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長編17
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逢魔ヶ時の恋人

夜の帳が開け、濃い紫色だった水平線の一部が徐々に明るさを増し薄い紫色に変わってきた。

********

今年三十になる独身男のささやかな趣味で、時折気が向くとこの防波堤へ釣りに来る。

仕事にひと区切りつき思わぬ休暇が取れたので、朝暗いうちに独り暮らしのマンションを出ると大磯漁港の駐車場に車を停めた。

そして釣り竿と道具を持って東側の堤防へと歩いていると東の水平線がうっすらと明るくなっているのが見える。

週末であれば数人の釣り人が防波堤の上で釣り糸を垂らしているのだが、平日ということもあり他には誰もいない。

そしてお気に入りの場所に折り畳みの椅子を広げ、準備を済ませるとかなり明るさを増してきた東の海に向かって竿を振った。

位置は分からないが、まだ濃紺の海の沖でオモリが着水するどぼんという鈍い音が聞こえ、釣り糸が弛まないようにゆっくりとリールを巻き上げ、ほど良いところで竿を置く。

釣り人達はこの日の出の前後一時間程を”朝マズメ”と呼び、同じく日の入り前後一時間を”夕マズメ”と呼んで魚が良く釣れる時間帯として知られている。

この”マズメ”は釣り人にとっては釣果が期待できる狙い目の楽しい時間帯になるのだが、少しずれはあるがこの時間帯には別名がある。

『逢魔ヶ時』

そう、この世と別の世界、異世界につながる時間帯であり、この世のものではない”魔”と遭遇する可能性の高い時間帯だ。

正確には、朝薄明るくなり始めてから太陽が顔を出す瞬間まで、もしくは太陽が地平線に沈んだ瞬間から完全に暗くなるまでの時間帯を指す。

もともとは中国の言葉のようだが、世界中に似たような伝承があり、英語でもトワイライトゾーンと呼ばれ、異世界へとつながる特別な時間帯とされている。

そもそもが単なる迷信なのかもしれないが、世界中の多くの場所で同じような意味合いの言葉が存在するということは何を意味しているのだろうか。

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◇◇◇◇

俺はこの朝の逢魔ヶ時に何度も釣りに来ているが、未だ”魔”に遭遇したことがない。

しかしこの日は違っていた。

波のうねりに合わせてゆっくりと上下する竿の先端を見つめてじっとアタリを待っていると、ふと気温が下がるのを感じた。

雨でも降ってくるのかと空を見上げたが、明るくなりつつある空にはちらほらと一等星が瞬いている。

寒いというほどではないが、この冷たい空気は何処から来るのだろうか。

海から防波堤へと視線を移し、周囲を見回してみても何も変わったところはない。

もしかしたら周りの空気の温度が下がったのではなく、寝不足気味の俺の体調がそう感じただけなのかもしれない。

そう思って再び竿先へ視線を戻したその時だった。

「あの・・・」

不意に背後から女性の声が聞こえた。

驚いて振り向いたが防波堤の上には自分だけしかいない。

気のせいかと思い、また海の方に向き直った瞬間、視界の片隅に何か白いものがあるのに気がついた。

何だろうとそちらを向くと、自分のすぐ横に白いワンピースを着た長い髪の女性が俺と並んでしゃがんでいるではないか。

そしてその顔は海ではなく俺の方に向いており、若干見上げるようにして俺を見つめている。

全く知らない女性だ。

たったいま周囲に誰もいないのを確認したばかりなのに。

俺はすぐにこの女性がこの世の存在でないことを悟った。

思わず腰が浮き逃げる体勢に入った。

「健一さん・・・」

彼女が静かな、小さく、美しい声で俺の名前を呼んだ。この女性は俺の名前を知っている。

もう一度彼女の顔をまじまじと見直したがやはり誰なのか判らない。

「君は誰?」

思わず問いかけると彼女はにっこりと笑った。

「健一さん・・・逢いたかった・・・」

逢いたかったと言われても訳が分からない。

俺のことを知っている女性が大磯の防波堤の上で地縛霊になっているとは思えない。

おそらく何かの理由で俺に憑いて回っているに違いないのだが、それにしても今日この場所で”逢いたかった”という言葉が解せない。

彼女は俺の質問には答えず、まもなく日の出を迎えようかというオレンジ色に染まりつつある光に包まれ、ただにこにこと俺の顔を見ている。

「君の名前を教えてくれないか?」

「水沼・・・彩夏・・・」

みずぬま、あやか

彼女の口がわずかに動き、かすかに聞こえたその名前は記憶のどこかに存在していた。

誰だっけ?

聞いたことがあるはずなのだが、いつ頃のどのような知り合いなのか、全く思い出せない。

記憶の糸を手繰ろうと、更に彼女へ問いかけようとしたその時だった。

限りなく白色に近づいていた水平線から一筋の光が海の上を走り、太陽が顔を出し始めた。

一瞬そちらに気を取られ、ちらっと水平線へ視線を向け、再び彼女の方を向くとそこには誰もいなかった。

視線を外したのはほんの僅かの時間であり、彼女は現れた時と同じように一瞬にして消えてしまった。

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◇◇◇◇

水沼彩夏

マンションに戻ると、片っ端から卒業アルバムをクローゼットの奥から引っ張り出し、一番後ろの名簿を辿ってその名を探してみたが見つからない。

しかし彼女は俺のことを”健一さん”と呼んでいた。

俺の苗字は地井田(ちいだ)という変わった苗字で、子供の頃からずっと”チーター”というあだ名で呼ばれ、俺のことを下の名前で呼ぶのは、家族や親せきなど、ごく限られた人だけだ。

しかも下の名前に”さん”をつけて呼ぶ女性は昔の彼女など非常に限られるはずなのだが全く思い浮かばない。

もう一度彼女に会って話がしたい。

彼女が誰なのかという疑問で、この世の存在ではない彼女に対する恐怖心は何処かへ消し飛んでいた。

そして次の金曜日の夜、俺は会社の帰りに車を飛ばして大磯へと向かった。

防波堤へと到着したのは夜11時過ぎ。

防波堤の上に折り畳みの椅子を置いて缶コーヒーを飲みながら海を見つめ、じっと待った。

しかし彼女は現れない。

うっすらと東の空が明るくなりかけてきたところで俺は諦めてマンションへと戻った。

いったい彼女は誰だったのか、もう逢うことはないのだろうか。

そして夜明け直前にマンションの駐車場に車を停め、眠い目をこすりながら車を降りようとしたその時だった。

なんと助手席に彼女がにこにこと笑顔で座っているではないか。

考えてみれば、彼女はあの防波堤の地縛霊であるはずがないと思っていたのだから、大磯へ行く必要などなかった。

この世の存在ではない彼女に対する恐怖感は全くなくなっているだけでなく、防波堤で会った時と同じ姿で助手席に座っている彼女に会えたことに嬉しさを感じている自分に気がついた。

未だ彼女が何処の誰だかも分からないのに。

そもそも彼女の素性が知りたいだけでもう一度会おうと思い立ったのだが、何故か彼女を目の前にしてその穏やかな微笑みを見るとその表情がまるで癒しのように感じる。

「彩夏さん、だよね?君はなぜ俺のところに現れるの?俺とどういう関係なの?」

しかし俺の立て続けの質問に彼女は相変わらず何も答えず、黙って俺の顔を見つめている。

「どうして答えてくれないの?」

俺の問いにその顔は不意に悲しそうな表情を浮かべた。

「もっと早くこうしていたかった。もっと早く健一さんにこうして欲しいと言えばよかった。」

そして彼女はぽろぽろと涙をこぼした。

彼女が霊となってここにいるということは、生き霊でない限り、もうこの世の人ではないということだ。

彼女の言葉は生きているうちにそうしたかったという後悔なのだろう。

俺は思わず俯いた彼女の肩に手を伸ばした。

その手には彼女の服とその下にある肩の感触を伝えてきた。

その感触は普通の女性と何ら変わらない。

彼女は本当に幽霊なのだろうか。

俺は手を置いた肩を手前に引き、手を背中に回すとそのまま彼女を抱きしめた。

耳元で彼女が大きくため息を吐くのが聞こえ、もう一度彼女を抱きしめる腕に力を加えた・・・

と、思った瞬間、彼女を抱きしめる腕が空を切った。

いきなり彼女が消えてしまったのだ。

抱きしめようとしていた腕は宙をさまよい、彼女の手を握っていたはずの右手は単なるグーになっている。

車の中を見回しても彼女の姿は何処にもなかった。

何が起こったのかと目の前で揃えた自分の両手を見つめた時、車のフロントガラスから朝日が差し込んできた。

駐車場の前にある公園の木々の間から、顔を出したばかりの陽の光が差し込み、秒単位で明るさを増していく。

そしてあの言葉が頭に浮かんだ。

『逢魔ヶ時』

ひょっとすると彼女はこの時間帯に姿を現すのだろうか。

そう考えると深夜に大磯の防波堤でいくら待っても姿を現さなかったのに明け方の車の中で姿を現したことも合点がいく。

しかし幽霊は必ずしもこの時間帯に現れるとは限らないのではないだろうか。

なぜ水沼彩夏はこの時間帯しか姿を見せないのか。

それとも前回と今回がたまたま同じような時間だっただけで、逢魔ヶ時とは関係がないのだろうか。

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◇◇◇◇

逢魔ヶ時は日の出の一時間前から日の出までと言われている。

翌朝の日の出は午前四時四十五分であり、俺はその一時間前に目覚し時計をセットした。

そしてまだ暗いその時間に起きてコーヒーを淹れると、部屋の照明を消して彼女が現れるのを待った。

しかし十分経っても、二十分経っても彼女は現れない。

やはり逢魔ヶ時とは関係ないのだろうか。

そう思い始めた時、ふと玄関で何か物音がしたような気がした。

玄関を覗いて見たが誰もいない。耳を澄ませても何も聞こえず静まり返っている。

いまのは何の音だったのだろうと念のため玄関のドアを開けてみた。

すると目の前に彩夏が立っているではないか。

「こんなところで何をやっているの?中に入ればよかったのに。」

昨日はいきなり車の中に現れたのだから、ドアが閉まっているから入れないということはないはずだ。

彩夏は何も言わずに抱きついてきた。

「お部屋の中を見せて。」

俺の胸に抱きついたまま、俺の顔を見上げてそう言った彼女にもちろんと答えてドアの中へ導き入れた。

カウチを指差すと彩夏は素直にそこへ腰を下ろし、部屋の中を見回している。

「ずっとここに来たかったの。嬉しい。」

彩夏はそう言うと隣に座った俺に抱きついてきた。

時計を見ると日の出までまだ三十分以上ある。

「彩夏さん、君は誰なの?」

もう何度目か分からなくなったこの問いにはやはり答えてくれない。

「ごめんね。俺、君と以前にどんな関わりがあったのか全く思い出せないんだ。俺は君のことを知っているんだよね?」

彩夏はその問いに対して首をひねった。

それはつまり俺が彼女を知っているのかどうか彼女には分からないということなのか。

俺は別な形で質問することにした。

「ねえ、彩夏さんはどうやって俺のことを知ったの?」

すると彩夏はにっこりと笑い俺の両頬に手を当てて顔を近づけた。

「健一さんの歌声。」

それだけ言うと彩夏は唇を重ねてきた。

俺も彩夏の体を抱きしめ、侵入してきた彩夏の舌に自分の舌を絡めながら、頭の中では彩夏の返事の意味を追っていた。

高校のクラス合唱以来、人前で歌など歌ったことはない。

いったいどこで俺の歌声を聞いたというのか。

すると突然綾香を抱きしめる腕が空を切った。

また消えてしまったのだ。

周囲はかなり明るくなっているが、時計を見ると日の出までまだ十分程ある。

彩夏は必ずしも日の出の瞬間まで俺の前に姿を現しているわけではないのだろうか。

そのまましばらく待ってみたが、再び彩夏が現れることはなく、すぐに陽の光が閉じたカーテンを照らし始めた。

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◇◇◇◇

いったい何が起こっているのだろうと悩みながらも出勤するために着替えを済ませ、部屋を出て階段へと歩き始めた時ふと何かが頭に閃いた。

そうだ、この先の部屋だ!

俺の部屋から三軒挟んだ部屋の前に立つと、ドアの上にあるネームプレートを見上げた。

『水沼さやか』

そしてそのさやかの文字の下に小さめのフォントで『彩夏』と記載されている。

このマンションへ引っ越してきた時に、この部屋は母娘で住んでいるのかなと思った憶えがあり、大磯港で初めて水沼彩夏の名を聞いた時に記憶にあるような気がしたのは、このネームプレートだったのだ。

「あの、何か御用ですか?」

ドアの前でネームプレートを見上げたまま立ち尽くしていると、四十代くらいの女性が声を掛けてきた。

顔立ちは整っているのだが、化粧気のない疲れた表情がそれを台無しにしている。

おそらく彼女がこの部屋の主である水沼さやかなのだろう。

どこか彩夏に似ている。

「ああ、すみません。205号室に住んでいる地井田といいます。あの、彩夏さんはいらっしゃいますか?」

もし人違いだったらどうしようと思いながらも、このまま何も聞かずに黙ってこの場をやり過ごし、あとで悶々とするよりも間違っていたら素直に謝ればいいと腹を括って彼女に聞いてみた。

「あの、彩夏はここにいませんが、彩夏にどのような御用ですか?」

そうだった、あの彩夏が幽霊だとすれば生きてここにいるはずはないのだ。

どのように説明すればいいのか咄嗟に思いつかず、黙ってしまった。

「あの、特にお話がないのなら、もうよろしいですか?」

水沼さやかはそう言ってバッグから鍵を取り出し、ドアの方を向いた。

「あの、実は・・・」

このままでは埒が明かない。

俺は部屋の中に入ろうとする彼女を引き留めると、大磯での出来事から昨日までのことを話した。

水沼さやかは、初めのうちは怪訝そうな顔をして聞いていたが、途中から困惑した表情に変わり俺の話を最後まで黙って聞いていた。

そして話し終わると今度は彼女がしばらく黙っていた。

「それはうちの娘ではありません。彩夏は重い心臓病で入院したまま動けないんです。」

しばらく黙った後、彼女はそれだけ言って顔を伏せると部屋に入ってしまった。

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◇◇◇◇

水沼さやかは、彩夏は病院に入院したままだから俺のところに現れたのは娘ではないと言った。

しかし入院している彼女が何かしらの理由で俺に思いを寄せ、生霊のように俺のところへ現れていると考えることもできるのではないか。

浮かない気持ちで早めに仕事を終えて会社を出ると、電車の窓から見えるビルの間に今まさに沈んでいくオレンジ色の太陽を見つめ、明朝も彩夏は現れるのだろうかとぼんやり考えながら駅の改札を出た。

駅前の商店街で夕食の総菜を買い、マンションへの帰路についたときには、太陽は沈み周囲は薄暗くなっていた。

「健一さん。」

マンションまであと少しという公園の角を曲がったところで聞き覚えのある声が聞こえ、いきなり腕を取られた。

振り向くと驚いたことに彩夏が横にいた。

こんな時間に現れるのは初めてだ。思わず周囲を見回すと、まだぼんやりと明るさを残した周囲に何故か彩夏以外の人影はない。

『逢魔ヶ時』

そう、明け方だけではなく、日没から完全に夜になる迄の時間帯も逢魔ヶ時と呼ばれ、ちょうど今がその時間帯だ。

普段はまだ会社で仕事をしている。

「彩夏さん、彩夏さんは今、病院に入院しているの?」

マンションへ向かって歩きながら腕を組んで横を歩く彩夏に直接聞いてみた。

「うううん、私はいま健一さんと一緒に歩いているわよ。」

彩夏は俯いてはぐらかすように俺の問いに答えた。

「今日もまた消えちゃうの?」

「うん、残念だけど病院の私が目を覚ましたらそこで終わっちゃうの。夢って必ずいいところで目が覚めるのよね。」

そうか、これは彩夏の夢なのか。

病院のベッドで俺の夢を見て、それが逢魔ヶ時に重なると実際に俺のところに現れるということなのだろう。

だから逢魔ヶ時が終わる、日の出ぴったりではなく、彩夏が夢を見る時間に合わせて、日の出ぎりぎりに現れてみたり、日の出前に消えてしまったりしたのだ。

そして入ったことがない俺の部屋の中は夢に見ることが出来ず、すぐに入ってくることが出来なかったのだろう。

「彩夏!」

まもなく夜の帳が完全に降りて逢魔ヶ時が終わるなと思いながら、彩夏と腕を組んだままマンションの階段を登り切ったところで女性の叫び声が聞こえた。

驚いてそちらを見ると数メートル先に水沼さやかが目を大きく見開き、口を手で押さえてこちらを見ている。

「ママ・・・」

彩夏が小さな声でそう呟いた途端、腕に絡みついていた彩夏の腕の感触がふっとなくなった。

彩夏が病院で目を覚ましたか、逢魔ヶ時が終わったのだろう。

「彩夏!」

水沼さやかが、消えてしまった彩夏に驚いて駆け寄ってきた。

「彩夏は?彩夏はどこに行ったんですか?」

「今朝お話ししたように彩夏さんがここにいられる時間が終わったようです。」

「彩夏・・・、地井田さん、少しお話しできますか?」

彼女はそう言って自分の部屋に俺を招き入れた。

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◇◇◇◇

今朝、俺の話を聞いた水沼さやかは、もうその時に間違いなく彩夏だと思ったそうだ。

しかし彼女はそのような姿で現れる娘の所業にどう対処していいのか分からずに、今朝は思わず逃げてしまったと謝った。

「地井田さんの事は以前から彩夏に聞いていました。」

このマンションは2LDKの間取りで、ひとつの部屋は外の通路に面している。

病気がちだった彩夏はその窓際にベッドを置いており、鼻歌を歌いながら出勤していく俺の姿を窓の隙間からこっそり見ていたそうだ。

「いつか元気になったらお友達になってデートして貰うんだっていつも言っていました。」

「彩夏さんの容体はどうなんですか?」

「それが数日前から急激に悪化して、危篤というわけではないけれどかなり危ないと先生から言われているんです。」

数日前というのは、最初に大磯に現れた日と一致するのだろうか。

「ここ数日は仕事を終えて直接病院へ行き、朝一旦ここに戻ってきてから仕事に行く生活なんです。今朝はその時に地井田さんに会ったんですね。

でもやっぱり地井田さんにきちんと話しておこうと思って今日は病院に行く前にここで待っていたんです。まさか彩夏に逢うとは思いませんでした。」

「じゃあ、今日もこれから病院へ行くんですね?それなら僕も一緒に行かせてください。」

水沼さやかは、一瞬嬉しそうな顔を見せたが、すぐに首を横に振った。

「いいえ、地井田さんはここで元気な姿でいる彩夏の相手をしてやってください。彩夏は病院で寝ている姿は見られたくはないでしょうし、もしあなたがいきなり病室に現れたら、それこそ心臓が止まってしまうかもしれません。」

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◇◇◇◇

翌朝未明、彩夏はいきなりベッドの中に現れた。

「ママから健一さんの事を聞いたわ。いい人ねって言ってた。」

彩夏は俺の胸に顔を埋め、どことなく弾んだ声でそう言った。

おそらく水沼さやかはあの後病院へ行き、彩夏に俺と会って話をしたことを伝えたのだろう。

その時に母娘の間でどのような会話が交わされたのかは分からないが、彩夏のこの幸せそうな顔を見る限り、悪い話にはならなかったに違いない。

「うん、彩夏さんのお母さんもいい人だね。」

「えへへ、私と結婚してくれれば健一さんのお母さんにもなっちゃうよ。」

彩夏はそう言うと俺に力いっぱい抱きついてきた。

ベッドの中でじゃれ合いながら、横目で明るさを増していく窓を見ては切ない気持ちが湧きあがってくるのを感じていた。

あと何分だろう。

太陽が顔を出したのだろうか、窓のカーテンの向こうが一気に明るくなってくる。俺は彩夏を力一杯抱きしめた。

しかし・・・

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彩夏は消えなかった。

カーテン越しに、昇ってくる太陽の形が見える。

俺は嬉しさのあまりもう一度彩夏を抱きしめて唇を重ねた。

唇を重ねながら、俺はふとあることに気がついた。

彩夏が消えないということは、病院にいる彩夏が目を覚まさないということになる。

残念ながら彩夏は逢魔ヶ時の力を借りずに、いつでも俺の傍にいられる状態になってしまったということなのか。

そこまで思いが至った時に携帯が鳴った。

水沼さやかからであり、つい三十分ほど前に彩夏は息を引き取ったと。

とても穏やかな表情で、彩夏の魂はきっと俺のところに行っているんだと思わせるようにうっすらと笑みさえ浮かべているようだったと。

そして俺は腕の中で微笑んでいる彩夏の顔を見つめながら、確かにここにきていると彼女に伝えた。

「ご無理を言って申し訳ありませんが、今から彩夏に会いに病院まで来て頂けませんか?」

水沼さやかは電話の向こうですすり泣きながらそう懇願してきた。

もちろん断る理由などない。

俺は電話を切ると彩夏に向かって、彩夏に逢いに行くと告げ、服を着替えた。

彩夏は穏やかな表情でその様子をベッドの中から眺めていた。

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◇◇◇◇

水沼さやかの言った通り、彩夏の死に顔は、優しく、可愛かった。

彩夏の霊体も一緒に病院へ来ている。

不思議なことに彼女の姿は、水沼さやかを含め、俺以外の誰にも見えないようだ。

「ねえ、私って可愛い?」

水沼さやかが勤務先に連絡を入れると言って病室を出て行くと、ベッドに横たわる自分の顔を見ながら彩夏の霊体が聞いてきた。

「ああ可愛いね。もっと早く知り合いたかった。」

「それはもう言わないで。」

俺は胸の上に組まれた彩夏の手の上に、自分の手を重ねた。

「ねえ、私の体にキスして。本当の私の体にキスができるのはこれが最後よ。」

俺はゆっくりと彩夏の遺体に覆い被さるようにしてゆっくりと唇を重ねた。

それはまだ柔らかだったが、霊体のそれよりも冷たかった。

ただ、唇を重ねた瞬間、ほんのりと甘いミルクのような匂いがした。

これが彩夏の匂いなのか。

唇を離し顔を上げると、彩夏の霊体は目の前から消えていた。

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◇◇◇◇

成り行きで、母ひとり娘ひとりだった水沼さやかを手伝い、彩夏の通夜、そして告別式を済ませた。

そして彩夏の骨壺を抱いてマンションへ戻ってくると水沼さやかの部屋に簡単な祭壇を設け、綾香らしい桃色の可愛い骨壺を置いた。

「健一くん。本当にいろいろありがとう。助かったわ。彩夏も大好きだった人に送って貰えて良かった。」

俺も真新しい位牌に手を合わせると一旦自分の部屋へ戻った。

昨夜は通夜で遺体と共に葬儀場で過ごし、ここには戻ってきていない。

あの朝、水沼さやかから連絡を貰った後、部屋に戻るのは喪服を取りに来た一度だけだ。

「おかえり~」

部屋に戻るといきなり彩夏の声に迎えられた。

驚いて玄関から部屋を覗き込むと、ベッドの上でにこやかに手を振っているではないか。

病室でいなくなってから姿を見せていなかったのだが、ここに籠っていたのか。

あのキスで成仏したと思っていたのに。

喪服を取りに来た時は急いでいたため、隣の部屋に駆け込んでクローゼットから喪服を取り出すとすぐに出て行ったのでベッドは見ていなかったのだが、ずっとここにいたのだろう。

「おかえり、病室から何故か突然ここへ戻ってきちゃったんだけど、健一さんが全然帰ってこないから心配しちゃった。いったい何処に行っていたの?」

「何処にじゃないだろ!お・ま・え・の・そ・う・し・き・だ!」

俺はそう言ってベッドに飛び乗ると、そのまま彩夏に覆い被さり唇を重ねた。

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◇◇◇◇

彩夏はもう逢魔ヶ時に関係なく常に俺の部屋にいる。

これも地縛霊と呼ぶのだろうか。

ただ葬式以来、寂しさからなのか何かにつけてちょくちょく遊びに来る水沼さやかが部屋にいる間は姿を見せない。

この母娘は仲が悪かったのだろうか。

「きっと彩夏は私が健一さんをたぶらかすんじゃないかって、どこかでじっとみていると思うのよね。この場に出てくると私と喧嘩になっちゃうから出てこないんだわ。ねえ、晩ご飯をごちそうするから今度は向こうの部屋に遊びにきてよ。」

その瞬間、パチッという大きなラップ音が部屋の中に響いた。

「ほら、怒ってる。」

水沼さやかはそう言って笑った。

そして彼女が部屋を出て行くと、彩夏はすぐにベッドの上に姿を現し、そこから俺のことをじっと睨んでいた。

「ママは健一さんのママになるの!恋人じゃないからね!」

◇◇◇◇ FIN

Concrete
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