長編9
  • 表示切替
  • 使い方

お告げ

「私ね、昔からたまに、おかしなものを見るんだ」

nextpage

相談がある、と私を呼び出したヒナコは、目の前に置かれたお冷やに手を伸ばすが、コップをつかみ損ねて危うく水をこぼしそうになる。

大丈夫? 

おしぼり片手に声をかけつつ、ふと見ると、彼女の手は微かに震えていた。

nextpage

午後の喫茶店。

私たちの座る窓辺の席には、穏やかな陽光が射し込んでいる。

小さく流れるジャズミュージック。

店内に、客は私たちしかいなかった。

nextpage

白髪頭のマスターが、注文していたホットコーヒーをふたつ、テーブルの上に置いて戻っていった後、私は問いかけた。

「それで? おかしなものって?」

nextpage

ヒナコは、コーヒーカップに視線を落としたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。

separator

nextpage

nextpage

separator

nextpage 

あのね。はじめて「ソレ」を見たのは、小学6年の時。

その時、私、飼育委員だったの。

初耳? 

そうだよね、マイちゃんと話すようになったのって、同じクラスになった中2の頃からだもんね。

それからもう20年かぁ。なんかすごいよね。

nextpage

あ、うん。それでね。

それは、小6の夏休みのことだったんだけど――。

nextpage

当時、飼育委員はね、飼育小屋で飼われていた鶏たちの世話をしに、休みの間も交代で登校してたんだ。

だいたい、5日に1回くらいのペースだったかなぁ。

面倒くさかったけど、エサあげないと死んじゃうからさ、彼ら。 

nextpage

8月の中旬だったと思う。

本当は、いつもふたり一組なんだけど、その日は相方が急に、風邪をひいただか家族旅行だかで、私ひとりで世話をすることになっちゃって。

nextpage

用務員のおじさんに飼育小屋の鍵を借りて、「夏休みなのにえらいね」とかなんとか言われて。

それでも、「なんで私ばっかり」って、ブツブツ文句を言いながら小屋に行ったんだ。

nextpage

覚えてる? 校庭の隅にあった飼育小屋。

狭くて、まわりに貼られた金網もだいぶ傷んでた、あのオンボロの鶏小屋。

nextpage

あそこにオス1羽、メス3羽が飼われてて。

トサカにコッコにチキンにカラアゲだっけ。今思うとひどい名前だよね。

nextpage

小屋は中でふたつの部屋に分かれてて、片方の小さな部屋に鶏たちを閉じ込めて、その間に、ほうきでフンを片付けたり、水を取り替えたりなんかしてたんだ。

nextpage

その時、足元で、

nextpage

グシャリ!

って、音がしたの。

nextpage

見ると、コッコかチキンかカラアゲか、どれかが産んだ卵を、気づかないうちに踏んづけちゃったみたいだった。

全部は割れてなくて、ちょうど片側にだけ、ぽっかり穴が開いたみたいになってて。

「あー……」と思ってそれを見てたらね、その中に「いた」んだ。

nextpage

separator

nextpage

separator

nextpage

「いた? 何が? 有精卵的なやつ?」

ヒナコは首を振り、それから震える声でつぶやいた。

nextpage

「テンシ……が」

nextpage

separator

nextpage

separator

nextpage

それはね。

割れた卵からモゾモゾ這い出してきたソレは、鶏の雛なんかじゃなくて。

明らかに人の――人間の赤ちゃんの顔と、身体をしていたの。

nextpage

手のひらに乗るくらい小さな身体が、透明の粘液でヌラヌラ濡れてて。

それが、小屋に射しむ陽を受けて、テラテラ光ってた。

nextpage

ソレは、確かに小さな人の形をしていたんだけど、背中にはもっとちっちゃな、ボサボサの羽根が一組生えていたの。

だから、天使みたいだ、と私は思った。

nextpage

シワシワの赤ちゃんみたいな顔をして、ヒヨコみたいにキーキーした声で、しばらく泣いていた。

私は、呆然として動けないでいたんだけど、やがてそれは私の方に向けてゆるゆると手を伸ばしたかと思うと、こう鳴いたの。

nextpage

「アギラァ――」

って。

nextpage

しゃべったんだ、って思った。

コイツ――この羽根の生えた天使みたいなやつ、私に今、何かを告げたんだって、直感的にわかったんだ。

nextpage

separator

nextpage

separator

nextpage

「――で、その『おしゃべりする天使みたいなやつ』はどうしたの? 

まさか、捕まえて育てて、その年の夏休みの自由研究にでもしたのかしら?」

冷房なんかかかってないのに、腕には鳥肌が立っていた。

私は努めて、明るい声で尋ねた。

ヒナコはすぐには答えず、コーヒーカップの中に角砂糖をポチャン、ポチャンと落とした。

nextpage

「……溶けちゃった」

カップの中を覗いたまま、不意にヒナコはつぶやく。

nextpage

それからもう一度、

「溶けちゃったんだぁ」

と繰り返した。

nextpage

separator

nextpage

separator

nextpage

天使は急に苦しんで、もがきだしたかと思うと、私の見ている前で溶けていってしまった。

肌がプクプクと泡立って、みるみる輪郭が小さくなっていって。

やがて、メレンゲみたいな細かな泡の固まりになって、鶏小屋の乾いた地面に染み込んで消えてしまった。

nextpage

私は動けずにいた。

どれくらいそうしていたんだろう。

用務員さんが心配して呼びに来て、そこで初めて自分が呆然としていたことに気がついた。

nextpage

結局、そのことは誰にも言わなかった。

用務員さんにも、親にも、友だちにも。

nextpage

夢でも見たんだろう、って言われると思ったから?

ううん。なんか、言うのが怖かったから。

口に出しちゃいけないことみたいな気がしたから。

nextpage

翌年、仲の良かった親戚のお姉ちゃんに、子供が生まれたの。

その子の名前は、アキラだった。

nextpage

separator

nextpage

separator

nextpage

鶏の卵から、ヒヨコ以外のものが生まれた。

それは、小さな赤ん坊の姿で、背中に羽根を持っていた。

しかも、その「天使もどき」は、ヒナコの身近な人間に関わる出産を予言して、溶けて消えてしまった。

nextpage

奇妙な話だ。

奇妙なことが重なり過ぎている。

だが――。

nextpage

「確かに不思議な体験だけどさ、ヒナコにとって、悪いことは何も起こってないわけだよね?

仲良しの親戚のお姉さんに子供が生まれたってこと自体は、嬉しいことだったわけじゃない?

nextpage

『出産』を告げる『天使』といえは、ガブリエルだっけ? 『受胎告知』の。

聖母マリアに、神の子であるイエスを身ごもったことを知らせに現れる。

――あれ? でも、最後に溶けちゃったりはしないか。

nextpage

生まれてすぐに予言をして、それから死んじゃうっていうなら、日本の妖怪、『件(くだん)』の方か。

でもそれだと、牛から生まれて、顔が人で身体が牛な奴だなぁ。

なんだかハイブリッドね、ヒナコが見たソイツ――」

nextpage

私はわざと明るい声で、べらべらと思い付くことをしゃべった。

なぜなら、ヒナコの話がこれで終わりじゃないこと――まだ続きがあることがわかっていたから。

nextpage

『たまにね、おかしなものを見るの――』

たまに。

それは一度きりじゃない。

nextpage

「チカちゃんって、いたじゃない――?」

暗い顔をした彼女が、話を続ける。

nextpage

separator

nextpage

separator

nextpage

「チカって、中3の時のクラスメートの?」

記憶の底から、懐かしい顔が浮かび上がってくる。

私とヒナコとチカ。私たちは、仲良し3人組だった。

それだけに、タブーとなった、その名前。

nextpage

「やめてよ、なんで急にチカのことなんか――」

「私が二度目に天使を見たのは、中3の時だった」

nextpage

separator

nextpage

nextpage

separator

nextpage

私ん家(ち)って、母親とふたり暮らしで、母親は看護師で夜勤の多かったから、朝ごはんはよく自分で作ってたんだ。

ある朝、いつものようにトーストを焼いて、次に目玉焼きを作ろうとしていたの。

nextpage

フライパンに油をひいて、冷蔵庫から卵を出して。

いつもどおり、慣れた動作で、無意識に。

片手で卵を割って、フライパンの上に中身が

nextpage

トゥルン!

ボタ!

ジュッ!

nextpage

熱されたフライパンの上に落ちてきたのが、いつか飼育小屋で見た、あの粘液だらけの天使じゃなかったら、その日もいつもどおりの朝だったのに。

nextpage

突然のことに固まっている私の目の前で、天使は熱さに悶えてフライパンの上を転げ回ってた。

nextpage

ギーギーギー!

そして、苦悶の声の下から、

nextpage

「チカァ――」

nextpage

仲良しの友だちの名前が聞こえてきたの。

天使はやっぱり泡になって溶けて、フライパンからは甘い匂いが漂っていた。

nextpage

separator

nextpage

separator

nextpage

「――じゃあ何? 

チカが下校中、車にはねられて死んだのは、その天使みたいのに予言された出来事だったってわけ?

アンタ、あの時そんなこと、一言も言わなかったじゃない。今になって、何ワケわかんないこと――」

nextpage

「私だってチカちゃんが亡くなったのショックだったんだよ? 

それとも何? 泣きながら『天使が、天使が』って言えばよかったの? 

中3の私でも、TPOくらいわきまえてたよ!」

ヒナコが珍しく、気色(けしき)ばんで反論してくる。

彼女の言うことは、確かにそうだ。

nextpage

「……ごめん」

「ううん……。

私もね、チカちゃんの事故の前は、それが良くない出来事の予言だなんて、思ってなかったの。

なぜなら、小学生の時の天使体験は、不思議で不気味ではあったけど、良いことの前触れだったから。

だから、事前にチカちゃんに注意を促すことはしなかったし、事故後は口をつぐんだ。

これまでずっと――」

nextpage

言ってくれればよかったじゃない、もっと早く。アンタひとりで抱えるの、つらかったでしょうに。

そう思ったけど、激昂してしまった私が今さらそれを言うのは憚(はばか)られた。

nextpage

窓の外をランドセルを背負った小学生のグループが駆けていく。

いつかの私たちを見ているかのような気がした。

nextpage

separator

nextpage

separator

nextpage

この話はいったいどこに落ち着くのだろう?

ヒナコは当初、「相談がある」と私を呼び出した。

nextpage

飼育小屋の卵に、冷蔵庫から出してきた卵。

そこから生まれ、予言をして消える天使もどき。

その予言は吉凶どちらの内容もあり得る、ということのようだ。

nextpage

ならば、彼女は三度天使を見て、「お告げ」を聞いたのだろうか?

そしてそれは、彼女の身近な人に、悪いことが起こるという内容だったのか。

nextpage

その対策を、私に相談したがっているのかもしれない。

nextpage

「――でね、私、すっかり卵が苦手になっちゃって、料理のレパートリーも少なくなっちゃった。

卵って、けっこうなメニューで使うじゃない?

だから、うちの旦那には申し訳ないなぁって――」

nextpage

「ねぇヒナコ、相談って――」

脱線を繰り返す彼女の話をさえぎって、私は尋ねた。

早く、その悪い予言の内容を確認したい。

ところが、ヒナコが次に口にしたのは、私の予想外の言葉だった。

nextpage

「――知ってる? 天使ってさ、甘い味がするんだよ?」

nextpage

甘い?

え――?

nextpage

「言ってなかったけど、私たち夫婦ね、ずっと子供が欲しくてさ。けっこう前から不妊治療してるんだよね。

でね、こないだ、体外受精を試してみよう、ってことになって。

nextpage

採取した精子と卵子を体外で受精させて、その受精卵を身体の中に戻したんだけど、なんか今度こそ、うまくいきそうなの。

経過観察は今のところ順調で――」

nextpage

ヒナコは少し早口になっていた。

窓の外から子供たちのはしゃぐ声がする。

nextpage

「――そんな時に、また、天使を見たの。

朝起きたら、枕元に突然、卵があったんだよ?

そんなところに卵なんか、置くわけないのに。

nextpage

でね、呆然と見ている私の目の前で、それにみるみるひびが入って、小さな手が出てきたの。

見覚えのある、小さな人の形の手が。

キーキーという、甲高い声が。

nextpage

やがて、天使が顔を覗かせたの。

その口がゆっくり動いて――」

nextpage

ああ――、お告げだ。

小6の時、親戚のお姉さんの出産を予言した。

中3の時、仲良しの友だちの死を予言した。

nextpage

今度は誰が、予言の対象になる?

旦那か?

母親か?

親戚か?

nextpage

それとも、お腹の中の――、

nextpage

「私、お告げを聞くのが怖かったの。

天使の予言には吉もあれば、凶もあった。

良いことならいいけど、もし、悪いことを告げられたら……。

だから、私――」

nextpage

食べた。

目の前の、今にも言葉を吐き出そうとする、背中に羽根を持つ小さなモノを――。

nextpage

バクリ。

nextpage

それには肉の味も、骨の歯ごたえもなかった。

口の中であっという間に、メレンゲみたいな泡になって消えた。

甘い味だけを、舌の上に残して――。

nextpage

「ねぇ、天使を食べちゃった私は、これからどうなると思う? 

これから何が起こるのかなぁ? 

ねぇ、マイちゃん。教えて――?」

ヒナコは憔悴しきった顔で、私の手を取って、そう言った。

〈fin〉

Normal
コメント怖い
0
8
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ