都心にある、とあるテナントビル4階フロアーはシンと静まり返っていた。
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時刻は午後9時を過ぎようとしている。
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エレベーター手前にある社員トイレで、わたし大宮梨乃は1人、大きな姿見の前で化粧直しをしていた。
このフロアーには幾つかの会社オフィスが入っているのだが、わたしは、その中の1つである大手の製薬会社で事務をしている23歳のOLだ。
その日、わたしは思った以上に仕事に手間取り、フロアーにあるどの会社の社員よりも帰るのが遅くなってしまったのだ。
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化粧直しを終え、最後にもう一度、目の前の姿見に映る自分の姿を見返した時だ。
何故だろう、突然ゾクリと背筋に冷たいものが走る。
それと同時にわたしの脳内に、ある思い出が古い映画の映像のように甦り始めた。
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わたしは静かに襖を開けていた。
8帖ほどの畳部屋が見えてくる。
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ここは優しかったばあちゃんとの思い出の場所。
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正面壁際にある古ぼけた箪笥。
左側には小さな窓が1つあり、白いカーテンが閉じられている。
そして部屋の右片隅には三面鏡があり、その前に座布団が1つある。
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まだ幼稚園の頃、一人っ子のわたしは、よくばあちゃんに遊んでもらっていた。
わたしの下らない話にも、そうかそうかと微笑みながら聴いてくれていた。
でもばあちゃんは、わたしが小学校に入る頃に、部屋で自ら命を絶ってしまった。
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カッターで手首を切って、、、
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あんなに穏やかで優しかったばあちゃんが、どうしてあんなことをしたのだろう?
未だに分からない。
ただ今から思うと、亡くなる数日前に少し奇妙なことがあった。
それは、わたしがいつもの通り、ばあちゃんの部屋に入ろうと襖を開けようとした時のことだ。
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ばあちゃんが誰かと親しげに話しているような声が聞こえてきたのだ。
その内容はほとんど聞き取れなかったが、
「そろそろ私もそっちに行こうかの」というばあちゃんの声だけははっきりと聞こえた。
わたしは思いきって襖を開ける。
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すると三面鏡の前に座っていたばあちゃんは、慌てて鏡を閉じたのだ。
それがばあちゃんの死と、どう関連するかは分からない。
ただ何となく関連があったのではないか?と、後から感じた。
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小学校低学年のある時期、わたしはクラスでいじめにあうようになり、しばらくの間、学校に行くことが出来なくなっていた。
両親は繁華街で食堂をやっていたから、日中は2階建ての日本家屋に1人きりで過ごしていた。
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わたしは数歩歩くと、部屋の片隅にある三面鏡の前に正座する。
それから手を伸ばすと、ゆっくり観音開きしていった。
正面、左側、右側に、縦長の鏡が並ぶ。
しばらく目の前に映る3人の自分の姿を眺めていた。
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それから徐に小さな引き出しを開ける。
中には、鼈甲の櫛や丸い器に入った紅があった。
わたしは、おばあちゃんの真似をして、その櫛で髪をといてみる。
そして丸い器の蓋を開けると、紅を少しだけ人差し指に付け、唇に塗ってみた。
鏡に映る、少し大人びた自分の顔を眺めていると、
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フフフフ、、、
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突然、幼い女の子の笑い声が聞こえてきた。
驚いたわたしはキョロキョロ周囲を見渡す。
そして、おかしなことに気がついた。
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それは、わたしの左側にある鏡。
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そこに映るわたしだけが違うのだ。
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わたしはどちらかというと肌は小麦色なのだが、鏡の中の【わたし】は、まるで病気のように青白い。
さらに違うのは目だ。
鏡の中の【わたし】の目には白目がなく、まるで洞窟のように真っ黒だ。
そして、わたしは白いワンピースを着ているのだが、【わたし】の体は、まるで影のように真っ黒だった。
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懸命に左側の鏡を覗きこんでいると突然、鏡の中の【わたし】が薄笑いを浮かべる。
びっくりしたわたしは、後ろ側に倒れてしまった。
再び起き上がり、恐る恐る鏡の方を見ると、今度は鏡の中の【わたし】は勝手に喋りだした。
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「ねぇ、お話しようよ」
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普通の大人だったら、この時点で部屋から逃げ出すところだろう。
だけどその時のわたしは孤独でまだ分別もなかったから、恐怖心をいだきながらも鏡の方へと近づき、「うん」と返事をした。
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しばらく鏡を挟んで話して分かったことは、
鏡の【わたし】の名前は千代と言い、わたしの生まれるずっと前から、この鏡の向こうの世界で暮らしているということだった。
生前のおばあちゃんとも仲良しだったらしい。
わたしは最後に千代ちゃんとまた会う約束を交わすと、三面鏡を閉じた。
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その日から、朝方両親がいなくなると、わたしは頻繁に2階の和室に出入りするようになった。
そこでしばらく漫画本を読んだり、ゲームをしたりした後、退屈すると三面鏡の前に座る。
そして観音開きすると、左の鏡の中にはいつも千代ちゃんがいた。
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そんな、わたしと千代ちゃんとの鏡を挟んだ交流が数日続いた、ある日のこと。
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わたしはいつもの通り両親が出掛けた後、2階の部屋に行く。
そしてしばらく1人で遊ぶと、三面鏡の前に座り、観音開きする。
左の鏡の中には待っていたかのように千代ちゃんがいた。
ただその日の彼女は終始浮かない顔をしていて言葉少なくて、とうとうわたしは尋ねる。
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「今日は元気ないけど、どうしたの?」
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千代ちゃんはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
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「梨乃ちゃんはいいなあ。
漫画本を読んだりゲームしたり出来て。
それと優しいお父さんとお母さんもいるし。
私なんか、こんな暗いところにいつも1人きりで、つまらないよ」
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確かに千代ちゃんの周りは真っ暗で、何の景色も見えない。
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「じゃあ、こっちにおいでよ」
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思いきって言うと、千代ちゃんは悲しげな表情でうつむき、こう呟く。
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「ダメだよ。私はそっちの世界には行けないんだ。」
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「そうなんだ、、、」
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そう言って、わたしは俯いた。
そして2人の間にしばらく気まずい沈黙が続いた後、千代ちゃんが唐突にこう言った。
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「梨乃ちゃんが、こっちに来たら良いじゃない」
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「え、そっちに行けるの?」
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思わずわたしは聞き返す。
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「そうだよ。
今まで言わなかったけど、梨乃ちゃんのばあちゃんも、しばらくこっちにいたんだよ」
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「ばあちゃんが!?」
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優しかったばあちゃんにまた会えるかもしれない!
千代ちゃんの言葉に、わたしの心は大きく傾いた。
わたしはさらに尋ねる。
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「どうしたら、そっちに行けるの?」
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「簡単だよ。梨乃ちゃんの膝の前にある2段目の引き出しを開けてみてよ」
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千代ちゃんの言う通り、わたしは引き出しを開ける。
そこには、
1つのカッターナイフが入っていた。
わたしはそれを片手に持つと、千代ちゃんの前にかざし、再び尋ねる。
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「これをどうするの?」
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「そのカッターで、左手の手首の辺りを切ってしまえば良いんだよ」
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そう言って千代ちゃんはニッコリ微笑んだ。
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─これで、千代ちゃんやばあちゃんと会える、、、
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わたしは言われた通り、右手に持ったカッターナイフで左手の手首に刃先を立てると、ゆっくり縦に動かしていく。
切り口からは赤黒い血がタラタラと流れ出し、ポタポタと畳の上に落ちていった。
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しばらくすると目の前の千代ちゃんの姿や周りの光景がぼやけだし、わたしの意識は徐々に暗闇の中に沈んでいった、、、
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…
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……
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………
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…………
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……………
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再び意識を取り戻した時、そこは明るい病院の一室だった。
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真上から覗き込む母が満面の笑みを浮かべながら、わたしの手をしっかりと握る。
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そこで、わたしの記憶の映像は止まった。
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誰もいないトイレの姿見の前で、わたしは1人俯き、しばし思い出に耽っていたようだ。
ふと左手を見ると、手首を横切る一直線のアザ。
すると、
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ペタリ
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、、、
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ペタリ
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、、、
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ペタリ
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、、、
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ペタリ、、、
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裸足でリノリウムの廊下を歩くような足音が、少しずつこちらに近づいているのが聞こえる。
全身の震えを感じながら、わたしはゆっくり顔をあげていく。
そして、
目前の姿見に目をやった瞬間、背筋に冷たい戦慄が走った。
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背後の暗闇に、
影のように真っ黒な体の女の子が立っている。
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白目のない洞穴のような2つの瞳を大きく開き、、、
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう
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