赤堀さんは今年35になる独身男性だ。
彼は昨年の末頃に15年勤めた会社を人間関係のストレスから自主退社すると、今年の春先から郊外にあるアパートに居を変えるとともに、とある食品関連の工場に勤め出した。
仕事は深夜の零時から朝の8時までの夜勤で、赤堀さんの生活は完全に昼夜が逆転していた。
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その日も朝彼は眠い目を擦りながらアパートの渡り廊下を歩き進み、3階一番奥の自室玄関前で立ち止まると「あ~~あ」と大きくため息を漏らしながら鍵を回していた。
その時だ。
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「あ~~あ」
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突然左側から低くくぐもった女の声がする。
驚いて赤堀はそちらに首を動かすと、ドキリとした。
隣の部屋の玄関扉が少し開いており、その隙間から魚のようなのっぺりとした女の青い顔が覗いていた。
彼女はその死んだ目で彼の顔を見ながらまた「あ~~あ」と呟くと、最後は嬉しそうな笑みを口元に浮かべながらゆっくりドアを閉じていった。
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─バタン
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その後部屋に入ると赤堀は、リビングのソファーに体を横にし、ぼんやり天井を眺めていた。
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─ここに移ってきてようやく半年になるけど、隣に誰か住んでいたなんて今初めて知った。
まあ多分俺の生活が昼夜逆転しているから、気付かなかったのかもしれんな。
それにしてもさっきの女、、、
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などと思いながら彼はタオルケットを胸元まで引っ張ると、そのまま微睡みの泉に浸かっていった。
それからどれくらいが経った頃だろう。
突然響いた抑揚のない単調な声で、赤堀は覚醒する。
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「あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
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声は数十秒続くと次は、
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shake
ドン!、、、
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shake
ドン!、、、ドン!、、、
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shake
ドン!、、、ドン!、、、ドン!
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何かを叩く音がする。
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彼は半身を起こすと、咄嗟にテーブルにある携帯に目をやる。
まだ昼過ぎだ。
するとまた感情の全く感じられない声がしばらく聞こえてくる。
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「あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
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そしてまた、
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shake
ドン!、、、
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shake
ドン!、、、ドン!、、、
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shake
ドン!、、、ドン!、、、ドン!
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どうやらそれは玄関の方から聞こえてきているようだ。
彼はソファーから降り玄関口まで歩くと、
「誰だよ!」とドアに向かって怒り口調で言った。
…………
何の返事もない。
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赤堀はドアスコープを覗く。
だが見えるのは赤黒く染まった風景。
彼は首をかしげる。
─おかしいなあ、もう昼間だから外は明るいはずなんだが
などと思いながらチェーンを外し解錠すると、ドアを開いた。
だが視界に入るのは渡り廊下と安全塀そして青空。
首を出して右側を見るが、廊下が伸びているだけで人の姿はない。
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赤堀はまた首をかしげながらもドアを閉じた。
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翌日も同じくらいの時間に、あの不気味な声が室内に響いた。
赤堀はまた玄関まで歩きドアスコープを覗くが、やはり見えるのは赤黒く染まった風景だった。
ドアを開き外を見るが、特に変わったことはない。
ふと彼は考えた。
─もしかしたらイタズラしているのは、隣のあの女かもしれない。俺が毎日朝方帰ってきて玄関でガタガタしているのが気に入らないのか?
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イライラの溜まっていた彼は意を決すると外に出てから隣の玄関前に立ち、呼び鈴を鳴らす。
ピンポ~~ン
何度となく鳴らしたが何の反応もない。
赤堀が所在なく玄関ドアを眺めていると、左側からいきなり女性の声がした。
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「あの、どうかされました?」
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見ると、少し離れた廊下にエプロン姿の主婦らしき中年女性が不審げな顔で立っている。
赤堀の二軒隣に住む女性だ。
彼は慌てて「いえ、、」と呟くと踵を返そうとした。
すると女性は怪訝な顔をしながらこう言った。
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「こちらはもう三年くらい空き家ですけど」
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「え?
で、、でも、、、」
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ショックでしどろもどろになりながらも何か言おうとする赤堀を横目に、その女性はさっさと自分の部屋に入って行った。
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彼は再びリビングのソファーに横になり、考える。
─いや一昨日俺は、確かに隣の女を見た。
そして多分連日昼頃聞こえたあの声は、あの女の声だ。
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その翌日の金曜日。
赤堀はいつも通り朝8時に仕事を終えると自宅には帰らず、ファミレスで時間を潰してから昼前くらいにアパートに戻るようにした。
自らの目で怪異の現場を見定めたかったからだ。
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1階からエレベーターに乗り3階で降り廊下の途中に立つと、突き当たりにある自宅玄関の前辺りをじっと見る。
しばらくは視界に入るのは殺風景な渡り廊下だけで、何の変化もなかった。
だがちょうど昼を過ぎた頃だろうか。
カチャリと音がしたかと思うと件の玄関ドアが開き、ふらりと女が姿を現した。
その風貌に一瞬で赤堀の背筋は凍りつく。
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その青い顔は異様に大きく黒髪は肩まであるのだが、前髪は頭頂部辺りまでない。
女は白いロングドレスのような服を着ていて赤堀の部屋の玄関前に立ち顔の半分くらいまで口を大きく開くと、ドアスコープに近付けてあの不気味な声を出し始めた。
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「あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
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そして拳を握ったか細い手でまた、
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shake
ドン!、、、
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shake
ドン!、、、ドン!、、、
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shake
ドン!、、、ドン!、、、ドン!
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赤堀はしばらくただ呆然とその様を眺めていたが、やがて気を取り直すと再びエレベーターに乗り1階で降りる。
そして自宅には帰らず、その日は駅前のネットカフェで睡眠をとることにした。
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その後間もなく彼はアパートを引っ越した。
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fin
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう