これはまだ携帯電話が十分に普及してなかった頃の話。
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英賀保は焦っていた。
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─次は決めないとな、、、
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グレイのスーツの上下にオールバックの茶髪。
今年四十路に突入した彼は、緊張した面持ちで本日32軒めの一軒家の前に仁王立ちすると、門柱の呼び鈴を押す。
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─ピンポ~~~~~ン、、、
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どこか間の抜けた音が鳴り響くと、しばらくしてインターホンから「はい」という冷たい女の声がした。
英賀保は強ばった笑顔をインターホンに近付けると、
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「お忙しいところすみません。
じ、実は只今、、」
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「ガチャ!」
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どうやら切られたようだ。
英賀保はガックリと項垂れると、1つ大きくため息をついた。
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彼が太陽光パネル販売の会社に営業として転職して半年が過ぎた。商売の流れは至って単純で一軒家を足で地道に訪ねて、売り込みを掛けて成約させるというもの。
完全歩合制で、先輩社員の中には月間100万円を稼ぎだしている者もいた。
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英賀保も自分なりに必死に頑張っているのだが、現実は厳しく半年間の平均月収は10万円にも満たない。
これでは、家で待つ奥さんと一人娘に楽な暮らしをさせてあげることが出来ない。
彼にとって2人は命以上にかけがいのない存在であり、今の奥さんは中学生時代の初恋の人でもあった。
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今日も昼過ぎから郊外にある古い住宅街をしらみ潰しに回っているのだが、まだ1軒も成約に至っていない。それどころか会話さえも成立してなかった。
既に太陽は西の彼方にあり、辺りは朱色に染まりだしている。
暦の上ではもう秋とはいえ、まだまだ残暑は終わっておらず、英賀保は胸ポケットからハンカチを出し額を拭うと、また歩きだした。
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英賀保は元々コミュ障気味であり、女性と話すのは特に苦手だ。
そんな彼が何故営業の仕事などを選んだのか?
これといった資格も特技も学歴もない彼が手っ取り早く稼ぐには、この仕事しかなかったのだ。
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─このままじゃ、いけない
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英賀保は両頬を両手でパチンと叩いて気合いを入れると、
最後の筋に並ぶ住宅の先頭に立った。
そして呪文のようにいつもの言葉を呟く。
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─大丈夫、お前だったら出来る!
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そしてまた門柱の呼び鈴に指を近付けようとした時だ。
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わああああ!
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背後を制服姿の中学生たちが、奇声をあげながら走り過ぎていった。
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彼は思わず目で追う。
3つの黒い背中は長い影を伴いながらどんどん遠ざかり、路地突き当たりのT字路辺りまで行くと、突然スッと消えた。
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─え!?
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英賀保はその場で立ち尽くし、信じられないという顔で何度となく目を擦る。
彼は引き寄せられるかのように真っ直ぐ歩きだした。
そして学生たちが消えたであろう辺りで足を止める。
見えているのは、路地突き当たりのT字路と手前にある電話ボックス
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英賀保はこの光景を見た瞬間、ある既視感(デジャブ)に囚われた。
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─そうだ俺は中学生の頃、学校の帰り道に同級生と一緒に電話ボックスに入ったんだ。
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彼は吸い込まれるように電話ボックスの扉を開くと、中に入る。
中には緑色のプッシュ式電話機。
電話機の下には分厚い電話帳がある。
すると突然英賀保の脳裏に過去の思い出が16ミリ映写機が回るかのようにありありと浮かんできた。
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俺は学校の帰り道、クラスメート2人と一緒に電話ボックスに入った。
目的は片想いの女の子に電話するため。
ヘタレでコミュ障の俺は2人の級友に急かされながらポケットからメモ紙を出すと、そこに書かれた女の子の電話番号に何度も目を走らせる。
でもそれ以上動けない。
数分が過ぎたところで、
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「おい、番号の確認はもういいだろ?」
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隣に立つニキビ面の方がイラつきながら言う。
その隣の色白な奴がにやついている。
俺はメモ紙を片手に持って、もう片方の手をポケットに突っ込み10円玉を握りしめた。
手のひらに汗を感じる。
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緊張の瞬間、、、
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すると、
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─コン、コン
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扉を叩く音で英賀保の意識は現実に立ち戻った。
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驚いた彼はボックスのガラス越しに外を見る。
電話ボックスの真向かいに男が立っていた。
黒のスーツに黒ネクタイ。まるで喪服のような出で立ちの男が、ボックスの中にいる英賀保をじっと見ている。
そして微かに微笑んだかと思うと、胸ポケットから一枚のメモ紙を取り出し、それを彼の目前のガラス扉辺りに掲げた。
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そこには電話番号らしき数列が書かれている。
英賀保は訳か分からず男の顔を見た。
すると男は微かに微笑むと、ゆっくり頷く。
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─ここに電話を掛けろと言ってるのか?
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彼は催眠にでもかかったかのように電話機の受話器を取ると、ポケットから出した10円玉を投入する。それからメモ紙に書かれた番号をプッシュしだした。
最後の数字を押すと、間もなくしてコール音が鳴り出した。
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するとまた彼の脳裏にあの時の映像が動き出した。
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俺は友人に急かされながら10円玉を電話機に投入しようとしている。
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すると突然、目の前の緑の電話機が鳴り出した。
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俺もあとの2人も同時に驚く。
緊張した面持ちでクラスメートの顔を見渡し頷き、受話器に手を伸ばすと一気に持ち上げた。
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「もしもし、、、」
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しばらくの間の後、男の声がした。
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「大丈夫、お前だったら出来る」
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再び英賀保は現実に戻る。
自分の想いを言葉に出来た彼はゆっくりと受話器を元に戻すと扉を開き外に出た。
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彼は既に全てを悟っていた。
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─そうだ俺はあの時、あの男の人の声で勇気付けられて好きなあの子に電話出来たんだ!
それから俺たちは交際を始めて今は俺の奥さんになっている。
なんということか、、、
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もしあの時あの男の人の言葉がなかったとしたら、、、
そしてあの男の人というのは、、、
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外はもう日暮れていて辺りは薄暗くなっている。
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「大丈夫、お前だったら出来る!」
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そう1人呟くと英賀保は、夕暮れの路地をまた歩きだした。
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう