「うるせえなあ、分かったよこんな家出て行ってやるよ!」
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そこは昭和の終わり頃に作られた、碁盤の目のように区画された住宅街の一角にある一軒家。
夕飯時に母とつまらないことで喧嘩になり引くに引けなくなった満男は、精一杯の捨て台詞を吐き玄関を飛び出した。
そして勢いよく金属の門を開き薄暗い路地を歩き出す。
古い住宅に挟まれた狭い路地を彼は街灯を頼りにただひたすら歩き続けていた。
それから幾度めかの角を曲がり歩き進んだ辺りで
「ぼうやぼうや」
いきなり右手の暗がりから女の人の低い声がする。
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満男はその方に視線をやりドキリとした。
視界に入ったのはどこかの家の赤茶けた金属の門。
その門の隙間の向こうに女の白い顔がボンヤリとある。
彼がドキリとしたのは女が突然現れたからというよりも、その顔がまるで「オカメ」のお面のようだったからだ。
彼女の片手に持たれたランタンの灯りが不気味に浮かび上がらせているのは、桃割れの黒髪にまるで白粉を塗したような肌をした下膨れの顔。
並んでいる二つの目はミジンコのように細くて鼻は団子鼻、口はおちょぼ口だ。
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割烹着姿でミジンコのような細い二つの目をさらに細めながら
「まあまあ、ぼうや泣いているの?
かわいそうにねえ、さあこっちにおいで」と言ってから門を開き手招きする。
満男は「い、、いえ」と言い、その場を離れようとしたのだが女は彼の手首を掴むと半ば強引に敷地内に引き込もうとしだす。
そのあまりに熱心な様子に根負けした彼は素直に従うことにした。
女はランタンをぶら下げ玄関のところまで歩くとドアを開き
「さあお入りなさい」とまた手招きする。
それで満男は女の言う通り、玄関の中に入って行った。
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室内は薄暗く、どこかどんよりとした重い空気が漂っている。
女はサンダルを脱ぐと廊下に上がり、そそくさと歩き進む。
満男も訳も分からず靴を脱ぐと、その背中に従った。
女は廊下突き当たりのドアを開くと彼を中に入れる。
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そこは居間だろうか
中央にあるのは大きめのアンティークな机。
壁際には茶箪笥がありその上には箱型のテレビや日本人形そして柱時計と、どこか昭和を思わせるような風情だ。
満男は昔のホームドラマの一場面を間近にしているような錯覚に陥った。
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彼女は机の上にランタンを置くと、
「ここにお座りなさい」と言って手前の椅子を勧める。
言われた通り満男はそこに座った。
すると女は「ちょっと待っててね」と彼に言うと室の奥にまで歩き襖を開き、その向こうの部屋に消えた。
しばらくすると女の囁くような声がする。
大丈夫よ、、、あなたはいつもの通りそこで寝てて、、、
─隣の部屋に誰かいるのかな?
と満男が座ったまま訝しげに思っていると、いつの間にか女が傍らに立っていて「どうぞ」と湯飲みに入ったお茶を彼の前に置いた。
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それから女は彼の前に座ると、いろいろ質問をしだす。
名前は?何歳なの?どこに住んでるの?、、、等々。
そして最後に何でこんな時間に路地を歩いていたのか?と尋ねてきた。
満男はさっき晩御飯の時に母親と喧嘩して家を飛び出したことを話す。
彼の話をじっと聞いていた女は
「うんうん酷いお母さんだねえ。それはさぞ悔しかっただろうねえ」と言いながらまたミジンコの目をさらに細めていた。
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その後満男が女の家の赤茶けた金属の門を開き路地に出た時は、辺りはもう既に少し白んで来ていた。
路地を自宅に向かって歩き出した彼の背後からまた女の声がする。
「またもしそんなことがあったら、いつでもここにいらっしゃい。うちにもあなたと同じくらいの息子もいるから」
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満男が早朝にこっそり自宅に戻った時、彼の母はリビングの食卓テーブルに座ったまま彼の帰りを待っていた。
体裁悪そうに謝る満男をよそに母は無言でさっさと着替え、仕事に出て行く。
彼は眠い目を擦りながら着替えると、ランドセルをしょって玄関を出た。
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その日学校を終え満男が校門を出た時太陽はもう西の彼方へと移動していて、辺りは朱に染まりつつあった。
彼は今朝朝御飯を食べておらず給食も苦手なメニューで半分くらい残したということもあり、さっきから空腹を感じながら歩き続けていた。
ただ急いで家に帰ったとしても母が仕事から帰ってくるのはだいたいいつも7時過ぎだから、それまで彼は我慢しないといけない。
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満男の家は母子家庭なのだ。
営業の仕事をしている母の心労は半端ないようで、たまに彼に対して理不尽に切れることがあり、よく親子喧嘩をする。
実は昨晩もそれがきっかけで喧嘩になり彼は家を飛び出したのだ。
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「眠いなあ。家に帰ったら少し寝ようかな。でもお腹空いてるから眠れないかも」
などと思いながら満男がいつもの住宅街の路地を歩いていると、
「ぼうや、ぼうや」
聞き覚えのある声がした。
声のする方を向いた彼はドキリとする。
また昨晩のあの女の白い顔が赤茶けた金属の門の隙間から覗いていた。
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まずいと思った満男は無視しながら通りすぎようとする。
するといきなり香ばしいカレーの香りが鼻腔内に飛び込んできて思わず彼は立ち止まった。
両手に鍋を持った女が
「ぼうや、お腹空いてるんでしょ。カレー食べない?」と言って、またあのミジンコの目を細めて微笑んだ。
満男は心とは裏腹な態度をとり断ったが、結局また女の半ば強引な誘いに負けて彼女の家の食卓テーブルに座ることになった。
そしてその日のテーブルには、女の隣に彼女の息子らしき男の子が一人座っていた。
今の時代にはあまり見ない絣柄の甚兵衛を羽織ったガリガリに痩せた子。
顔色は青白くて頬はこけ手足は棒のようにか細い。
歳は満男と同じくらいだ。
どうやら彼は手が使えないのか、女がスプーンで彼の口にカレーを運んでいた。
結局満男はまた女の家に立ち寄り、ご飯までごちそうになった。
そして彼が女の家を引き取る時、彼女はこんなことを言う。
「そんなにお母さんが嫌いなんだったら、もうおばちゃんの息子にならない?」
女のとんでもない提案にも満男は満更でもない気持ちになっていた。
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それからも満男はちょくちょく学校の帰りに女の家に立ち寄るようになる。
彼はその都度、女の手料理をごちそうになった。
だからそんな日は自宅に帰るのが遅くなっていたし、仕事から帰ってきて母親が作る晩御飯も半分以上残すようになる。
しかも顔色が悪くなり以前よりかなり痩せたまにトイレで戻したりすることもあって、とうとうたまりかねた母親の玲子はある日の晩御飯時に満男に尋ねた。
「あんた最近ちょっとおかしくない?食欲ないし顔色も悪いし、どっか体でも悪いの?」
「いや別に」
その日もご飯を半分以上残した彼はそう言って立ち上がると、さっさと食卓を離れる。
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それで息子の様子がおかしいことを不審に思った玲子は翌日、会社を早退すると小学校の校門の近くの電信柱に身を隠し満男を待ち伏せした。
下校のチャイムが校庭に鳴り響き、ぞろぞろと校門をあとにする学童たち。
しばらくするとランドセルをしょった満男も校門から出てくる。
玲子はばれないように注意しながら、少し離れた後方から息子の背中を追った。
やがて彼は住宅街の路地をとぼとぼ歩き進む。
そして何度めかの角を曲がり進んだあるところででピタリと歩を止めた。
─あんなところで何をしているの?
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曲がり角から顔を出して息子の姿を見ていた玲子は不審に思った。
というのは満男が立っているところの前は、もう何十年も前に火事で焼失した家のあったところだったからだ。
彼は赤茶けた金属の門を開くと敷地に入っていく。
玲子は小走りでその門のところまで行き隙間からそっと中を覗くと、ハッと息を飲んだ。
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そこは雑草が伸び放題で敷地の真ん中辺りにはあちこちに炭化した柱やぼろぼろの家具の残骸があるだけ。
そんなことより彼女が驚いたのは満男の1メートルほど前をゆっくり前に移動している、ぼんやりとした人型の黒い影。
満男はその影の後ろに従いながら、どんどん雑草を踏み進み玄関のあったであろう辺りで靴を脱ぐ。
そして素足で真っすぐ歩き進むと、かろうじて原形を留めた大きめの木製テーブルの前にある椅子に腰かけた。
彼の正面には黒い影らしきものが座っていて、その隣にも同じようなのが座っている。
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それから満男は皿に乗せられた何かをスプーンでパクパクと食べていた。
─いったい何を食べてるの?
玲子は目を凝らす。
そしてそれが何か分かった時、思わずアッと小さく声を出した。
それは泥の塊、、、
満男はそれをいかにもおいしそうに口に運んでいた。
堪らず彼女は門を開き敷地に入り小走りで息子の背後まで駆け寄る。
そしてその背中に向かって名前を呼んでみた。
だが彼は全く動じることなく相変わらずもくもくとスプーンを口に運んでいる。
その時には何故か、あの黒い影はいなくなっていた。
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堪りかねた玲子は満男の傍らまで歩くと、その手から無理やりスプーンを奪い取る。
そして見上げた息子の顔を見た途端、彼女の背筋に冷たいものが走った。
その顔はげっそりと痩せこけ肌は完全に血色を失っており両目は洞穴のようだ。
満男は「返せよ返せよ」と叫びながらスプーンを取り返そうと玲子の腕を掴もうとしてくる。
それで思わず彼女は息子の頬を平手打ちした。
彼は意識を失いその場にがっくり倒れこむ。
玲子はすぐに携帯で救急車を呼んだ。
それから満男は近くの病院に搬送され検査と治療を受ける。
結局彼は極度の栄養失調と食中毒という診断を受け、一カ月の入院ということになった。
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それからあの家のことがどうしても気になった玲子は休みの日、昭和の頃から同じ住宅街に住んでいる自治会長の住む家を訪ねてみた。
彼なら当時のことを何か知っているのでは?と思ったからだ。
奥の仏間に通され座卓の前に正座した彼女は、正面に座る白髪で着物姿の男性にあの家のことを尋ねてみる。
男性はしばらくどこか遠くを見るような顔をしていたが、やがて訥々と語りだした。
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「ええ憶えていますよ、あの家のことは。
確かあれは昭和もそろそろ終わる頃だったと思います。
あの平屋建ての家には40くらいの女性の方と、その息子さんと思われる方が住まわれてたんです。
息子さんは先天的に筋肉が萎縮していくという難病を抱えていて、まともに学校にも行かせてもらえず母親が自宅で療養看護されてたようです。
女性の方は「小川さん」というのが苗字だったのですが、ご近所さんは彼女のことを陰で「お多福おばちゃん」と呼んでいたようです。
それは彼女がまるで「おかめ」のお面のような見た目をしていたからでした。
まるで白粉を塗したような肌をした下膨れの顔に並ぶ二つの目はミジンコのようで鼻は団子鼻、口はおちょぼ口。
ぽっちゃりした小柄な体躯にいつも割烹着を着てましたな。
ただいつも笑顔を絶やさない朗らかな人でね、朝方になるといつも門の前を箒ではわいていて、通り過ぎる住人に対しても笑顔で挨拶をしてましたよ。
そんな愛想の良い「お多福おばちゃん」だったんですが、
住民たちの中には、その奇異な見た目から忌み嫌う者もいたようです。
それでちょうど元号が平成になった頃なんですけどね、
深夜におばちゃんの家が火事になりましてね。
それは酷い火事だったようで翌朝にようやく鎮火したんですが、残念ながら焼け跡からおばちゃんと息子さんの寄り添うようにして横たわる遺体が見つかったんです。
出火の原因はどうやら放火だったみたいなんですが結局犯人は捕まらなくて、今はご覧の通りなんですわ」
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それから一カ月が経過した頃のことだった。
玲子は病院から連絡を受けて満男の主治医と面談するように言われる。
恐らく退院の話だろうと病院の応接室で待っていた彼女だったのだが、医師の口から出た言葉は耳を疑うような内容だった。
「息子さんは我々の適切な栄養補給と投薬により一応は回復されました。確かに回復はされたのですが実は新たな、、、その、、、問題が発生しましてね」
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正面に座る初老の医師の言葉に玲子は「新たな問題というのは何なんですか?」と尋ねる。
「まだ確定というわけではありませんので、あまり深刻に受け止めないでいただきたいのですが」
どこか遠回しに言う医師の態度に彼女は少しイラつきだしとうとう「すみません、結論だけ言っていただけませんか?」ときつめに言った。
すると医師は一度だけ軽く咳払いをすると続けた。
「ではお答えします。
息子さんは多分筋ジストロフィー症に罹患されていると思われます」
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「え?筋ジス、、、それって何なんですか?」
聞きなれない病名に玲子が問い返す
「この病気は遺伝子の変異で体の筋肉が徐々に壊れて、筋力が衰えていく病気です。進行すると呼吸困難とかに陥り死に至る難病です。ところで息子さんは普段の生活の中でつまずいたり転んだりすることはないですか?」
玲子はしばらく無言で俯いていたが、やがて「いいえ」と呟き静かに首を横に振ると険しい顔で口を開いた。
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「先生、その病気って治るんでしょ?」
今度は医師の方が無言で俯き静かに首を横に振る。
二人の間に嫌な間がしばらく続いた後、突然玲子が立ち上がる。
そして正面に座る医師を上から睨みつけ
「どうして!?どうしてうちの息子がそんなことにならないといけないんですか!?
息子が一体何をしたというの!?」
と訴えるように叫び席を離れドアを乱暴に開くと、医師の制止する声も無視して部屋を出て行った。
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病院からの帰りの車の中。
ハンドルを操作しながら玲子は声を出し泣いていた。
隣の車線を走る車の人が気が付くほどに。
一頻り泣きはらした彼女の脳裏に一月前の記憶が甦る。
それは自治会長の家を訪ねた時に彼が言った言葉。
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「息子さんは先天的に筋肉が萎縮していくという難病を抱えていて、まともに学校にも行かせてもらえず母親が自宅で療養看護されてたようです」
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「まさか、、、そんな、、令和の時代にそんなことが、、、」
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信号待ちをしていた彼女は一人呟くとハンドルに顔を突っ伏した。
しばらくそうしているとパアンと背後からクラクションの音がする。
驚き前を見ると対面する信号は青。
慌ててサイドブレーキを外しアクセルを踏みながら、なにげにルームミラーに視線をやった時だ。
玲子は一瞬で全身が総毛だつ。
ミラーに映る後部座席にはオカメの顔をした割烹着姿の女が座り、嬉しそうに微笑んでいた。
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう