中編3
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点滅

ある日の夜十二時。特定の信号機が黄色の点滅を始める頃、居酒屋のバイトを終えた俺は、アパートまでの夜道を自転車で帰っていた。金曜日は普段よりも客足が多く、大学についてはようやく前期試験が終わった週末ということもあって、心身共に疲れ果てていた。アパートは大学から見てバイト先のある駅方面とは反対側、田んぼばかりが広がる辺鄙なところにあった。畦道ばかりの帰路には街灯がほとんどなく、夜になると月明かり以外に頼りになるのは、自転車かスマホのライトくらいだった。

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俺の乗ってる自転車はロードバイクと呼ばれるもので、それに付けられたライトはママチャリの、車体と一体になったものとは違い、付属品として別に購入したものだった。その分、機能の面でこだわったものでもあった。明かりの強さや使用時間の長さは、他のライトと比べ物にならない。もちろん自転車本体の性能にもこだわっていて、軽く踏むだけですいすいと進んでくれるそれは、バイト終わりの疲れた体を心地いい風で癒してくれた。

俺は、夜風を浴びて駅からアパートまでを漕ぐこの時間が、いちばん好きだった。

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やがて田園地帯に差し掛かると、周りの光源が減ったために前方を照らす自転車のライトはより鮮明になった。光の鮮明さは情報の明確さでもあった。特に田んぼ近くの道には尖った石や、ひどい時には釘なんかが落ちていて、しばしばパンクの原因となった。光によって照らされる景色のほとんどは道路のアスファルトと路肩に生える草ばかりで、それは前方に危険物がないか確認できるように、ライトの頭を下げているためだった。ライトによって照らされる範囲の景色が、俺にとっての夜道だった。

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薄い鼠色と黄緑ばかりの夜道に、白いぼんやりとした影のようなものが現れたのは、アパートまで五百メートルというところであった。遠くに見えるアパートは学生ばかりが住んでいるためかまばらに電気がついていて、それは夜の灯台のごとく道標となり、もう自転車のライトだけに頼る必要はなくなっていた。前方に突然照らし出されたのは人の足のようで、それより上の姿は確認できていない。ライトは道路だけを照らしていて、白い足を見た瞬間反射的にブレーキをかけたために、足以外を光の範囲の外側に置いたまま、俺は畦道の真ん中で立ち止まっていた。

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十メートルほど先の、膝より下の足だけが俺の行手を遮っていた。見間違いではなく、確かに人の足だった。それは裸足だった。白い脛は丸出しで、膝のあたりで布地が横に波打っていて、どうやらスカートを履いた女らしい。そこまでの情報は決して言葉にして考えたわけではなく瞬間的感覚的に受け取ったもので、俺がようやく自力で考えたことといえば、逃げなければという明確な意志であった。

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しかし、頭と体は必ずしも連動しない。頭では自転車を無駄のない動作で前後反転させ、アパートから遠ざかるように走り出すつもりでいた。頭で考えることの意に反して、体は自転車のライトを消そうと動いていた。どうやら目の前の光景を見ずに済むもっとも簡単な手段を体は選んだらしかった。それをスムーズに決行できたならまだよかったが、ちぐはぐな頭と体ではライトを消すことさえできなかった。ライトを消すにはボタンを長押しする必要があった。しかし、ボタンを押してすぐに手を離してしまったために、高性能なライトは消える代わりにもう一つの機能である点滅をはじめた。

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目の前の景色が明転と暗転を繰り返すたびに、見えていた白い足はコマ落ちした動画のように途切れ途切れに近づいてきた。俺は自転車を横倒しに放り投げて背後の暗闇に向かって走り出した。唯一の光源は月明かりだけだったが、雲がそれを隠していた。やがて風で雲が流れ、空が再びぼんやりと世界を照らし出した時には、いつまでも点滅を続ける自転車のライトと、離れたところに倒れる変死体があった。パトカーのサイレンが鳴り始めたのは、黄色の点滅が、信号機から消える頃だった。

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