4月某日、初春の頃。
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その日俺は取引先の会社に行くために朝方、自宅から直接最寄りの駅に向かっていた。
ちょうどラッシュ時は過ぎた後だったからか、駅前に人は疎らのようだ。
特別快速便が到着するまで、まだ半時間ほどありそうだ。
改札を通り過ぎ数歩進んだ辺りで便意をもよおした俺は、トイレに駆け込む。
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だが残念ながら、3つある個室は全て塞がっていた。
しかも既に一人、紺のスーツを渋く着こなした男性が手前で待っている。
俺はその男性の姿をチラリと見た瞬間、ドキリとする。
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長身でオールバックをビシッと決めた、色白で彫りが深いダンディーな風体。
手首には見るからに高価そうな腕時計。
目元には特徴のある大きな泣きボクロ。
そして大きめの革バッグを肩に掛けている。
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─M課長だ。
間違いなく俺の直属の上司のM課長だ。
あのでかいヴィ○ンの革バッグも、課長がいつも会社に持参するバッグだ。
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課長は後ろに立つ俺の存在には全く気が付いておらず、ただじっと個室が空くのを待っている。
M課長は今年30歳。
未だ独身で社内ではやり手として有名であり、俺や他の若い男性女性社員の憧れの的だった。
俺は課長の紺色のブランドスーツの背中を眺めながら、
─待てよ、確か課長は身内に不幸があったとかで今日から一週間有給休暇のはず。
ということは今から身内の家に行くのか?
などといろいろ考えを巡らしていた。
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すると一番奥の個室が空いた。
課長はつかつかと大股で歩き、さっさとそこに入って行った。
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それから個室はなかなか空かなかった。
そして時計に幾度となく目をやりながら、少しイラつき始めた時だ。
カチャリと音がして、課長の入っていた奥の個室のドアが開いた。
俺はそこに視線を移した瞬間、目を見張り思わず「え?」と声を漏らす。
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個室から出てきたのは、何故だか女性だった。
革のブランドバッグを肩に掛けた真っ赤なボディコンの長身の女性。
編みタイツにハイヒールを履き長い茶髪をなびかせながら颯爽と俺の前を通り過ぎ、トイレから出て行った。
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訳が分からずしばらく唖然としていたが、俺はすぐに気を取り直すと奥の個室に入った。
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定刻通り到着した快速便にどうにか乗ることが出来たのだが、車内は意外と混んでいた。
それでも俺は何とか乗降口脇の席に陣取ることが出来た。
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しばらくすると電車はゆっくり動き出す。
目的の駅までは約半時間ある。
俺は腕組みし目を瞑ると、さっきトイレで起こった不思議な出来事に思いを巡らしていたが、次々襲いくる睡魔には勝てず、やがて微睡みの沼に浸かっていった。
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それからどれくらいが経った頃だろう。
突然何かイラついたような男の舌打ちと小声が耳に飛び込んできた。
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「おい、ちょ、止めろよ!」
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俺は目を開くと、何だろう?と何気に前に視線をやる。
目前にはつり革に掴まった乗客が、窮屈そうに並び立っている。
そして問題の声は、俺の左前に立っているサラリーマン風の若い男性が発していることに気づいた。
グレーのスーツ姿の彼はモゾモゾと嫌そうに腰を動かし、何かから懸命に逃れようとしているように見えた。
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するとオルゴール音が車内に鳴り響き、車掌のアナウンスが続く。
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🎶~🎶~
あと5分で○○に着きます。
あと5分で○○に着きます。
お降りの方はお忘れものなど無きよう、、、
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─何をあんなに嫌がってるんだろう?
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さらに若い男性の様子を訝しげに見ていると、俺はハッと息を飲んだ。
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それはグレーのスラックスを履いた男性の股間の隙間。
そこからどぎついマニキュアを塗った女のものらしき白い手が飛び出て、まるでイソギンチャクのように股間を這い回りながら懸命にファスナーを摘まもうとしていた。
男性はそうはさせまいと、腰をくねくねと動かしている。
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唖然としながら再び上方に視線を移した途端、俺は心臓が止まるくらい驚いた。
男性の肩越しに、さっきトイレで見た女のどぎつい化粧顔がある。
左目の横には、大きめのホクロ。
目前で繰り広げられている光景をどうしても信じられない俺は、思わず小さく呟いた。
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え!?、M課長、、、
な、何で?
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M課長はどぎついアイラインをした瞳を嬉しそうに細めながら、まるで薬物患者のような恍惚とした表情で男性の耳元に、なにやら意味深な言葉をささやいていた。
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その時だ。
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「クソババア、いい加減にしろよな!」
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車内全体に響き渡るような大声で男性が叫んだ。
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次の瞬間、車内はシンと静まり返る。
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それから一斉に視線が二人に集中した。
突然の若い男性の恫喝にM課長は男性から体を離すと、あたふたと出口の方に逃げようとする。
そうはさせまいと男性は後方から、課長の長い茶髪を掴んだ。
もちろん茶髪はウィッグだから、スッポリ取れる。
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オールバックに派手な化粧を施し真っ赤なボディコン姿という奇妙な格好の課長は、あっという間に周囲にいた男たち数人に取り押さえられた。
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やがて電車は駅に到着し、課長は駆けつけた駅員に引き渡された。
ホームに降りた俺は立ち止まり、しばらく様子を見ていると、憮然とした表情で仁王立ちする駅員の前でM課長が土下座し、ぐちゃぐちゃに泣き腫らした顔で「お願いです、見逃してください!」と繰り返している。
痛々しくて見てられず、俺は思わず下を向いた。
すると再びホームにアナウンスが鳴り響く。
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🎶~🎶~
間もなく貨物列車が通過します。
貨物列車が通過します。
危険ですので白線内側までお下がりください。
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けたたましい警笛と地響きを伴いながら、反対側ホームに列車が突入してくる。
その時突然駅員の「おい、こら!あんた、ちょっと待て!」という慌てた声がしたかと思うと、カツカツカツというヒールでコンクリートを蹴る音が響く。
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見ると赤いボディコン姿のM課長がホームを猛然とダッシュしており、そのままホーム反対側の端から一気に線路にダイブした。
それからは強烈な警笛音が鳴り響いたかと思うと、ドスンという鈍い衝突音が続き、あとは耳をつんざくような不快なブレーキ音がしばらく続き、やがて止んだ。
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あちらこちらから聞こえてくる悲鳴や叫び。
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ホーム内は一時騒然となった。
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人身事故を報せるアナウンスを聴きながら、俺はしばらくホームの真ん中でただ呆然と立ち尽くしていた。
会社の方にこのことを連絡しようかと思ったのだが、出来なかった。
線路内で懸命に事後処理を行う駅員たちを横目に、俺はゆっくり改札を目指してふらふら歩きだす。
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ふと前方を見ると、奇妙なものが視界に入ってきた。
それはホーム白線の辺りに無造作に転がっている。
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─何だろう?
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近づき、いよいよそれが何か分かった瞬間、俺は強烈な吐き気と目眩をもよおし、その場でしゃがむ。
それは、
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真っ赤なマニキュアをひいた、千切れた白い手首だった。
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M課長の葬儀は、会社近くのメモリアルホールで執り行われた。
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棺に納まった課長は、もちろん赤のボディコンではなく、白装束を身に纏っていた。
ただつぎはぎだらけであちこち欠損したそのご遺体は、とても正視出来るものではなかった。
課長の死因は駅員から逃走の挙げ句の轢死ではなく、何故か、仕事の重圧に耐えきれず覚悟の上の飛び込み自殺ということになってしまっていた。
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その後も俺はたまに自宅近くの駅から快速電車に乗ることがある。
混んだ車内でつり革に掴まりながら揺られていると、たまに股間にモゾモゾとした気持ち悪い感触を感じることがある。
驚いて俯くと真っ赤なマニキュアをした白い手が股間をくねくね蠢いており、一瞬で全身が凍りつく。
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そしてさらに恐る恐る正面に向き直り、再び凍りつく。
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それは正面にある車窓に映る自らの肩越し、、、
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そこから、頭部が歪に陥没し鼻から下を失った女の血まみれの顔が覗き恨めしげな目でこちらをじっと睨み付けていて、そんな時はぎゅっと目を閉じ、「課長、お願いだから、もう成仏してください」とひたすら祈るのだ。
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震える声で、、、
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう