小林は憂鬱だった。
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というのはその日彼は、大学の同級生大森のアパートに呼ばれていて、そこで一緒にゲームとかをして遊ぶことになっていたからだ。
友人と一緒に楽しい時間を過ごすことの何が憂鬱なのか?
それは実は小林が大森を苦手としているなどということなのではなく、彼の彼女であるM代に対してなのだ。
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ピンポーン、、、
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小林が302号室玄関の呼び鈴を押すと間もなくして、
「開いてるから、入ってこいよ」という大森の声がする。
ドアを開き玄関口で靴を脱ぐと彼は真っ直ぐ廊下を進んで、リビングのドアを開いた。
その途端に、生ゴミのような嫌な匂いが彼の鼻をかすめる。
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8帖ほどの洋風の間。
中央には大きめのダイニングテーブルが、それに背を向けた配置でソファーが置かれている。
ソファーの2メートルほど前の壁には、液晶テレビが設置されていた。
ソファーには細身で色白の大森が部屋着姿で座っていて、肩越しに小林を見ながら微笑んでいる。
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そしてテーブルには、シルク製で真紅のガウン姿のM代が座っている。
いや座っているというより、椅子に身体をぐったりと預けているという感じだ。
顔は俯けていて長い黒髪のため、表情はうかがいしれない。
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「よく来たな、まあ座れよ」
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そう言って大森が自分の座るソファーの隣を薦める。
小林は言われるがままに、そこに座った。
途中テーブルの前を通ったが、やはりM代は俯いたまま動かない。
しばらく2人はありきたりな世間話をした後、どちらからともなく各々ゲームコントローラーを手にし、壁の液晶テレビ画面を見ながら対戦ゲームを開始する。
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小一時間ほど経過した頃に大森が「喉乾いたな、ビールでも飲むか?」と言って立ち上がった。
彼が台所へと飲み物を取りに行っている間、小林は恐る恐る背後のテーブルに視線をやる。
そこには相変わらずM代が椅子に身体を預け、顔を俯けたままじっとしていた。
大森が持ってきた缶ビールで互いに乾杯した後、小林は、ずっと気になっていたことをそれとなく彼に尋ねる。
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「なあM代のことなんだけどさあ、相変わらずか?」
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小林の言葉の後、ついさっきまで笑顔だった大森の顔が一瞬にして険しいものに変わった。
それからじろりと小林を睨むと「それ、どういう意味なんだ?」と低く抑えた口調で言う。
小林は蛇に睨まれた蛙のようにたじろいだ様子をしながら「い、いや、き、今日もさっきからずっとあのままだから」としどろもどろな感じで言った。
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すると大森は憮然とした表情のまま無言で立ち上がりテーブルのところまで歩くと、M代の傍らに立つ。
そして彼女の頭を両手で掴むと、ゆっくり持ち上げていった。
その様を見ていた小林の背筋に冷たいものが走る。
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M代の2つの目はパッチリ開いていた。
ただその両方の黒目は天井の方を向いており、口はポカンと開かれている。
そしてその顔は完全に血の色を失っていて肌は紫色に変色し、頬はげっそり痩けていた。
大森は彼女の左耳に顔を近づけると、
「M代、小林がお前の体のことを心配してるんだけど」と耳打ちすると、しばらく彼女の反応をうかがう。
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だがやはり彼女はさっきの表情のまま、ピクリとも動かない。
やがて大森は小林の方を見ると、
「『心配しないで、私は大丈夫だから』って言ってるみたいだ」ときっぱり言うと、ニッコリと微笑んだ。
小林は大森の奇妙な笑顔に向かってまた何かを言おうとしたが、諦めてまたすぐに俯き黙りこんだ。
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M代はその年の春先に既に死んでいた。
どういう原因かは定かではない。多分病気かなにかだろう
当時小林が大森のアパートに立ち寄った時分には寝室のベッドに仰向けになったまま、冷たくなっていた。
その時小林は大森に対して事の重大さを必死に伝えたのだが、彼は頑としてM代の死を受け入れなかった。
大森にとってM代は生まれて初めての彼女だったのだ。
だから彼の前から彼女が消え去るなんてことは、大森の生きている世界においてはあってはならないことだった。
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それから短い春が終わり、夏が来る。
その間も何度か小林は大森のアパートに立ち寄ったのだが、相変わらずM代はそこにいた。
しかも、その風体は見る度に崩れ変わり果てていて、悪臭さえ放っていた。
彼は幾度となく大森を説得する。
M代を冥界に旅立たせてやってくれと。
だがやはり大森は彼女を生きた存在として扱っていて、そのことを寸分たりとも疑っていなかった。
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そしてとうとう運命の日が訪れる。
それは夏のある日曜日の昼下がりのこと。
こともあろうに、大森はM代を連れて車でドライブに出掛けた。
部屋に閉じ籠ってばかりだから、病気が治らないのではないか?と思ったみたいだ。
助手席に白いワンピース姿のM代を座らせ、人通りの多い休日の街中を悠々と走っていると、パトカーで警ら中の警察に不審に思われ停車させられる。
助手席に横たわるM代の姿を改めて見た警察官は、そのあまりに異様な風体に背筋を凍らせた。
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まずその悪臭は耐え難いもので、黒い頭髪は半分以上抜け落ちていた。
ミイラのように干からびた顔には白い白粉が塗りたくられ、瞼にはどぎついアイラインが唇には真っ赤なルージュがひかれていた。しかもその鼻や口からは無数のウジが湧いていたようで、現場に遭遇したその若い警察官は思わず戻しそうになったそうだ。
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警察の尋問に対して大森は、ただ彼女とドライブしていただけだと顔色一つ変えずに答えていたという。
彼は今、市内の裁判所指定の医療センター精神科で精神鑑定を受けさせられている。
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう