「はい、もしもし」
「… … …」
「…はい、そうですけど」
「… … …」
「…ええ、わかっています」
「… … …」
「ですから、それも承知しています」
「… … …」
「申し訳ございません、もう少し待ってください」
「… … …」
「いまお金がないんです」
「… … …」
「ええ、そういうことになります」
「… … …」
「………」
「… … …」
「五千万円…」
「… … …」
「すぐにはできません」
「… … …」
「………」
「… … …」
「ですから、今すぐには無理です」
「… … …」
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「私だって、肩代わりしてしまっただけなんです」
そう言って彼女はぴしゃりと受話器を置いた。
ゆっくりと大きなため息をつくと、疲れ切った顔で私を見た。
相手の声ははっきりと聞こえなかったが、彼女の返答と表情からその内容についてある程度察しがついた。
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「大丈夫だよ。ずっとこのままなわけじゃないから」
優しく声をかけるが、彼女は何も言わなかった。
やがて目の前の背中が揺れ始めると、私は手を置いて何度もさすってあげた。
そばにいた子供はいつのまにか眠りから覚めていて、私たちの様子を見て不安が募ったのか、彼女と一緒にしくしくと泣き始めた。
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暗い部屋の中、男はこれまでにないほど焦っていた。
息子が誘拐されたのだ。
仕事を終えて自宅に帰ってきたら、ポストに剥き出しのメモが入っていた。
そこには電話番号を表す数字、それから「息子を誘拐した」というひと言が添えられていた。
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男は愕然としてしばらく動けなかったが、妻の亡きいま、自分がしっかりするべきなのだと己を奮い立たせた。
そして怒りと恐怖に震えながら、メモにある番号に電話をかけた。
三コールほどして電話口から聞こえたのは、予想していたものとは程遠い、か弱い女の声だった。
男の返答は次第に荒々しくなったが、女の声色は終始冷たく、静かなものだった。
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「はい、もしもし」
「…俺の息子を誘拐したのはお前か」
「…はい、そうですけど」
「自分が何をしてるのか、わかってるんだろうな」
「…ええ、わかっています」
「こんなことをして、ただでは済まないぞ」
「ですから、それも承知しています」
「いいから早く、息子を返せ!」
「申し訳ございません、もう少し待ってください」
「待てるか!息子は無事なんだろうな」
「いまお金がないんです」
「…身代金を要求しているのか」
「ええ、そういうことになります」
「いくらになる」
「………」
「おい、聞いてるのか!」
「五千万円…」
「…わかった。用意出来次第すぐに連絡する。でもその前に、息子が無事なのか声を聞かせろ」
「すぐにはできません」
「どういうことだ?おい、教えろ!」
「………」
「できないって…。息子は無事なんだな⁈頼むからそれだけでも教えてくれ」
「ですから、今すぐには無理です」
「息子はそこにいないのか?どこにいるんだよ⁈」
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「私だって、肩代わりしてしまっただけなんです」
そこで電話は切られた。
男は怒りに任せてスマホを床に叩きつけた。
しかし、自分は冷静にならなければいけないことに気づいた。
息子の無事が保証されていない今、一刻も早く金を用意する必要があった。
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五千万。男には、その金を集める手段が思いつかなかった。
途方に暮れ、頭をかかえて床に崩れ落ちた。
震えるその背中を、誰もさすってはくれなかった。
妻と息子の顔を何度も思い浮かべながら、男はひとりで泣き続けた。
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「どうしてこんなことに…」
頭をかかえながら、私は言った。
「よくできていたよ」そう言って背中を撫で続けてくる男のことを、私は勇気を振り絞って睨みつけた。
そして、声の限り叫んだ。
「お願い。約束通り電話には出た。だから私もその子も、早くここから解放して」
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しかし、男は少しも聞く耳を持たず、固く握った拳で私の頬を打った。
さっきまで薬で眠らされていたその男の子は、私が殴られるのを見て大声で泣いた。
男はそれに舌打ちし、その子の口を塞いで声を出せなくすると、躊躇なく執拗に痛めつけた。
「ここから出られるのは、この子の父親が金を用意してからだよ」
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「電話が鳴ったら教えろ」そう言って男は部屋を出ていった。
私は鍵のかかった部屋に男の子と二人で閉じ込められ、電話が鳴るのをひたすら待った。
今どき時代遅れな目の前の固定電話は、しかしいくら待っても鳴らなかった。
この電話の持ち主もまた、部屋を出たきり一向に戻ってこなかった。
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電話のボタンは壊されていて、外部に助けを求めることはできなかった。
それから二日後、息も絶え絶えに私が思い出すのは、「ずっとこのままなわけじゃないから」という男の言葉だった。
たしかに私たちは、このまま生きていられそうもなかった。
この子の父親は何をしているのだろう…。隣で男の子は、動かなくなっていた。
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電話がようやく音を鳴らした時、受話器を取ることができる人は、もう誰もいなくなっていた。
暗い部屋の中で、単調な呼び出し音だけが、いつまでも繰り返し、鳴り響いていた。
作者退会会員
日常怪談No.37
*日常怪談のコンセプト
・日常的によく見るモノや光景をとっかかりにした話
・「日常」そのものをテーマにした話