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うちの家の近くに小さな床屋がある。
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くすんだ白い壁にはツタが絡まり、入口の上の看板は汚れて店名が消えかかっている。
ドアには、昔々に流行したヘアスタイルの男性のポスターが貼ってあり、『男は決めろ!』という意味不明のコピーが書かれている。
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ある晴れた休みの日のこと。
僕は馴染みの店に行ったのだが、その日はたまたま、そこがいっぱいだったから、この店に行くことにした。
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「はい、いらっしゃい」
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スキンヘッドのオヤジがスポーツ新聞をたたみながら、ノッソリとソファから立ち上がる。
50歳後半くらいだろうか。
目鼻立ちがはっきりした濃い顔だ。
でっぷりと肥えた体躯に白衣を着ている。
店の真ん中には古ぼけた黒いリクライニングシートが一つだけあり、その前に大きな姿見がある。
どこにでもある街の床屋さんの光景だ。
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「どうします?」
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鏡に映る僕の顔を見ながらオヤジが聞くので、希望のスタイルを言った。
髪を切りながら、オヤジが尋ねてくる。
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「お客さん、家はどこです?」
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「F町3丁目です」
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「あれ、うちの近くじゃないの。
私ここでもう、20年やってるんだけど、お客さん、見かけたことないなあ」
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「はあ……」
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まさか、行きつけの店がいっぱいだったからとは、さすがに言えない。
オヤジが訥々と語りだした。
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「実は私ね、前は札幌にいたんですわ。
高校出てから理容学校に通って、免許とったんだけど、最初からいきなり店は開けないから、ある店に修行に行ったの。
当時はお兄さんのように私も若かったから、彼女がいたんだけど、その子も理容師で同じ店にいたんだ。
小柄で気の利く良い娘で、いずれは、その娘と一緒に店をやろう、と思ってたんですよ。」
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髪を洗いながら、オヤジは続ける。
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「ところがね、ある日突然その子、店辞めちゃって、いなくなったのよ。
あちこちかなり探したねえ。
でも、見つからなくて……
もうダメかなと思ったころ、意外なところで見つけたんだ。どこだと思います?」
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「さあ……」
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全く見当が付かなかった。
オヤジはタオルで僕の髪を拭きながら、
話を続ける。
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「スーパーマーケット、、、
それも若くてチャラチャラした男と楽しそうに手をつないで、買い物の最中だったんですわ。
しかもそのヤロウ、修行していた店の常連さんだったのよ。でね、面白いことに、そのヤロウ、なんと、お客さんにソックリなんですわ」
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「は?」
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リクライニングを倒し、髭剃り用のクリームとカミソリを
準備しだした。
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「いや、ごめんなさいね。お客さんには何の関係もないんだけどね。でもね、本当に似てるんですわ」
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─いやいや、そんなことを言われても、こちらとしても困るんだけどなあ……
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などと思っていると、蒸しタオルを顔に乗せられた。
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「でね、偶然というのは重なるもので、その数日後にそのヤロウ、店に来たんだよね。
しかも間が悪いことに、私が担当になってしまってね」
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白いマスクを付けるとタオルを外し、刷毛で僕の顔に、髭剃り用のクリームを塗りはじめる。
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「でね、そのヤロウ、なぜだかカットの間ずっとニコニコしてるんだよ。
何か良いことでもあったんですか?とそれとなく聞いたら、いやあ、来月、結婚することになってね、と嬉しそうに言いやがったね。いよいよカーッとなっちまってね。
それで顔剃りしてる時、俺つい、やっちまったんだ」
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と耳元で言うと、顎の下を剃り始めた。
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「え?」
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僕は天井を見ながら思わず、声を出した。
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「切ってやったんだ……」
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心臓が早鐘のように鳴り出した。
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「切ったって、どこを?」
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こわごわと尋ねる。
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「嫌だなあ、お客さんも鈍感だねえ。
ここだよ、ここ!」
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そう言うと指で僕ののど仏を押し、ツイーッと横に動かす。
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「!!!」
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体の中心を冷たい電気が走り、二の腕に鳥肌が立つのをはっきり感じる。
額から頬に暖かいものが流れているのが分かった。
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「そしたら、プシャーッとオシッコみたいに赤い血が飛んでねえ……いやあ、すっきりしたねえ、、、
他にもお客さんや店員もいたんだけど、「おお!」とか言いながらみんな、ビックリしてたなあ。
ざまあみろ、という感じだったよ。
ハハハハ……。
ただ、白い布と姿見は結構汚れちゃったけどね」
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「……」
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「おかげで10年、臭い飯を食わされたんだけど、まあ良い勉強になりましたわ。
さすがに札幌ではもう商売はできないから、こっちに来たんだけどね。まあ、若気の至りというか、なんちゅうか、
お恥ずかしい話ですわ。ハハハハ……」
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「そ、、それで、その男の人はどうなったんですか?」
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僕は恐る恐る尋ねた。
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「あのヤロウ?知らないよ。
死にはしなかったから、今も寝たきりなんじゃないの?
まあ自業自得、いい気味だよ。」
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「……」
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リクライニングが起こされた。
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オヤジは、ブラシとドライヤーを持ち、鏡に映る青ざめた僕の顔に向かってニッコリ笑って言った。
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「さて、セットはどうします?」
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Re presented by Nekojiro
作者ねこじろう
この話は、以前あげたものを改訂リニューアルしたものです。