長編9
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蛇怨沼

「お疲れ様でしたー」

お疲れさまでーす、という声を聞きながら君島早苗、40歳は職場の介護施設を後にした。残業で夜の8時を回っている。彼女はこの仕事が好きだった。利用者を笑顔にする時やりがいを感じるからだ。

まだ7月に入ったばかりだが酷い暑さだ。夜になっても気温と湿度が高かった。

駅前のイオンに自転車を走らせた。ショートヘアが風になびく。

「う~、ベタベタする~。早くシャワーを浴びたい」

彼女はどこにでもいるような普通の主婦だ。童顔なのでラフな服装をすると年よりもずっと若く見えた。家族は旦那と小学生の子供が2人いる。今日は遅くなるからと夕飯にはカレーとサラダを用意しておいた。

早苗は今の生活にはそれなりに満足している。スピリチュアルな事とは無縁だ。怖話、ホラー、心霊スポットなど、むしろ遠ざけていた。

だが今夜は恐ろしい事態に陥る事になる。

ゴーッと高架線を列車が通り過ぎた。

早苗は自転車の前後のカゴに目一杯荷物を乗せ、高架下の側道を走っていた。街路灯は30m間隔で点いているがやはり暗い。住まいは職場から自転車で40分、まだ9時を過ぎたばかりなのでわずかながら人通りはあった。上下線がゴーッと頭上を通り過ぎてゆく。幅員が5mに満たない道路のため事故防止の観点から車止めが施され、歩行者と自転車しか通れなかった。

高架下は更地で、側道に沿って空き地が続いている。雑草が伸び放題だ。ホームレスが入れないように、また不法投棄をされないように有刺鉄線が延々と張り巡らしてあった。東京ドーム10個分くらいの鉄道会社の土地だった。

ここには昔からの湖沼もあった。地図に現れたのは江戸時代にまで遡るらしい。埋め立てようとすると必ず事故が起こる曰くつきの沼だ。それが開発の遅れをもたらしていた。

それだけでなくこの道にも不気味な噂があった。

早苗は快調に飛ばしていた。

所々に痴漢対策ポスターが貼ってある。女性が無数の手に囲まれ怖がっている絵だ。

「痴漢なんてごめんだわ………ん?」

遠くから音が割れたアナウンスが流れてきた。

『こちらは警察署です。現在、認知症の症状がある80歳くらいの婦人が行方不明となっています。白いシャツに黒い野球帽を被り……』

と耳に届いた。

「あら、大変」

介護施設に勤めているだけに他人事ではなかった。

「心配だわ」

急に前輪が重くなった。

「あ⁈」

ボコボコボコボコ

「ちょっとヤダ!」

パンクだ。

「マジ⁈」

アナウンスに気を取られていた時、割れたガラスを踏み抜いたのだろう。降りて見てみるとタイヤとチューブがズタズタだった。

「たくもお!」

前後のカゴには米やワイン、洗剤など重量物が詰まっている。押し歩きを始めたが距離はなかなかはかどらなかった。

「ああ、ついていない」

中間あたりまで来た。道路が横切っている。車も走れる道だ。

「パンク修理いくらかしら?」

彼女は横断して進んだ。先にいた人、後ろから来ていた人、彼らは左右へと分かれていく。

早苗のように前へ行く人はほとんどいない。何故ならこの先1キロは民家がないからだ。街路灯の間隔も長くなり暗さが増した。早苗は1人自転車を押し歩いた。

不意に息苦しさを覚え、胸がざわつく。

不吉な予感がした。

奇妙な鳴き声が耳に届いた。、モォウ、モォウ……。

「……ああ、ウシガエルか」

モォウ、モォウ、モォウと大合唱だ。

いつの間にかウシガエルの季節だった。鳴き声は雑草の向こうから聞こえてくる。例の沼からだ。100mほど奥にあり、東京ドーム1個分の広さがある。

この辺から有刺鉄線の破れが目立つ。釣り人が鉄条網を切って不法侵入するのだ。水難事故が指摘されたが対策は施されていなかった。

ウシガエルはおそらく一斉に孵化したのだろう、何百匹といるに違いない。

その一匹が目の前に飛び出した。

「げ」

引きそうになって慌てて止まる。

「⁈」

その後を黒い紐がスルスルと追ってきた。

「キャ⁈」

蛇だ。1メートルくらいの大きさだ 追いつきばくりと噛みついた。そのままスルリと草むらに消えて行った。

「……」

早苗は唖然として見送った。弱肉強食、あるいは大自然の摂理を見るかのようだった。

「まったく……」

一息入れる事にした。旦那にラインをする。

『パンクしちゃったわ、遅くなる。迎えに来てもいいわよ♡』

夜空を見上げると雲行きが怪しくなってきた。先はまだ長い。自転車のスタンドを立てた。背中が汗びっしょりだ。

わきの下の匂いを嗅いだりした。

「………やれやれ」

地蔵堂まで来た。通り道だから朝に夕に見かけている。祀られている地蔵は背が1mくらいあり細部まで彫り込んだリアルな物だ。昔ここで多くの人が亡くなる不幸があったのだろうと早苗は思った。

こんな曰くがあった。もし首のない地蔵を見たら、

「呪われる………」

毎日のように見かけるがむろん首から上が消えた事はない。ふと彼女は目を向けた。果たして首は?

「あるじゃン」

首から上はちゃんとあった。穏やかな笑みをたたえている優しい顔だ。

そりゃそうよね〜と一人うなずいた

「アレ?」

祠の横で何かが動いた。

「⁈」

白装束を着たお婆さんだった。

「あ」

早苗は声をかけずにはいられなかった。壁によりかかり座っている。しゃがんで目線を合わせた。

「あ、あの、もし、もし?」

「……」

「あの、お婆ちゃん?」

「はぃ?」

老婦人は目が悪く耳が遠いようだった。

「どなたさんじゃったかのぉ?」

「い、いえ、近くを通りかかった者です。あの、お困りじゃないですか?」

「ぅんむ、ちと迷おてしもぉてのぉ」

やはりアナウンスされていたお婆さんに違いないと思った。

「じゃあ、私として一緒に帰りましょう。あいえ警察に通報した方がいいかな」

携帯の入ったバックは荷物と一緒に自転車にある。取り出そうと立ち上がった。老婦人も続いて立つ。

「おー思い出したわい」

「ㇵ、ハイ?」

「こっちじゃ、こっちにあたしの家があるんじゃった」

ガシッと手首を掴まれた。

「え⁈」

有刺鉄線が切れたところから空き地の中へ引っ張って行こうとする。その先は雑草が腰の高さまで伸びていた。

「ああのえっそっち?」

尻込みして2,3歩後ずさりし、逆らい身体を捻った。その時、祠の中に目が行った。

「⁈」

見た物が信じられなかった。

「……!」

地蔵の首から上がなかったのだ。

「嘘⁈」

さっきは確かにあった。だが今スパッと切られたように頭がないのだ。あの優しい顔をした頭部はどこへいった? 全身から恨みのオーラを噴き出しているような首無し地蔵、早苗は恐怖した。

「そんな………」

唖然とした隙に主導権を取られた。こっちじゃこっちじゃとグイグイと草むらへ引っぱられて行く。

―呪われる⁈

老婆は雑草をものともせずに早苗を奥へ奥へと引いていく。老人とは思えない力だ。

「ちょっとお婆ちゃん、お婆ちゃん。あの、自転車が……」

高架下の道から街路灯の光はまだ届いていた。しかしこの先は闇だ。

「お婆ちゃん、どこまで行くの!」

モォウ、モォウとウシガエルの鳴き声がすぐそばで聞こえてくる。

「お婆ちゃん⁈」

老人とは思えない力だ。本当に人間か? もしや物の怪では⁈ 後ろ姿から尋常でない気配が漂い、早苗の手首を掴んでいる手にはいつの間にか鱗が浮いていた。

「ひ⁈」

ゾッとして鳥肌がたった。

じゃぶん、と片足が水に落ちた。

「!」

水辺だ。雑草が途切れ目の前には暗黒が広がっていた。かろうじて明かりが届き、沼だと分かる。植物の腐敗臭が漂った。

―そんな、こんなところまで。

老婆の足は止まらない。

モォウ、モォウ。

「お婆ちゃん⁈」

このままじゃ引きずり込まれる、踏ん張ったがぬかるみに足を取られ踏みとどまることができない。自由の利く左手で老婆の手をはがそうとしたが、指ががっしりと食い込み機械に挟まれたようにビクともしない。

「止めてください、離して!」

足を踏み出さなければ前のめりに倒れてしまう。すでに腰の高さまで水に浸かっていた。

「た、助けて!」

つんのめって転ぶか、深みで溺れるか。

ー殺される!

溺れる者は藁をもつかむという、早苗は必死に呼びかけた。

「嫌!! 助けて、助けて止めて離して」

岸からすでに5mは離れていた。

「あなたは誰なの⁈ 何故こんなことをするの?」

左手で水面を激しく叩き水しぶきが上がり波紋が広がった。

「嫌ーっ! 助けてー!!」

老婆が止まった。

クルリと振り向いたその顔は……、

「ひい!」

蛇人だ。

灰色の鱗に覆われた皮膚はヌメりと光り、鋭く尖った牙をむき出しにした表情は凶暴な性格と残忍な性格が伺えた。赤黒い目はガラス玉のようだ。バシャっと巨大な蛇の尻尾が水面を叩いた。

「キャアァァーー!!」

早苗は蛇に睨まれた蛙だった。チョロチョロと出し入れする二股の舌、それだけでも卒倒しそうだ。気を失っていたら死んでいただろう。

「ひいぃぃ」

「おむえ、地蔵を見ただろう」

「じぞ……?」

「この沼には無実の罪で斬首された者達が沈んでいるのだ」

暗黒の水面は聞き耳を立てるように静まり返っていた。

「……」

「あの地蔵はこいつらを鎮魂するために建てられた。しかし恨みが晴れたわけではない。沼の底で今でも苦しみ悶えている」

「……」

「贄の無残な死がこいつらの慰めになるのだ」

「……い」

「おむえは贄だ」

「いやっ! いやよ、助けて」

更に指が食い込み有無を言わさず引きずりこもうとした。

「キャアー!!」

その時、バシャっと水音がした。

「⁈」

岸を見ると老婦人が片足を沼に落としていた。白いセーターを着て野球帽を被った80歳くらいの婦人だ。

「た、助けて、助けて!!」

早苗の悲鳴と沼の中の人影に普通は気がつくはずなのだが、彼女はボッーとしたままだ。ゆっくりと足を引き上げた。認知症とアナウンスがあったのはこの婦人だった。

「贄は2人もいらない」

「!」

蛇人に薄気味悪い笑みが広がった。

「助かりたいか?」

「⁈」

「助かりたければおむえはあのばばあを贄にするがいい」

「そ、そんな」

老婦人は来た道を戻ろうとしていた。

「どうする? 行ってしまうぞ」

高架の上を列車が走って行った。

「ククㇰ」

「い、いやあぁぁー!!」

モォウ、モォウとウシガエルが早苗を煽るように鳴く

蛇人は言った。

「ククㇰッどうする?」

生きるか死ぬか、

他人か己か……。

「……」

早苗は旦那の顔を思い出した。

「あ……」

二人の子供の笑顔も浮かんだ。

「……」

老婦人の背中が遠ざかっていく。唇を噛んだ。

「あのお婆さんを……」

蛇人は聞いていた。

「……に」

「……」

「……贄にしてください」

「よおし分かった」

不意に手首の戒めが解け早苗はバランスを崩して、顔から水に突っ込んだ。

「げほ」

水面が激しく揺れた。

「⁈」

大きな水しぶきが上がり早苗は水を頭から被った。

「ぺっぺっぺ」

「ひっひええええぇぇぇー⁈」

「!」

振り返ると蛇人が老婦人を羽交い締めにしていた。10mはあろうかという大蛇の胴体を地上にさらけ出している。

「化け物……」

抱きかかえたまま後ずさりをしてくる。

「化け物!」

じゃぶんっと沼に引っ張り込んだ。

「ひ、ひいいぃぃー!!」

恐怖で正気に戻ったのか、激しく抵抗した。だが蛇人に抗えるはずもなく早苗の横を水しぶきを上げて通り過ぎて行く。老婦人は彼女に気付き声を上げた。

「たっ助けてええぇぇぇ!」

恐怖に見開かれた眼は必死に助けてを求めていた。

その時、水面から湯気のように白い手が無数に立ち上った。何十、何百という水死体のような白い手だ。手首が上下にゆっくりと『おいでおいで』をするようにとユラユラ揺れている。

「キャァアアアーー!」

名状しがたい恐怖に顔を伏せた。

ドボン、とひときわ大きな水音がした。

「……!」

チャプチャプと波が身体に当たる。

顔を上げるとそこには蛇人も老婦人もいなかった。白い手も消え、波紋とウシガエルの鳴き声だけが残った。

モォウ、モォウ、モォウ。チャプ、チャプ。

それに混じり聞こえてきたのは嘲笑……。

渦を巻くような嘲笑……。

幾千もの小さな波紋が沼に満ちた、雨だ。

チャプ、チャプ。

「ハアハアハア……」

ようやく沼から上がり草むらに崩れ落ちた。さめざめと泣いた。

…………

遠くでラインの着信音が鳴っていた。

早苗はどうやって帰ったのか覚えておらず、家族には自転車で転んだと言い張った。

……うっ……ぅぅ……

数日後、沼のほとりで女性の溺死体が発見された。無数の手の跡がついていたという。

「なんで私があんな目に……」

人を見捨てて自分は生き残った。認知症の老人とはいえ見殺しにしていいはずはない。ましてや自分のために生贄にしたのだ。彼女は自責の念に駆られた。

ーたっ助けてえぇぇぇー!!

老婦人の絶叫が頭から離れなかった。

「この偽善者め」

沼のようになった布団の中でおかしくもないのに早苗は笑っていた。

クスクス、クスクスクス……。

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