小学生の頃、浅田君という同級生の男の子がいました。
浅田君は、小学四年の時に他県から転校してきた生徒で、普段はかなり無口で大人しいのですが…突然、怒鳴り散らしたり、机や椅子を蹴ったり、と…時々、暴力的な側面がありました。
先生がいる前では、全くそういった面は見せないので、知っているのは生徒だけ。それも…同級生や下級生がいる前でだけキレるので、まだ言葉で説明できるほどの語彙力がない下級生は、ほぼ泣き寝入り状態。同級生の私達でさえ、長いこと説明に困っていました。
と言うのも、特定の誰かを攻撃するわけでもないし、周囲の生徒が「やめて」と何度か声を掛けると、我に返ったように、「ピタッ」と動きを止めるのです。
その姿はまるで…生身の人間を貪っていたエイリアンが、自分達より上のエイリアンに集合を掛けられ、突如動きを止めるような…そんな感じ?
その時だけ、浅田君から人間味が失われているようで…そもそもどうして豹変するのかも分からず、周囲の生徒は、やんわりと距離を置いていました。
それでも、席の近い子は、給食の時に顔を突き合わせなければならないので…塾が一緒だった川島さんという女の子は、「浅田君が怖くて、好物が出ても味が分からない」と、こぼしていました。
しかも、「何が嫌なの?」と、クラスの皆で尋ねてみても…何故か、浅田君は一言、
「死ね」
と吐き捨てるだけで、一切、理由を話さなかったそうです。
ただ、「やめて」と言うと、やめる。それでしばらく大人しくなるけれど、忘れた頃に再びスイッチが入り、暴れる…この繰り返し。
これから卒業まで、この訳の分からない現象が付いて回るのか、と…クラスの違う私でさえ、一時期、学校に行くのが少し億劫になっていました。
ですが…(こんな風に書くと、失礼なのは承知です)ある時、好機が訪れました。
浅田君が下級生に手を出して、それが先生に見つかったのです。
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被害に遭った子は、二つ上の姉から、日常的に不満を聞かされていたそうです。
そして、姉を守りたい気持ちから、一人でクラスに乗り込んで、浅田君に「ぼうりょくはんたい!」と訴えたところ…スイッチが入ってキレた浅田君に、顔面や腕やお腹を思い切り殴られ、先生達が見つけた時には、意識が飛んでいたそうです。
幸い、意識はすぐに戻ったそうですが…小学二年生の女の子が、小学四年生の、成長著しい男子生徒に力一杯に殴られたとあって、体のあちらこちらに、痛々しい大きな青あざが出来てしまったらしい、と…母が、誰かと電話で話しているのを聞きました。
何にせよ、この事件がきっかけで、浅田君の暴走がようやく大人達の知るところとなり、次の日から、浅田君が登校してくることは無くなりました。
クラスメイトは胸をなで下ろし、川島さんは、「ようやく給食の味が分かるようになった」と、喜んでいました。
放課後に外で出くわしたらどうしよう、という不安も、どこかに転校したと言う話を聞いて解消され、学校生活におけるヒヤヒヤした感覚が消えた反動で、私の学年は、担任が頭を悩ますほどに、騒がしく賑やかになってゆきました。
そんなある時でした。放課後、公園で暇つぶしをしていると、すぐそばで、近所の人が数人で立ち話をしているのが見えました。
何と無しに聞いていると…それは浅田君についてのことで、その中には、殴られた女の子のお母さんらしき人もおり、浅田君の家族と学校で話し合った時のことを、まくし立てていました。
「あの人、『息子はかんのむしが取れないから、仕方が無い』って言ったのよ?!信じられる?!」
かんのむし?
私は、何故かそのフレーズが、耳に残って離れませんでした。
かんのむし…
むし、と言うのだから、何かの虫なのだろう。
でも、浅田君が暴れるのは、それが原因?取れないって、どういうことだろう…蚊や蜂みたいに、刺すのかな?
待てよ?だとしたら…虫除けスプレーをかけないと、私もそうなってしまうのでは?!
人を暴れさせる恐ろしい虫が、この世にいる…
そんな風に思い、不安で一杯になった私は、すぐさま母に、この話をしました。ですが…話した途端、母は思い切り笑いました。…私の認識は、少し違っていたのです。
───疳の虫はね、野っ原にいる虫ではないの。人間の身体の中に住み着く…妖怪みたいなものよ。
昔はね、お腹が空いたり、病気になったりするのは、虫が悪さをするからだ、って考えられていたの。その中でも疳の虫は、大泣きをさせたり、怒って暴れたり…癇癪を起こすの。あなたが赤ちゃんの時にも、付いていたのよ?
でもね、疳の虫が悪さをするのは赤ちゃんの時だけで、自然に消えていくものだから大丈夫。もう付いていないし、襲っても来ないよ───
母は、そう言って私に教えてくれましたが、私は、なかなか安心出来ませんでした。
赤ちゃんの時だけで、自然に取れていく…と言うのが本当なら、浅田君は今でも、虫を名乗る、目に見えない「妖怪」に捕らわれていて、あんな風なっているのだと…そう考えたら、余計に怖くなったのです。
と、同時に、私はほんの少しだけ、浅田君が可哀想だと思ってしまいました。
虫のせいで、周囲から避けられるなんて…私だったら耐えられない…と。
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それからしばらくは、浅田君に関する話は、ぱったりと聞かなくなったのですが…六年後の、中学卒業を控えた辺りで、再び噂が立ちました。
井戸端会議好きな奥様方の話によれば、浅田君は、「例の事件」が理由で地元の小学校を退学したものの、「より良い進路のために」という理由から、家庭教師を雇って足りない分の勉強を補い、その後、県内の私立中学へ入学したそうです。
そこは、いわゆる進学校だったのですが…徹底的に勉学に励んだのが功を奏し、浅田君は常に上位の成績を収め、加えて、以前よりも感情を表に出せるようになり、他者とのやり取りも活発になったそうで…小学校時代を知る周りの人達は、「もしかしたら、上手く言葉に出来ないが故の症状だったのでは?」と考え、「このまま収まっていったら良いね」と…良い変化に期待を寄せていたそうです。
しかし…それも束の間。浅田君は、二学年の途中で、退学してしまったのです。
原因は、学校内で「疳の虫」が暴れ、それを見た一部の生徒に煽り立てられたから。
恐らく、勉学では浅田君より下でも、したたかさや立ち回りの上手さで言えば、彼らの方が上だったのでしょう。浅田君はあっという間に玩具扱いされ、すっかり気を病んでしまったそうです。
それが何故、近所で話題に上っていたかというと…彼の母親が、あちらこちらで話していたためでした。
「本当はいい子なのに、『疳の虫』が取れないの」
…と、浅田君の母親は、悩んでいる素振など全く見せず、何故か、嬉しそうにニコニコ笑いながら話すのだそうです。
一部の人が心配して、心療内科などを勧めても一切拒否し、頑なに「疳の虫のせい」だと信じていて…聞き手の側も、当たり障りのない相槌を打つ以外、何も出来ないのだそうです。
その間、浅田君の姿は、一切見かけませんでした。
ですが…彼の父親らしき人が、大荷物で出て行ったきり戻って来なかったとか…件の母親が、近所で当たると有名な占い師の家に入り浸っているとか…そんな話を母づてに聞き、私は遠巻きに、「色々大変な家族なんだな…」と、思っていました。
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彼の中学以降については、私自身が県外の高校に進んだ為、殆ど知りません。
ですが、その後…社会人になって随分経ってから、また話を聞くようになりました。
学校は中退したものの、勉強だけは良く出来たため、彼はその後、色々な資格や免許を修得し、それらを生かすべく、専門学校で講師の仕事に就いたそうです。
が…そこでも疳の虫が暴れ、提示した問題に、生徒が「わからない」と答えたり、答えを出すために考えていたりすると、途端に機嫌を損ね、「お前らみたいな無能のせいで…」と恨み節を吐きながら、教科書や黒板に当たり散らして、何回も授業を壊し、結果、半年も経たずにクビになったそうです。
その後、資格を武器にどうにか他の職に就いたそうですが、そこでもやはり、疳の虫は抑えられなかったようで…一部では、「警察が介入するトラブルを起こしたらしい」と、噂されていました。
あくまで噂の範疇を出ないので、どこまでが本当かは不明ですが…彼が今でも、厄介な感情を持て余しているということは、紛れも無い事実です。
そう言えるのは…私自身が久々に、浅田君が荒れ狂う様子を目撃したからです。
それは、帰省し、家族で地元のスーパーに出向いた時のことで…何が原因かは分からなかったのですが、彼は店員に対して、売り場の商品を殴りつけながら、嫌味を含んだ言葉を吐き続けていました。
その様子をしばらく見ていると…ふいに彼の背後から、痩せて年老いた女性が現れ、彼の背中にしがみつくように立つなり、口元に笑みを浮かべながら、
「いい子だよ…いい子だよ…」
…そんな風に、呟くのです。
すると浅田君は…その言葉には何故か素直に従い、途端に「ピタッ!」と動きを止めると、黙り込んで、店員への詰問を止めたのです。
その光景は…小学校時代、他の生徒から「やめて!」と言われて動きを止める…あの時と同じ。歳を重ね、体形が崩れている以外、何も変わっていませんでした。
「誰も本気にしてねぇよ…ほら、あの店員の顔…」
たまたま居合わせた、近所のおじさんが指差した先…スイッチが切れた浅田君と向かい合う、女性店員と男性店員の顔は…吹き出すのを堪えんばかりに、笑みを浮かべていました。
曰く、この光景は、地元ではすっかり日常化しており、まともに請け合う人は、既に居ないのだそうです。
「ありゃあな、ビョーキなんだよなぁ。どうにも治せなかったんだろうなぁ…」
おじさんの言う通り、彼は恐らく、何かしらの精神疾患を患っているのかも知れません。
ですが…スーパーで目撃した時のことを思い出すと、果たして、そう言い切れるものなのか…
正直、疑問でした。
何故なら、浅田君の後ろに立っていた、あの年老いたご婦人───言葉こそ、息子を庇っているように見えましたが…何だか、まじないを掛けているようにも感じたのです。
そして、背中にぴったりと張り付く様子は、まるで、終生、宿主を離さないようにとしがみつく、「虫」のように…私の目には、そう映っていました。
「聞いたぁ?あの人…今度はコンビニ店員にいちゃもんつけて暴れたって…よくやるわよね~(笑)」
「そうなの?…あ、ちょっと待って…どうしたの?トイレかな?」
それから数年後の、ついこの間行われたママ友会のさなか。抱っこひもの中で大泣きする娘をあやしながら、
…この子から、ちゃんと『虫』が取れますように…
気付けば、私は娘が泣いたりぐずる度に、そんな風に…切に願うようになっていました。
そして…新たに、あることが分かりました。
私が、スーパーで浅田君の姿を見た時…
あの時点で、既に彼の母親は亡くなっていたのです。
となれば、彼の背後にいた、あの老女はなんだったのでしょう?
…現在も、浅田君から、疳の虫は取れていません。
作者rano_2
ご無沙汰しております。
新しい話を書いてみました。
ほんの少しだけ、「占いのおばさん」のスピンオフと言う感じです。
楽しんで頂けたら幸いです。