これは休みの日、私がS代と郊外にドライブに出掛けた時の恐ろしい体験だ。
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私は今年30歳になる会社員、彼女のS代は28歳で介護職員をしている。
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山あいにある巨大なショッピングモールで一緒に買い物をした後、途中レストランで夕食をし、帰路につく。
その頃には西の彼方には太陽が降りてきていて、辺りは朱色に染まりつつあった。
年末に近づいた頃で寒さも本格的になってきていて、山に林立する木々もほとんどが枯れ木になっており、車からの眺めもどこか寂しげな風情を醸し出している。
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左からの強烈な西陽に目を細めながら、しばらく曲がりくねった片側一車線の山道を走っていると、右手前方に忽然と古ぼけた建物が見えてきた。
5、6階建くらいだろうか、周囲を鬱蒼とした枯れ木たちで囲まれたその建物は、遠目から見ても明らかに廃墟と分かるほどあちこちにヒビが入っていて、部分部分に蔦が走っている。
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「ねぇ、あれ何だろう、廃病院か何かかな?」
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助手席に座るS代が眉を潜めながら言う。
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「そうだな、何の建物だったんだろうな?」
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と言いながら車のスピードを落としていく。
やがて右側に入口と思われる錆びた鉄の門が見えてきた。
その時何か気になった私は右にハンドルを切って道を横切り、車を門の前に停車する。
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左右の門の左側は敷地内に倒れこんでいて、もう片方の右側しかなく容易に敷地内に侵入出来る様子で、荒れ果てた雰囲気を感じた。
そして車の窓から右門の横手にある縦書きの古びた看板を見ると、「○○市立精神病院 隔離病棟」と書かれている。
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「かつては精神異常者の隔離病棟だったんだな」
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と呟きながら隣のS代に視線を移すと、彼女は正面の壊れて倒れた赤錆びた門の向こう側をじっと見ながら固まっている。
そのあまりに真剣な眼差しに、思わず「どうした?」と尋ねると、「あそこ、、、誰かがこっちに走ってきてる」と低く呟き前方を指差した。
言われて同じ方に目をやった。
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西陽で朱色に染まった病院の敷地。
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植え込みに挟まれた勾配のある砂利道、、、
なだらかにカーブを描き、奥まったところに続いているのが見える。
道は恐らく病院玄関まで続いているのだろう。
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そしてその正に玄関の辺りから、確かに誰かがこっちに向かって走ってきているのが見える。
人影はどんどんこちらに向かって近づいてきていた。
微かに声も聞こえる。
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ウワアアアアアア、、、
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それはどうやら女のようだ。
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そしてようやくその姿があからさまになった時、私は背筋がゾッとした。
彼女も恐怖で固まっているようだ。
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それは白い病院着姿の女。
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ボサボサの髪を振り乱し叫びながら、何故だか凄い形相でこっちに向かって走ってきている!
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いよいよ女が前方50メートル近くまで近づいてきた時、ようやく身の危険を感じた。
なぜなら彼女は右手に包丁のようなものを持ち何やら喚きながら、裸足で走ってきているのだ。
その顔は異様にどす黒くて、目一杯開いた両目は血走っていた。
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ウワアアアアアアアア!、、、
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「ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ」
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私は叫びながら慌ててエンジンをかけた。
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その時には既に女は車の正面まで迫ってきていて、あっという間に裸足のままドスドスとボンネットを駆け上がると、腹這いになってフロントガラスを力一杯叩き始めた。
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shake
ドンドンドン!
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間近に迫る狂気に満ちた女のどす黒い顔。
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「キャー!」
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悲鳴を上げて私に抱きつくS代を横目に、私は思い切りアクセルを踏み、車を後方にバックさせる。
弾みで女は道路に落下した。
だがすぐに立ち上がると、またこっちに向かって来ようとしている。
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必死にハンドルを操作し左車線に復帰するとアクセルを思い切り踏みこみ、猛スピードで走り始めた。
ミラーを見ると、車の後方数十メートルを走りながら追いかけてくる女の姿が見えている。
横からS代が「早く早く」と脇腹をつつく。
スピードメーターはいつの間にか70キロを表示していた。
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そのまま数分走りミラーを見ると、もう女の姿は見えなくなっていた。
私はホッと一息ついて、徐々にスピードを落としていく。
横に座るS代も安堵のため息をつき、シートに深々と横たわった。
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いつの間にか車は山道を抜けて、平坦な県道を走っていた
もうすっかり日は落ちていて、道路沿いに並ぶ民家や商店は灯りを灯している。
S代が「あの女の人、何だったんだろう?普通じゃなかったよね」と呟いた。
私は彼女の方を見ると静かに頷き、またフロントガラスに目をやった。
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それからしばらく運転していると、突然後ろを走る車がパンと一回クラクションを鳴らした。
驚いてミラーを見ると、後方の車を運転する男が険しい顔で何やら懸命に叫びながら接近したり、離れたりしている。
確かに先ほどの反動もあり、私は敢えて車のスピードを落として運転をしていたと思う。
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─後ろの車、急いでいるのかな?
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そう思った私は左にウインカーを出し、路肩に寄せて停車した。疲れていたから、面倒くさいことは避けたかったのだ。
すると後方の車は右側を猛スピードで追い抜いて行く。
運転手は最後までこちらを睨みながら、何やら喚いていた。
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やれやれとため息をつき再び走りだした。
するとしばらくしてまた後方からクラクションの音がする。見ると今度は大型のトラックが後方に迫っている。
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─ええ?トラック~!?
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そう言ってS代が不安げに私の顔を見る。
やむを得ず、左前方に見えてきたコンビニに車を入れると駐車場を横切り、店舗前に停車した。
するとトラックも駐車場に入ってきて、少し離れたところに停車した。
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何か文句でも言いに来るのかな?と見ていると、トラックの運転席側のドアが開いて、作業着姿の大柄な男が降りてきた。
暗い駐車場を歩きながら男はゆっくり近づいてくると、私の右手のウインドウをコンコンとノックする。
ちょっと緊張しながらウインドウを下げた。
するとその男は上方から車内を覗き込みながら、こう言った。
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「兄ちゃん、あんなことしとったら警察に捕まるよ」
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「は?」
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訳が分からず聞き返す。
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男は呆れた様子で今度はこう言った。
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「あんた、気づいてなかったのか?」
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「いや、すみません、何のことかさっぱり」
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正直に言うと、最後に男はこう言った。
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「さっきまでボンネットの上に白い服着た女乗せて走っとったやないか!」
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一瞬で全身が凍りついた。
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私はしばらく呆然としながら、立ち去る男の背中をただ眺めていた。
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すると突然、S代が左手を強く握る。
横を見ると、何故だか彼女はミラーを見ながらガタガタ震えていた。
何だろう?と私もミラーを見た瞬間、再び全身が凍りついた。
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薄暗い後部座席。
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その後方にあるリアウインドウ。
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その中央上方辺りから逆さまのどす黒い女の顔が長い黒髪を垂らしながら、じっとこちらを覗き込んでいた。
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう