中編3
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主人と奴隷

春休みに家族三人で旅行に行くことになった。春休みといっても僕はもう大学生ではなく、四月から新しい生活を控えている新社会人だ。

今回の旅行の発案者は父だった。僕の就職祝い&卒業旅行、それに母への労い旅行なんて調子のいい言葉を並べたてていたが、またいつものように父が暴走してせっかくの遠出が台無しになることは目に見えていた。

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父はひと言で言うならば亭主関白だ。家のことはすべて母に任せて自分だけ気ままな休日を過ごすような人だった。時々訳もなく怒っては家の雰囲気を壊していた。まるで一家の大黒柱は一番偉いとでも言いたげな父の態度に僕も母も辟易していた。

僕は本音では母と二人で旅行に行きたいと思っていた。八人乗りの広々とした車内が、父がいるだけでとても狭く息苦しく感じる。

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最近着始めた父のタートルネックのセーターが、運転席からはみ出して見えるのが鼻についた。眠気覚ましのためか父はガムをくちゃくちゃと噛み始めたので、後部座席で僕と母は互いに目配せしながら眠るフリをした。

そして案の定、一日目の旅程は散々なものだった。父は道を間違え予定地への到着が大幅に遅れたし、途中でとまったSAではトイレの個室から何分も出てこなかった。

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父に連れられて見歩いた城や寺は、どこも観光客で溢れてはいたが楽しいものではなかった。父の趣味だけで決められたような旅行計画に、僕と母は何度もため息をつくことになった。

「だったらどこか行きたいところを言え!」母が少し文句を言うと火山が噴火したように怒り出す始末で、父に命令された母の運転でホテルに着いた時には、楽しくなかったという虚しい気持ちに疲れ果てていた。

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その夜、ホテルの食堂でバイキング形式の夕食を済ませた後、各々が個室に戻って自由な時間を過ごしていた。僕は食べ過ぎたためにしばらくはベッドの上で休憩していたが、三十分くらいすると落ち着いてきたので大浴場へと向かった。

浴場は思っていたよりも狭いもので、しかし他の利用客がほとんどいなかったので貸し切り状態だった。きっとこのホテルは人気がないのだろう。父の選定眼を思うとまたため息が出た。

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椅子に腰掛けてゆっくりと髭を剃っている時、ふと背後から視線を感じた。何気なく振り返ってみると、自分以外の唯一の利用客である父が、湯船に首まで浸かってこちらを見ていた。

僕はぞっとしながら乱暴に髪と体を洗った。いつまで経っても父は上がろうとしないので、仕方なくシャワーを切り上げて一番離れたところで湯に浸かることにした。

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僕は自分の裸を見られたくなかったし、父の裸なんて見たくなかった。ましてや普段は会話するどころか顔さえ合わせない父と、親子水入らずの時間を過ごすなんて考えるだけでも虫唾が走った。

そんな僕の気持ちを見透かしているように、父はにやにやと笑いながら近づいてきた。湯から顔だけを出していたので、まるで生首が水面を滑っているように見えた。

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父は隣に腰掛けると、前を向いたまま、しかし僕に聞こえるようにはっきりとした口調で話し始めた。

「父さんはな、もう疲れたんだ。これまで家族のために頑張って働いてきたつもりだった。でも母さんは少しも感謝なんてしてくれない。たまにの旅行すら楽しめない。一家の大黒柱というのは、こうも虚しいものだったんだな。父さん、すでに一回失敗してるが、今度こそ父さんをやめようと思っている」

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僕は父の言い草に文句を言いたくなったが、黙って前を見続けていた。腐っても旅行だ、なぜ今に限って父はこんなことを言うのかと思うと、腹立たしさで逆上せそうになった。

しかし、湯船から上がって脱衣所へと向かう父を見た時、僕の体は冷や汗をかいた。

これまで隠されていた父の首には、太く赤い一本の跡がついていた。

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その夜、父はホテルの個室で自殺した。父の遺体は警察に引き取られた。

帰り道、母と二人だけの車内が嫌に広く感じた。

母の運転は荒々しく、父はいつだって安全運転をしてくれていたことを、その時初めて知った。

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