「『変なきりんさん』
これは愛花里が最近よく言ってた言葉です。
最初のうちは気にも止めていませんでした。
というのは、幼稚園児の子供というのは覚えたての言葉を状況も考えずに喋りたがるものですもんね」
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大葉さんはそう言って軽く微笑んだ後、悲しげにうつむいた。
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S市郊外にある市営団地に住む大葉さんは今年三十路で、ショートの髪を明るい茶髪にした細目の女性である。
6帖ほどの畳の間に正座した彼女の背後には小さな白木の祭壇があり、飾られたお花とお供え物の前にはニッコリ微笑む幼い女児の遺影が置かれていた。
喪服姿の大葉さんは続ける。
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「私の住んでいる団地は古くてエレベーターが無く、三階奥にある自宅に行くには階段を利用しないといけません。
その日もパートの仕事を終えた私は、いつも通り愛花里を幼稚園に迎えに行きました。
その後途中で買い物を終え団地に着くと、娘と二人レジ袋をさげて一歩一歩コンクリートの階段を登っていたんです。
そして二階に行き着き、次は三階という時でした。
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『あ、変なきりんさん』
突然娘が立ち止まり指差しながら言います。
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『え、どこに?』
と私はその先に視線をやりました。
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すると娘は『ほら、いちばん奥に』
と嬉しそうに言うので、私は渡り廊下の突き当たりの辺りに目を凝らします。
でも見えるのは赤茶けた金属製の玄関扉と、その前の渡り廊下だけです。
すると娘は同じ方を見ながら「バイバイ」と笑顔で手を振ると、再び元気よく階段を登り始めました。
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─あそこは、うちのちょうど真下で確かおじいちゃんが独りで暮らしている部屋では、、
などと思いながら私もまた登り始めたんです。
それからも何度か愛花里と一緒に買い物に行くんですが、その都度同じ場所で同じことを言ってました」
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「それで私、ある夕飯時に尋ねたんです。
『愛花里ちゃんさあ、ママと一緒に買い物に行った帰り道、下の部屋の方を指差して変なきりんさんって言うじゃない。
そのきりんさんってどんな姿なの?』
言われた愛花里はしばらく上を向き首を傾げるような仕草をしていたのですが、やがて食卓テーブルを離れると、どこからか画用紙とクレヨンセットを持って戻ってきました。
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それからテーブルに画用紙を置くと、口を尖らせてクレヨンで描きだしたんです。
そして描き終えると『はい、これ』と言って私に手渡してくれました。
『どれどれ』と私はその絵を見ます。
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それは奇妙な生き物の絵でした。
四つ足で長い首に黄色い胴体というところは、確かにキリンのようです。
でも違いました。
というのは、その顔は人間のようで目や鼻や口があり顔の肌も肌色だったのです。
私は愛花里に尋ねました。
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『ねえ、このキリンさん、愛花里ちゃんに何と言ってるの?』
『寂しいからこっちにおいでよって言ってるよ』
『こっちにおいで?』
『うん!』
私が尋ねると愛花里は無邪気に頷きました」
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そこまで喋り大葉さんは堪えきれず俯くと、白いハンカチで目頭を押さえる。
私もつられて喪服の胸ポケットからハンカチを出すと、目頭を押さえた。
しばらくすると彼女はまた話しだす。
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「それでどうにも気になった私はその翌日、勤め先を午後から早退し団地に帰り、愛花里の指差していた二階奥の部屋に行ってみようと思ったんです。
そして団地に行き着くといつも通り二階まで歩き、何気に渡り廊下の先を見た時でした。
ゾクリと背筋に冷たいものが走りました。
その時私には確かに見えたんです、あれが。
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廊下沿いに並ぶ金属の入口扉、その一番奥の前辺りに、
午後の気だるい日差しに照らされ、奇妙な人らしき者がポツンと立っているんです。
こちらに貧弱な背中を向けたその人は多分裸だったと思います。
がっくりと肩を落としていて、ただ首だけは異様に長くて頭部を前に項垂れています。
その光景が信じられなかった私は一瞬、目を瞑りました。
それから再び見た時には、それはいませんでした。
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私は勇気を出して、その場所まで歩きます。
赤茶けた金属の扉の下部にあるポスト口には郵便物が溢れるほどぎっしり詰まっていました。
扉横手には『田中』という表札。
不審に思った私は呼び出しのブザーを押してみました。
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ブーーー!!
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何度となく押すのですが何の返事もありません。
軽くノックして『田中さん、田中さん』と声をかけたのですが、やはり同じでした。
だからやむを得ず、ドアノブを回してみたんです。
そしたら意外にもドアは簡単に開きました。
すると、いきなり何と言うか生ゴミの腐ったような匂いが鼻をつき、私は思わず鼻と口を押さえます。
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そして恐々『田中さん、田中さん居ますか?」と廊下の奥に向かって声をかけましたが、やはり返事はありません。
それで『すみません、あがりますよ』と言うと、靴を脱いで廊下に上がります。
間取りはうちと同じはずですから真っ直ぐ歩き、突き当たりのリビング入口扉を開けました。
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室内はきちんと片付けられており、正面奥のサッシ戸のカーテンは閉じられ、中央にあるダイニングテーブルの上には畳んだ新聞が一つ置かれているだけです。
『田中さん、田中さん、いるなら返事してください』と言いながら私はリビングを横切り、隣の和室を区切る襖の取っ手に手を掛けると、ゆっくり開けていきます」
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そこまで言って大葉さんはまた俯きそのまま床に突っ伏して、言葉を詰まらせる。
正面に正座する私は彼女の震える背中をさすりながら
「辛いのなら、もうここまでで良いんですよ」と囁く。
彼女はしばらくそうしていたが、やがて気丈に顔を上げると続けた。
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「途端に強烈な悪臭が鼻をつくとともに、数匹のハエが飛び出してきました。
それから視界に飛び込んできた光景を理解するのには、数秒かかりました。
でもそれが分かった時には心臓が激しく鼓動をしだし、足がガクガクと震えだしたんです。
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それは薄暗い和室の片隅。
ちょうど仏壇の前辺りでした。
裸の男の人の背中だけが宙に浮いてるように見えます。
でも違いました。
その人は天井から垂れたロープに首を通し、だらりと体を預けたままゆっくり回転しています。
体は全体に黄色く変色していて、あちこちどす黒いシミがありました。
しかもその下の畳は茶色く変色してます。
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亡骸は随分時間を経ていたのか、ほとんど肉を失い首だけが異様に伸びており耐え難い異臭を放っていて周りをハエたちが飛び交っていたんです。
そして次の瞬間でした。
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ドサリ
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首が途中からちぎれ、ロープの輪っかに頭部だけを残したまま肉体は畳に落ちました。
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ひっ!
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私は小さく悲鳴をあげると思わず後退りします。
それからようやく気を取り直した私が警察に電話しようと、携帯を手元に持ってきた時です。
それよりも先に呼び出し音が鳴り出したんです。
画面を見ると愛花里の幼稚園からでした。
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慌ててでると娘のクラスの先生からで『愛花里ちゃんが、愛花里ちゃんが』と、ただ泣きながら繰り返すものですから私『娘がどうしたんですか?』と焦りながら尋ねたんです。
そしたら、そしたら、、
うう、、、」
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その後大葉さんは泣き崩れ、会話どころではなかった。
私は愛花里ちゃんの遺影に手を合わせ線香をあげると、団地をあとにした。
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帰りの車の中、署に向かう途中私は考えていた。
元来私は心霊現象などということは信じていない。
ただ今回の件に関しては、あの愛花里ちゃんの悲惨な死亡事故の状況に関してだけは、、
お遊戯の時間、突然幼稚園遊び場の片隅にある鉄棒に縄跳びのロープを通し、笑顔で首を吊った愛花里ちゃんのあの異常な行動だけは、、
やはり田中さんの自死と関連付けせずにはいられなかった。
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう