」
「そうね、男の人だけいなくなっちゃったけど、このままここで待ちましょうか。」
矢野美香子はそう言ってバンガローから出ると、入り口のところの階段に腰を下ろした。
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◇◇◇◇
佐川洋介の足音が遠ざかったように聞こえ、
柴山幸雄は泣きそうになりながら目の前の女と睨み合っていた。
(・・・ てきねえ ・・・)
女が繰り返す。
「何がそんなに苦しいの?」
事態を打開しようと柴山幸雄は、かろうじて声を絞り出して女に問いかけた。
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しかし女はその問いには答えず、急に自分の首をかきむしるようにして柴山幸雄の方へさらに近づいてきた。
女が近寄っただけ柴山幸雄は後ずさりするのだが、すぐに背中が壁に当たった。
そして女が柴山幸雄に顔を近づけた時、
出入り口にいきなり佐川洋介が現れた。
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「うわっ!」
女の姿に佐川洋介は一瞬ビビって声を上げたが、そこにいる柴山幸雄の姿を認めるとすぐに気を取り直した。
入学した時からの盟友だ。一緒にいるだけで心強い。
「柴山、随分色っぽい恰好をした幽霊じゃないか。破れたスカートから尻が見えてるぜ。」
怖さの裏返しなのだろう、
佐川洋介はそう戯言を言いながら女を警戒するようにゆっくりと部屋に入ってきた。
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すると女は柴山幸雄から視線を外し、今度は佐川洋介の方へゆっくりと顔を向けた。
そして佐川洋介の事をじっと見つめ、不意にその顔を歪めた。
その顔は笑っているようにも見えるし、苦しんでいるようにも見える。
今度は自分へ向かってくるのかと佐川洋介は身構えたが、
なぜか女はそのまま徐々に薄くなり消えてしまった。
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「柴山、大丈夫か。」
女が消えて気が抜けたのか、その場に座り込んでしまった柴山幸雄のところへ佐川洋介が駆け寄った。
「佐川、申し訳ない。腰が・・・腰が抜けた。」
「え~、しょうがねえな。」
佐川洋介は苦笑いすると柴山幸雄を背負って立ち上がった。
「関口は?」
「いや、まだ見つかっていないが、お前がこんな状態では仕方がない。
取り敢えず一回バンガローへ戻ろう。」
「かたじけない。」
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◇◇◇◇
杉田正弘がキャンプ場を出て小走りに進んで行くと、五十メートルほど行ったところに吉川麻耶が言っていた通り、赤い前掛けをつけた地蔵が三体並んでいた。
その地蔵の横に林の中へ入って行ける細い道があり、そこを入って行ったところに墓があると言っていた。
その道はすぐに見つかったが、しかしそこは真っ暗で懐中電灯の光だけが頼りだ。
杉田正弘は大きく深呼吸をするとその道へ足を踏み入れた。
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足元が悪く、懐中電灯で下を照らすのだがそうすると周囲の暗闇から何かが襲ってきそうな気がする。
足元を照らしては、周囲をぐるっと照らす。
それを繰り返しながら二十メートルほど進むと懐中電灯の光の中にお墓が浮かび上がった。
そこは二、三坪の広さで整地され、お墓が全部で三基並んでいる。
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杉田正弘は逃げたい気持ちを抑え込んで、とにかく確認だけしてさっさと帰ろうと敷地に足を踏み入れた。
ゆっくりと周辺を懐中電灯で照らしていく。
すると一番奥のお墓の前に人が倒れている。
慌てて駆け寄ると、案の定、それは関口誠だった。
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「関口!関口!」
呼吸はあるのだが、完全に気を失っているようであり、いくら声を掛けても目を覚まさない。
「しょうがねえなあ。」
泣きそうな気分だが、このまま関口誠の意識が戻るのをじっと待つのは怖すぎる。
杉田正弘はそのまま強引に関口誠を背負うと来た道を戻り始めた。
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意外に重たいなと思いながら数歩歩いたところで、いきなり後ろから声が聞こえた。
(・・・ さしこと ・・・こんかった・・・)
あの女の声だ。
思わず振り返ると、お墓の前にボロボロに破れた白いワンピースを着た女が立っていた。
「うわっ!」
杉田正弘は慌てて関口誠を背負ったまま走り出した。
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転びそうになるのを必死にこらえて、なんとか地蔵のところまでたどり着き、
道へ出たところで後ろを振り返った。
「うわ~っ!」
杉田正弘はバランスを崩し、思わず悲鳴を上げて後ろにひっくり返ってしまった。
振り返った彼のすぐ目の前に白いワンピースの女がじっとこちらを見つめていたのだ。
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◇◇◇◇
「あ、戻ってきた。」
バンガローの入り口に座って待っていた矢野美香子の視界に、柴山幸雄を背負ってこちらに向かって歩いてくる佐川洋介の姿が見えた。
思わず矢野美香子は佐川洋介のところに駆け寄った。
「柴山君、どうしたの?大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。こいつは幽霊との睨めっこに負けて腰を抜かしているだけだから。」
「幽霊と睨めっこ?関口君は?」
佐川洋介は首を横に振った。
「杉田は?お墓に行った?」
「うん、洋介にそう言われたからって。」
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その時だった。
(うわ~っ!)
杉田正弘と思われる悲鳴が遠くで聞こえた。
「美香子さん、お墓はどの辺にあるか聞いた?」
「うん、キャンプ場の出入り口を出て、五十メートルくらい向こうの道端にあるお地蔵さんの横を林の中へ入るんだって。」
「わかった。美香子さん、柴山を頼む。」
佐川洋介は、柴山幸雄をその場で背中から降ろすと、キャンプ場の出入り口に向かって駆け出した。
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キャンプ場の出入り口を抜けて走っていくと、
道路に座り込んだ杉田正弘と関口誠の姿が見えた。
「杉田!関口!」
意識を取り戻したのだろう、杉田正弘と共に関口誠も佐川洋介の方を振り向いた。
ふたりの傍まで駆け寄ったところで、佐川洋介は白いワンピースの女に気がついた。
「何だこいつ、ここにもいるのか?」
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佐川洋介は、先ほど何事もなく女が消え去ったために強気になったのか、座り込んでいるふたりと白いワンピースの女の間に割って入り、仁王立ちになって黙って女を睨んだ。
すると女はすっと佐川洋介に近づいた。
(・・・ さしこと ・・・まっちょった ・・・)
女はそう言って口元を歪めて笑うと、また消えてしまった。
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◇◇◇◇
「やっと全員揃ったわね。」
矢野美香子がバンガローの中で皆を前に腕組みをした。
「でも本当に出ると思わなかったわ。」
湯沢美紀が、うつぶせになった柴山幸雄に馬乗りになり、腰をマッサージしながら言った。
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「思うんだけど、あの女の人の住んでいた家、もしくは死んだ場所があの廃屋で、
あのお地蔵さんの裏のお墓に埋葬されているということなのかな。
だから関口と吉川はいきなり廃屋からお墓の前に飛ばされたし、
あの女の人も両方に現れるんじゃないかな?」
杉田正弘は、神妙な顔をしてそう言うと、さらに続けた。
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「廃屋で出た時は盛んに『てきねえ』、くるしいとか、『はんちくてえ』、腹が立つとか言っていたのに、お墓では『さしこと、こんかった』って。
矢野さん、これって『長い間、来なかった』っていう意味でいいんでしょ?」
矢野美香子は頷いた。
「ということは、彼女は誰かを待っていたってことだよね。」
そして杉田正弘は佐川洋介の方を向いた。
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「俺、すごく気になるのは、あの女が佐川さんを見つめて、『さしこと、まっちょった』って言って笑ったんだ。」
「ああ、僕にもそう聞こえた。」
関口誠が同意して頷いた。
「これって彼女が待っていたのは佐川さんということになるのかな。」
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「いや、俺はあの女にまったく見覚えはないし、
そもそも長野のこの辺に来るのも初めてなんだぜ。」
「そっか。」
黙った杉田正弘に曽根郁美が言った。
「あら、過去に知っている人でなくてもいいんじゃない?
私のずっと待っていた白馬の王子様がついに現れたってことかもしれないわよ。」
「白馬の王子様?佐川が?あはは、笑っちゃうね。それは。」
寝そべったまま、柴山幸雄が茶化した。
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「黙れ、腰抜け。おい湯沢、そんな奴の腰なんか揉まなくていいぞ。」
佐川洋介が口を尖らせてそう言うと、湯沢美紀は腰を揉む手を止めずに返した。
「でもこのまま佐川君に取り憑いちゃったらどうする?」
「そうしたら仕方がないからお持ち帰りして、アパートで飼うかな。
エサは何をやればいいんだ?」
「何を馬鹿なこと言ってるのよ。」
矢野美香子が横から佐川洋介の頭を小突いた。
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◇◇◇◇
しかしこれは冗談では済まなかった。
翌朝みんながバンガローで目を覚ました時、佐川洋介の姿はなかった。
皆は必死でキャンプ場内だけではなく、廃屋やお墓、そして周辺の林の中などを探し回った。
しかし彼の姿は何処にもない。
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『さしこと、まっちょった』
女の幽霊が残したその言葉が、どうしても脳裏に引っ掛かっていた矢野美香子は、柴山幸雄と共に一度確認した廃屋へもう一度行ってみた。
そしてあの狭い和室の中、あの女がうずくまっていた部屋の隅に見覚えのある佐川洋介のスニーカーがきちんと揃えて置かれているのを見つけた。
佐川洋介がこの部屋まで来たのは間違いない。
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しかしその後の警察などの捜索でも彼自身はとうとう見つからなかった。
霊は何の所縁もない人間でも波長が合えば、取り憑くという。
あのボロボロのワンピースを着た彼女にかつて何が起こり、
そして彼女は佐川洋介に何を求めたのか。
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◇◇◇◇
白いワンピースの女の右腕に大きな痣があったと聞いた矢野美香子は思い出していた。
昔、岐阜に住んでいた頃、村長であった自分の父親が村から追い出した女性がいたことを。
おそらく父親の浮気相手だったのだろう。
まだ子供だった矢野美香子は、その女性と母親が激しく口論しているのを物陰から見ていた。
その女の右腕には大きな青黒い痣があったのだ。
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そしてふたりがどのような会話をしていたのか、その頃の矢野美香子には理解できなかったが、
その女性に物凄い目つきで睨まれたことをうっすらと記憶している。
その女性が何故長野のキャンプ場近くのあの家にいたのかはわからない。
しかし幽霊となった女性のあの姿からすると、彼女はその後この長野で悲惨な運命を辿ったのは想像に難くない。
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そしてすでに他界している父母に深い恨みを持っているのであろうその女性は、
佐川洋介を気に入って連れて行ったのではなく、
恨みの矛先を矢野美香子に向け
その大事な人を奪うことが目的だったのだ。
そのチャンスが訪れるのをあの廃屋で、『さしこと、まっちょった』のだ。
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ひょっとするとここを訪れたのは偶然ではなく、
彼女が何かしらの形で彼らを呼び寄せたのかも知れない。
矢野美香子の元へ深夜に届いた、あのキャンプ場でキャンセルが出たという連絡・・・
あれがそうだったのだろうか・・・
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もちろん矢野美香子自身に何の罪もない。
しかしそれ以上に、佐川洋介には何の関わりもない遠い昔のできごと。
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『親の因果が子に報い』、『末代まで祟る』とかいう言葉がある。
人間の感情は、なんて不条理なものなのだろう。
せめて理由は分からないまでも、あの時に凄い眼つきで睨まれた娘である矢野美香子自身に
その感情を直接向けてくれれば、
彼女は少しでも精神的に楽だったのかもしれない。
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そう、深い恨みを持つ者は、それを晴らす相手が精神的に楽な方を選ぶことはしない。
相手が幸せになることを妨げ、少しでも辛く、そしてそれが長く続く方法を選ぶ。
恨みを買い、その報いを受ける時、
本人よりもその周囲の人間から順に不幸が訪れることが多いと言われる。
それが怨恨、それが復讐なのだ。
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◇◇◇◇
そしてその廃屋は間もなく取り壊され、
佐川洋介がいなくなった日に花を抱えて毎年訪れる矢野美香子以外に、
もうその場所を訪ねる人はいなくなった。
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矢野美香子は思っていた。
その復讐の矛先が次に直接自分へ向けられ、
この世から自分が消えることがあれば、
もしかしたら自分は洋介と同じところに行けるかもしれない。
その思いもあって佐川洋介の為だけではなく、
自分自身があの幽霊に会う為に、
彼女は廃屋のあった場所へ通っているのだ。
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しかし彼女がそう思っている限り、
佐川洋介の所へ行きたい、
行けるかもしれない、
と思っている限り、
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その時が訪れることはなく、
彼女は延々とこのキャンプ場へ通い続けるのだ。
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そして、
あの女はどこかでほくそ笑みながら
じっとその姿を見ているに違いない。
◇◇◇◇
FIN
作者天虚空蔵
飛騨弁で面白そうな言葉を見つけたので書いてみました。
合わせて、恨みや呪いが一族全員に及ぶという、その感情をちょっと織り込んでみました。
またまたかなり長くなってしまいましたが、最後まで読んで頂ければ嬉しいです。