俺の住んでる住宅街の真ん中辺りに、小さな公園がある。
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三十路で独身の俺は日曜日になるとたまにその公園に立ち寄りベンチに腰掛け、音楽を聴いたり読書したりしてまったりと過ごしたりしていた。
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それは3月某日の曇りがちの日曜日のことだった。
午後から俺は外出し、いつもの公園のベンチに腰掛けると、しばらくぼんやり辺りを眺めていた。
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遊具で遊んでいる子供たち。
体操をする数人のお年寄り。
イーゼルを立てて、熱心に絵画に勤しんでいる人もいる。
小さな公園では思い思いの時間がゆったり過ぎていた。
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俺が読みかけの推理小説でも読もうかと、ウエストポーチから文庫本を取り出した時だ。
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いつの間にか隣に女性が座っている。
何気に横目で見ると、俺の家から二軒隣に独りで住む五十嵐さんのようだ。
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腰まではありそうな長い白髪。
若い頃はさぞ美しかったであろう顔の造作ではあるが、今は化粧では隠しきれないような深いシワやシミがある。
細くて折れそうな身体には、とても年相応とはいえない鮮やかな真紅のワンピースを身に纏っていた。
年齢は多分80歳前後だろう。
何だろうか、数枚の画用紙を膝上に乗せている。
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俺の視線に気が付いたのか五十嵐さんはこちらを向くと、シワだらけの顔に柔らかい笑みを浮かべながら一礼した。
慌てて俺も一礼する。
すると彼女は聞きもしないのに、膝上の数枚の画用紙を指差しながら「これですか?」と呟いた。
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「え?、、、は、、はい」
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まるで心を読まれたように感じ少しどぎまぎしながら返事をすると、五十嵐さんは相変わらず優しい笑みを浮かべながら、その画用紙の束をすっと俺に手渡した。
受け取りそれを膝上に乗せると、とりあえず一番上の一枚を見る。
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それは、黒のパステルで描かれた絵画。
小さな公園の一コマのようで真ん中にベンチがあり、そこに一人の老婆が眠るように横たわっている。
その容姿や風体はどことなく現在の五十嵐さんに似ていた。
柔らかいタッチで描かれていて、どこか幻想的で独特な雰囲気を醸し出している。
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「それ、わたくしですのよ」
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と言って五十嵐さんが上品に微笑む。
俺は彼女の顔を見て愛想笑いしながら頷くと、二枚目を見た。
今度は狭い路地を、着物姿の男性の座る車椅子を押しながら歩く老婆の姿のようだ。
そしてその老婆も、どうやら五十嵐さんのようだ。
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「この車椅子の男性は?」
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私が尋ねると、
「五年前に亡くなった、わたしの主人です。
その絵はわたしが車椅子の主人を連れて近くを散歩しているところなんですが、その翌日に主人は帰らぬ人になりました」
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と言って五十嵐さんは少し暗い顔でうつ向いた。
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三枚目を見る。
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どこかの空港のカウンター前に二人の年老いた女性が並び立っており、一人はやはり五十嵐さんのようだ」
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「10年前、海外に旅立つ姉を見送りに行った時のものです。残念ながらこの後姉の乗った飛行機は太平洋上で消息を絶ち、今も発見されておりません」
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「ええ!?」
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悲しげにうつ向く五十嵐さんを横目に、驚きを隠せなかった俺は思わず声をだす。
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そしていよいよ最後の一枚を見る。
そこには古いアパートを背景に、チェックの厚手のセーターにリュックを背負った精悍な顔立ちの若い男と、隣には長いストレートの黒髪のハイネックのセーターを着た細身の女性が立っている。
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「それは、学生の時に付き合っていた彼氏が登山に出かける前に、彼の住むアパート前で会っていたものです。
彼はその日仲間との雪山登山の途中突然の雪崩に合ってしまい、帰らぬ人になりました」
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「え?」
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悲しげな顔で説明をする五十嵐さんの隣で、また俺は驚きの声をだした。
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全てを見終わり画用紙の束を五十嵐さんに返すと、俺は気になっていた一つの疑問を思いきって尋ねてみた。
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「あの、これ、どれも印象的で凄く上手に描かれているのですが、どれも不幸な事態の起こる直前を描いてて不吉な場面ですね。
いったい誰が描いたものなんですか?」
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五十嵐さんは少し驚いたような顔でしばらく俺の顔を見ると、やがて口を開く。
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「それを分かっていただくためには少し説明がいるかもしれませんね。
それはわたしがちょうど女子大生の頃のことでした。
当時アパートで独り暮らしをしていたのですが、昔から絵を描くのが大好きで、たまたま近くの画材屋の2階で絵画教室をやっていたんで、わたしはしばらくそこに通っていました。
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画材屋のオーナーが先生だったんですが、いつも真っ赤なベレー帽を被った細身で色白な男性で、世界の終末を暗示するかのような幻想的で不可思議な油絵を描く、地元では結構名の通った画家らしかったです。
年齢は当時50歳前後だったでしょうか。
どこか物憂げで無口な方でしたが絵の指導はとても熱心で、生徒が皆帰った後もわたしの指導を納得いくまでやってくれました。
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車で北方にある山にまで連れて行ってくれて、そこの林の奥まったところにある沼の畔でイーゼルを立ててキャンバスに作品を描く様を披露してくれたりしてくれました。
また教室が休みの日とかには素敵なイタリアンレストランとかに連れて行ってくれて、ごちそうしてくれました。
当時はまだ経験が浅く若かったわたしも、さすがに先生のわたしへの好意には気付いてきてました。
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そしてある日大学の講義の後アパートに帰ると、ポストに一通の白い封筒が入ってます。
宛名を見ると、絵画教室の先生からでした。
便箋には、わたしへの熱い思いが切々と書かれてます。
わたしの存在だけが今の自分の生き甲斐などという今思い出しても恥ずかしくなるような内容でした。
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ただ当時わたしにはお付き合いしていた同じ大学の男性がいましたから、先生の思いには残念ながらお答えすることは出来ませんと、ご本人にお伝えしました。
その時の落ち込んだ先生の様子は、とても直視出来るものではないほどのものでした。
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その翌日でした。
アパートのポストの中に1枚の折り畳んだ画用紙が入っていたのは。
当時のわたしが、雪山に登山に向かう彼氏を見送っているものでした。
そう、先ほどあなたが最後に見ていたものです。
わたしは初めてその絵を見た時、ああ、これは先生の描いたものだとピンときました。ただ、その絵の内容については全く意味が分かりませんでした」
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彼女は一瞬憂いを帯びた顔をすると、再び口を開く。
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「わけが分からないというのはもちろん変な絵がポストに入っていたということ自体なんですが、それよりも、その時彼氏はまだ登山なんてしたことがなかったんです」
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「は?」
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俺は意味が分からず、思わず声を漏らした。
その様子に五十嵐さんは軽く頷くと、再び口を開く。
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「その時は先生による単なるいたずらの類いかと適当に受け流していたのですが、その一月後に彼氏が初めて仲間と行った雪山で遭難したことを知って、わたしはなんとなく気づいたんです。
あの絵の意味を、、、
でもまだ半信半疑でした。
それから再びポストには1枚の画用紙が入ってました。
それから数日後に1枚、また数日後に1枚と。
ただ2枚目以降のものについては会ったこともない女性が中心に描かれていて、それを見た当時のわたしはただ頭を傾げるだけでした。
今となっては、その女性はわたし自身だったということは分かるのですが、、、
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その時にはわたし絵画教室を辞めていたんですけど、どうしても先生に直接会ってポストの絵のことを聞きたいと思い、わたしあの画材屋に走りました。
でも何故だか入口には鍵が掛かっていて、閉店という貼り紙がしてありました。
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そして後日、たまたま道で会った当時教室で仲良しだった女性から驚きの事実を聞きました。
先生は2階の教室で亡くなっていたようなんです。
教室の前辺りに置いたイーゼルにキャンバスを固定し、その前の椅子にぐったり寄りかかるようにして亡くなっていたらしいんです。恐ろしいことに先生は自らの手首をカッターで切り、そこから漏れ出た血を絵の具の代わりにして作品を描いていたようで、途中出血多量で筆を握ったまま意識を失ったみたいです」
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「あの、、そのキャンバスには何が描かれていたんですか?」
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緊張した面持ちで俺は尋ねる。
五十嵐さんは一度ゴクリと唾を飲み込むと、深刻な顔でまた喋り始めた。
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「ストレートの白髪を腰まで伸ばした、真紅のドレス姿で凛と立つ老婆だったそうです。
そしてそのドレスの色は、先生の血で描かれていたということでした」
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「ま、、まさか」
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そう呟くと俺は思わず、五十嵐さんの頭から足元までに視線を走らせた。
五十嵐さんは続ける。
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「先生には多分、わたしという女の人生に登場する大切な人の死が見えていて、それを絵画という形で伝えたかったのでしょう。
その真意は、愛する人に囲まれている貴女もいずれは独りになるのですよということ。
そしてとうとう最後、その通りになったわたしは、、」
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五十嵐さんはそこで話を終わせると、数枚の画用紙の中の一枚を手に取り、俺の眼前にかざした。
それは公園のベンチに眠るように横たわる老婆の絵。
そう、最初に画用紙の束の一番上に置かれていたもの。
俺がその絵を見た後五十嵐さんの顔を見た時、彼女は憂いを帯びた顔で一つ頷いた。
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翌日早朝、何故だか俺は再び公園に足を運んだ。
公園入口辺りで立ち止まり奥まったところにあるベンチに視線をやった瞬間、思わず「あっ」と声をだす。
そこには五十嵐さんが眠るように横たわっていた。
昨日と同じ真紅のドレスを身に纏い、、、
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そしてその時、俺は確かに見た。
ベンチ横手にあるブランコに二人の男女が並び座っているのを。
一人は長いストレートの黒髪の若く美しい女性。
そしてもう一人は、真っ赤なベレー帽を被った中年男性。
二人は何をするわけでもなく、じっと見詰め会っている。
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やがて東からの陽光が公園の隅々をあからさまにした時には、もう二人の姿は無かった。
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう