【チンパンジー】
chimpanzee. 霊長類の一種。 チンパンジー属。 ヒト属,ゴリラ属,オランウータン属とともにヒト科の4属を構成し,現生の生物の中ではヒトから見て最も系統的に近い存在である。
コトバンクより
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今年40になる久米の悩みは2つあった。
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1つは、未だに独身だということ。
もう1つは、大輔と花子のこと。
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大輔と花子というのは、彼が勤めているF市立動物園で飼育されている番い(つがい)のチンパンジーのことだ。
彼はこの2頭の飼育担当だ。
番いということで、園も一般の来園者の方々からも、赤ちゃんを期待されていた。だが園に連れてこられてもう10年経つのだが、未だに懐妊の兆しもなかった。
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それはとある初秋の月曜日のこと。
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久米は朝から園長室奥のソファーに座っていた。
アフロヘアーの髪に愛嬌のある丸顔。
縁なしの丸メガネを掛けていて、
上下サファリ調の制服に身を包み黒い長靴を履いている。
テーブルを挟んで正面には、熊谷園長が座っている。
動物園に赴任してからまだ1年も満たない新人園長だ。
噂では、大阪の役所で会計の仕事をしていたらしいのだが、金絡みのトラブルを起こし役所から追及され、どういう経緯でか、今年から九州北部にある、ここF市立動物園の園長として赴任してきたようだ。
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今年還暦になる白いワイシャツに黒ズボン姿の園長が、渋い顔をしてタバコを灰皿で揉み消しながら、口を開いた。
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「久米くん、今日きみをここに呼んだのは、他でもない。例の大輔と花子の件なんだ。
まあきみも忙しいことだろうから単刀直入に聞くが、何で未だに赤ちゃんが出来ないんだ?
園としても、まだかまだかと期待をしているのだが」
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久米は俯いたまましばらくじっとしていたが、やがて喋り始めた。
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「正直、自分にもよく分かりません。
自分があの子たちの担当になって今年でちょうど10年になります。その間自分なりに必死に飼育してきたつもりです」
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「それならどうして出来ない?」
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「…………」
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熊谷園長は少しイラただしげに新たなタバコに火をつけると、話を続ける。
「きみも分かっているだろうが、ここ数年、当園の来場者数は減少の一途を辿っている。このままいくと赤字が続いて閉園という事態にもなりかねない。
こんな時に、うちで人気のチンパンジーたちに子供でも出来たら、少しは來園者数も増えるのではないか?と思ってるんだよ。
きみもそう思わないか?」
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「…………」
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久米は俯き無言を続けていた。
すると園長はしびれを切らしたように、最後にこう言った。
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「久米くん、うちの経営状態はここ数年最悪を更新している。今年中に花子が妊娠しなかったら、残念だが当園リストラ対象の1人になってもらうからね」
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「…………」
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久米は唇を噛んで無言のまま立ち上がると「すみません、朝の仕事がありますから」と残して園長室を出ていった。
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その日の園の仕事を終え、帰りの地下鉄の椅子に座る久米は正面の車窓に移る自分の姿を、ただボンヤリと眺めていた。
ラッシュ時間はとうに過ぎているから、車内に乗客は疎らだ。
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彼の脳内には、熊谷園長の言った「リストラ」という言葉がぐるぐる回っていた。
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─今さら、この歳でクビとかになっても、40の俺が行くところなんかあるわけないよ。
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独り愚痴ると、1つ大きくため息をつく。
すると、
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shake
─ピンポーン
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ラインメッセージの受信を報せる音がする。
彼は胸ポケットからスマホを出すと、画面上を操作してメッセージを画面上に表示した。
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─ごめんなさい。
急用が出来て、明日お会い出来なくなりました。
今年中は仕事が忙しくて難しそうです。
来年にでも予定が空いたら私からラインしますね。
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マッチングアプリで知り合った女性からだった。
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─あ~あ、つまりは、フラれたということか、、、
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彼はラインを閉じてポケットに戻すと、再びため息をついた。
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翌朝、久米はいつも通り動物園に行くと、餌やりをしたり檻の中の掃除をしたり事務処理をしたりして、夕刻まで過ごしていた。
平日の園内は朝からほとんど来場者の姿が見られず、閑散としている。
下手をすると園のスタッフの方が多いかもしれなかった
ベンチで彼が軽い休憩を取っていると、閉園を報せる場内アナウンスに続き、どこか物悲しい「蛍の光」が流れ出した。
彼はチンパンジーの檻に入ると、大輔と花子を隣にある仮のケージに閉じ込め檻の中の掃除を始める。
小一時間で掃除を終えると、2頭を再び戻してやった。
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そして久米が広いケージの隅っこにある木陰に座り、長靴を履いた足を投げ出しボンヤリしていると、いつの間にかメスの花子がやって来て、隣にちょこんと座った。
大輔は岩の上で寝ている。
花子は彼の気持ちが分かっているかのように、膝に乗せた彼の手に自分の手を重ねると、心配そうな目で顔を覗き込む。
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「花子、お前だけだよ、俺の気持ちを分かってくれるのは」
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久米はそう言って愛おしげに彼女の頭を撫でる。
すると花子は彼の胸に赤ん坊のように顔を埋めてきた。
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その日彼はチンパンジーの檻の中で一夜を過ごした。
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それから秋が過ぎ冬になろうかという11月の頃のこと。
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F市の地元紙であるF新聞の社会面の端に
【F市立動物園のアイドル花子がとうとうおめでた!】
という記事が載った。
一般にメスのチンパンジーの妊娠期間は約8ヶ月という。
だから順調にいくと花子の赤ちゃんが生まれるのは、翌年の凡そ6月頃になる。
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花子の懐妊で何とかリストラを免れた久米は、年明けも動物園での業務を続けることが出来た。
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そして春が過ぎ、梅雨がそろそろ訪れるかという頃、花子は無事、男の子の赤ちゃんを出産した。
園内は一気に感激ムードに包まれた。
前もって一般公募で決定した名前は【ジョージ】。
いきなり公開をすると、花子にもジョージにも良くないということで、しばらくは隣にある仮のケージに2匹を隔離して、経過を見守るということになった。
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そしていよいよ一般公開の日。
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その日は朝から雨にも関わらず、チンパンジーの檻の前には赤ちゃんチンパンジージョージの姿を一目見ようと多くの來園者が集まった。
檻の上部には「ようこそジョージ」という横書きの垂れ幕がしてある。
透明の仕切りパネルを通して見える檻の中を、緊張した面持ちで見守る人々。
少し離れたところでは、園長の熊谷が、地元紙の記者にインタビューを受けている。その横ではカメラマンがカメラを構えて待っていた。
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すると久米は聴衆の前に立つと、拡声マイクで喋り始めた。
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「皆様、本日はお足下の悪い中、登園にお越しいただきまして、誠にありがとうございます。
番いのチンパンジー、大輔と花子がこのF市立動物園に来てはや10年。ようやく子宝に恵まれることになりました。
これは奇跡としか言いようがありません。
担当の私としましても、本当に嬉しいかぎりです。
それではこれより赤ちゃんの御披露目を致しますが、1つお願いがあります。
フラッシュでの写真撮影はご遠慮ください。
それでは、お願いします」
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久米の挨拶の後、ケージ内奥の扉が開く。
聴衆たちは一斉にスマホを檻に向かってかざしだした。
しばらくすると、オスの大輔が、続いてメスの花子が現れた。花子の背中には小さなチンパンジーが懸命にしがみついていた。
あちこちから、感嘆の声があがる。
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─わあ、可愛い!
ジョージ~ジョージ~
見て見て、あんなにちっちゃ~い!
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大輔と花子は聴衆のすぐ前を四つ足で通り過ぎ、しばらくうろうろすると、最後はケージ中央にあるひときわ大きな岩の前に座り寛ぎだした。
この位置だと、聴衆からもはっきりジョージの姿が見える距離だ。
感嘆の声はしばらく続いていたが、やがて何故か今度はあちこちから、どよめきが起こりだした。
最前列にいる若い女性たちが、ひそひそと話す声が聞こえる。
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─ちょっと見て、あれ何?
本当にチンパンジー?
キモいんだけど、、、
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地面に座り毛繕いをする花子の前で、
ジョージが戯れている。
一見、それは黒い毛皮に包まれた普通のチンパンジーに見える。
だがどこかおかしかった。
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1つは、
黒い毛皮の毛量が極端に少ないこと。
頭部、胸部、脚部にしか生えていない。
肌質も普通のチンパンジーよりも肌色でツルツルしているようだ
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そしてもう1つは、、、
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その顔が、
人間の顔そのものだった。
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fin
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう