「私ね、昔からたまに、おかしなものを見るんだ」
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相談がある、と私を呼び出したヒナコは、目の前に置かれたお冷やに手を伸ばすが、コップをつかみ損ねて危うく水をこぼしそうになる。
大丈夫?
おしぼり片手に声をかけつつ、ふと見ると、彼女の手は微かに震えていた。
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午後の喫茶店。
私たちの座る窓辺の席には、穏やかな陽光が射し込んでいる。
小さく流れるジャズミュージック。
店内に、客は私たちしかいなかった。
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白髪頭のマスターが、注文していたホットコーヒーをふたつ、テーブルの上に置いて戻っていった後、私は問いかけた。
「それで? おかしなものって?」
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ヒナコは、コーヒーカップに視線を落としたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
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あのね。はじめて「ソレ」を見たのは、小学6年の時。
その時、私、飼育委員だったの。
初耳?
そうだよね、マイちゃんと話すようになったのって、同じクラスになった中2の頃からだもんね。
それからもう20年かぁ。なんかすごいよね。
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あ、うん。それでね。
それは、小6の夏休みのことだったんだけど――。
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当時、飼育委員はね、飼育小屋で飼われていた鶏たちの世話をしに、休みの間も交代で登校してたんだ。
だいたい、5日に1回くらいのペースだったかなぁ。
面倒くさかったけど、エサあげないと死んじゃうからさ、彼ら。
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8月の中旬だったと思う。
本当は、いつもふたり一組なんだけど、その日は相方が急に、風邪をひいただか家族旅行だかで、私ひとりで世話をすることになっちゃって。
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用務員のおじさんに飼育小屋の鍵を借りて、「夏休みなのにえらいね」とかなんとか言われて。
それでも、「なんで私ばっかり」って、ブツブツ文句を言いながら小屋に行ったんだ。
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覚えてる? 校庭の隅にあった飼育小屋。
狭くて、まわりに貼られた金網もだいぶ傷んでた、あのオンボロの鶏小屋。
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あそこにオス1羽、メス3羽が飼われてて。
トサカにコッコにチキンにカラアゲだっけ。今思うとひどい名前だよね。
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小屋は中でふたつの部屋に分かれてて、片方の小さな部屋に鶏たちを閉じ込めて、その間に、ほうきでフンを片付けたり、水を取り替えたりなんかしてたんだ。
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その時、足元で、
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グシャリ!
って、音がしたの。
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見ると、コッコかチキンかカラアゲか、どれかが産んだ卵を、気づかないうちに踏んづけちゃったみたいだった。
全部は割れてなくて、ちょうど片側にだけ、ぽっかり穴が開いたみたいになってて。
「あー……」と思ってそれを見てたらね、その中に「いた」んだ。
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「いた? 何が? 有精卵的なやつ?」
ヒナコは首を振り、それから震える声でつぶやいた。
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「テンシ……が」
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それはね。
割れた卵からモゾモゾ這い出してきたソレは、鶏の雛なんかじゃなくて。
明らかに人の――人間の赤ちゃんの顔と、身体をしていたの。
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手のひらに乗るくらい小さな身体が、透明の粘液でヌラヌラ濡れてて。
それが、小屋に射しむ陽を受けて、テラテラ光ってた。
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ソレは、確かに小さな人の形をしていたんだけど、背中にはもっとちっちゃな、ボサボサの羽根が一組生えていたの。
だから、天使みたいだ、と私は思った。
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シワシワの赤ちゃんみたいな顔をして、ヒヨコみたいにキーキーした声で、しばらく泣いていた。
私は、呆然として動けないでいたんだけど、やがてそれは私の方に向けてゆるゆると手を伸ばしたかと思うと、こう鳴いたの。
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「アギラァ――」
って。
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しゃべったんだ、って思った。
コイツ――この羽根の生えた天使みたいなやつ、私に今、何かを告げたんだって、直感的にわかったんだ。
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「――で、その『おしゃべりする天使みたいなやつ』はどうしたの?
まさか、捕まえて育てて、その年の夏休みの自由研究にでもしたのかしら?」
冷房なんかかかってないのに、腕には鳥肌が立っていた。
私は努めて、明るい声で尋ねた。
ヒナコはすぐには答えず、コーヒーカップの中に角砂糖をポチャン、ポチャンと落とした。
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「……溶けちゃった」
カップの中を覗いたまま、不意にヒナコはつぶやく。
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それからもう一度、
「溶けちゃったんだぁ」
と繰り返した。
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天使は急に苦しんで、もがきだしたかと思うと、私の見ている前で溶けていってしまった。
肌がプクプクと泡立って、みるみる輪郭が小さくなっていって。
やがて、メレンゲみたいな細かな泡の固まりになって、鶏小屋の乾いた地面に染み込んで消えてしまった。
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私は動けずにいた。
どれくらいそうしていたんだろう。
用務員さんが心配して呼びに来て、そこで初めて自分が呆然としていたことに気がついた。
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結局、そのことは誰にも言わなかった。
用務員さんにも、親にも、友だちにも。
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夢でも見たんだろう、って言われると思ったから?
ううん。なんか、言うのが怖かったから。
口に出しちゃいけないことみたいな気がしたから。
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翌年、仲の良かった親戚のお姉ちゃんに、子供が生まれたの。
その子の名前は、アキラだった。
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鶏の卵から、ヒヨコ以外のものが生まれた。
それは、小さな赤ん坊の姿で、背中に羽根を持っていた。
しかも、その「天使もどき」は、ヒナコの身近な人間に関わる出産を予言して、溶けて消えてしまった。
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奇妙な話だ。
奇妙なことが重なり過ぎている。
だが――。
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「確かに不思議な体験だけどさ、ヒナコにとって、悪いことは何も起こってないわけだよね?
仲良しの親戚のお姉さんに子供が生まれたってこと自体は、嬉しいことだったわけじゃない?
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『出産』を告げる『天使』といえは、ガブリエルだっけ? 『受胎告知』の。
聖母マリアに、神の子であるイエスを身ごもったことを知らせに現れる。
――あれ? でも、最後に溶けちゃったりはしないか。
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生まれてすぐに予言をして、それから死んじゃうっていうなら、日本の妖怪、『件(くだん)』の方か。
でもそれだと、牛から生まれて、顔が人で身体が牛な奴だなぁ。
なんだかハイブリッドね、ヒナコが見たソイツ――」
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私はわざと明るい声で、べらべらと思い付くことをしゃべった。
なぜなら、ヒナコの話がこれで終わりじゃないこと――まだ続きがあることがわかっていたから。
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『たまにね、おかしなものを見るの――』
たまに。
それは一度きりじゃない。
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「チカちゃんって、いたじゃない――?」
暗い顔をした彼女が、話を続ける。
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「チカって、中3の時のクラスメートの?」
記憶の底から、懐かしい顔が浮かび上がってくる。
私とヒナコとチカ。私たちは、仲良し3人組だった。
それだけに、タブーとなった、その名前。
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「やめてよ、なんで急にチカのことなんか――」
「私が二度目に天使を見たのは、中3の時だった」
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私ん家(ち)って、母親とふたり暮らしで、母親は看護師で夜勤の多かったから、朝ごはんはよく自分で作ってたんだ。
ある朝、いつものようにトーストを焼いて、次に目玉焼きを作ろうとしていたの。
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フライパンに油をひいて、冷蔵庫から卵を出して。
いつもどおり、慣れた動作で、無意識に。
片手で卵を割って、フライパンの上に中身が
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トゥルン!
ボタ!
ジュッ!
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熱されたフライパンの上に落ちてきたのが、いつか飼育小屋で見た、あの粘液だらけの天使じゃなかったら、その日もいつもどおりの朝だったのに。
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突然のことに固まっている私の目の前で、天使は熱さに悶えてフライパンの上を転げ回ってた。
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ギーギーギー!
そして、苦悶の声の下から、
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「チカァ――」
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仲良しの友だちの名前が聞こえてきたの。
天使はやっぱり泡になって溶けて、フライパンからは甘い匂いが漂っていた。
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「――じゃあ何?
チカが下校中、車にはねられて死んだのは、その天使みたいのに予言された出来事だったってわけ?
アンタ、あの時そんなこと、一言も言わなかったじゃない。今になって、何ワケわかんないこと――」
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「私だってチカちゃんが亡くなったのショックだったんだよ?
それとも何? 泣きながら『天使が、天使が』って言えばよかったの?
中3の私でも、TPOくらいわきまえてたよ!」
ヒナコが珍しく、気色(けしき)ばんで反論してくる。
彼女の言うことは、確かにそうだ。
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「……ごめん」
「ううん……。
私もね、チカちゃんの事故の前は、それが良くない出来事の予言だなんて、思ってなかったの。
なぜなら、小学生の時の天使体験は、不思議で不気味ではあったけど、良いことの前触れだったから。
だから、事前にチカちゃんに注意を促すことはしなかったし、事故後は口をつぐんだ。
これまでずっと――」
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言ってくれればよかったじゃない、もっと早く。アンタひとりで抱えるの、つらかったでしょうに。
そう思ったけど、激昂してしまった私が今さらそれを言うのは憚(はばか)られた。
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窓の外をランドセルを背負った小学生のグループが駆けていく。
いつかの私たちを見ているかのような気がした。
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この話はいったいどこに落ち着くのだろう?
ヒナコは当初、「相談がある」と私を呼び出した。
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飼育小屋の卵に、冷蔵庫から出してきた卵。
そこから生まれ、予言をして消える天使もどき。
その予言は吉凶どちらの内容もあり得る、ということのようだ。
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ならば、彼女は三度天使を見て、「お告げ」を聞いたのだろうか?
そしてそれは、彼女の身近な人に、悪いことが起こるという内容だったのか。
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その対策を、私に相談したがっているのかもしれない。
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「――でね、私、すっかり卵が苦手になっちゃって、料理のレパートリーも少なくなっちゃった。
卵って、けっこうなメニューで使うじゃない?
だから、うちの旦那には申し訳ないなぁって――」
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「ねぇヒナコ、相談って――」
脱線を繰り返す彼女の話をさえぎって、私は尋ねた。
早く、その悪い予言の内容を確認したい。
ところが、ヒナコが次に口にしたのは、私の予想外の言葉だった。
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「――知ってる? 天使ってさ、甘い味がするんだよ?」
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甘い?
え――?
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「言ってなかったけど、私たち夫婦ね、ずっと子供が欲しくてさ。けっこう前から不妊治療してるんだよね。
でね、こないだ、体外受精を試してみよう、ってことになって。
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採取した精子と卵子を体外で受精させて、その受精卵を身体の中に戻したんだけど、なんか今度こそ、うまくいきそうなの。
経過観察は今のところ順調で――」
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ヒナコは少し早口になっていた。
窓の外から子供たちのはしゃぐ声がする。
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「――そんな時に、また、天使を見たの。
朝起きたら、枕元に突然、卵があったんだよ?
そんなところに卵なんか、置くわけないのに。
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でね、呆然と見ている私の目の前で、それにみるみるひびが入って、小さな手が出てきたの。
見覚えのある、小さな人の形の手が。
キーキーという、甲高い声が。
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やがて、天使が顔を覗かせたの。
その口がゆっくり動いて――」
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ああ――、お告げだ。
小6の時、親戚のお姉さんの出産を予言した。
中3の時、仲良しの友だちの死を予言した。
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今度は誰が、予言の対象になる?
旦那か?
母親か?
親戚か?
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それとも、お腹の中の――、
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「私、お告げを聞くのが怖かったの。
天使の予言には吉もあれば、凶もあった。
良いことならいいけど、もし、悪いことを告げられたら……。
だから、私――」
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食べた。
目の前の、今にも言葉を吐き出そうとする、背中に羽根を持つ小さなモノを――。
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バクリ。
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それには肉の味も、骨の歯ごたえもなかった。
口の中であっという間に、メレンゲみたいな泡になって消えた。
甘い味だけを、舌の上に残して――。
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「ねぇ、天使を食べちゃった私は、これからどうなると思う?
これから何が起こるのかなぁ?
ねぇ、マイちゃん。教えて――?」
ヒナコは憔悴しきった顔で、私の手を取って、そう言った。
〈fin〉
作者綿貫一
こんな噺を。