長編13
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遅い初恋

私、日向政子は今年で四十七歳になります。

ふたりの子供はすでに独立して今は名古屋と福岡で暮らし、そして去年ひと回り年の離れた旦那がガンで他界しました。

東京の郊外で小さいが業績の良い会社を経営していた旦那とは、親戚の紹介で二十二の時にお見合いで結婚し、出来の良い子供にも恵まれて、金銭に困ることもなく穏やかに四半世紀を過ごしてきました。

義父母は他界しており、実父母は実家で兄が面倒を見ている為、私は実質ひとりきりという状態になり、それまで住んでいた6SLDKの一戸建ては大きすぎるため、ひとり暮らしに適した1LDK単身向けの中古マンションを買ったのです。

生まれて初めてのひとり暮らしであり、ここで静かに残りの人生を過ごそうと思っていたのですが・・・

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◇◇◇◇

ひとり暮らしの解放感、そして寂しさもあったのかもしれませんが、この歳になって恋をしてしまいました。

相手は引っ越したマンションの隣に住んでいる、三十五歳の独身男性です。

初めて会ったのは引っ越しの日で、隣から顔を出しにこやかに挨拶してくれました。

彼の名は松崎武司。決して美男子と言う訳ではないけれど、瘦身で背が高く、優しそうな印象でした。

背が低く、小デブで、時々癇癪を起こしていた死んだ旦那とは真逆の印象であり、それ故に惹かれたのかもしれません。

その時は、隣が安心できそうな人で良かったという程度だったのですが、その数日後、朝ゴミを出そうと玄関を出た時に出勤しようとしていた彼と偶然出くわしたのです。

「あ、おはようございます・・・」

髪を軽く梳かしただけでスッピン、そしてパジャマにパーカーを羽織っただけの姿であったため、恥ずかしくて思わず顔を伏せてしまいました。

「あ、おはようございます。ゴミ出しですか?場所は解ります?」

「え、ええ、大丈夫です。ありがとうございます。」

顔から火が出ると言うのはこういう事を言うのだろうと思いながら、私はもう少し話をしたいという葛藤と戦いながら急いで階下のゴミ捨て場へとそそくさと逃げるように立ち去ってしまいました。

それでも避けたように思われたのではないかと不安になり、その日以来、ゴミ出しはその時間に合わせるようになりました。

もちろん、少し早起きして着替えも化粧もばっちり決めて。

「おはようございます。」

そのひと言だけのために。

でも所詮相手は自分よりもひと回りも年下であり、いい歳をして何を考えているのだと私は自分に言い聞かせていました。

私自身、身長は低いのですが、太っても痩せてもおらず、おっとりとした性格からなのか、見た目の年齢は実際よりもずっと若く、女優の石田ゆり子に似ているねと周囲からはよく言われるのですが、それでもやはりアラフィフには違いありません。

浴室の鏡に映る自分の体を見るとため息。色の濃い乳首、垂れた乳房、そして弛んだお腹、お尻の肉。

世間一般の同年齢の女性がどうなのかよく分かりませんが、やはり若かりし頃の自分と比べると、その差に愕然とします。

もちろん彼の前で裸になることなんかないはずですが、それでもやはり現実を認めざるを得ません。

セックスなんてどのくらい疎遠になっているのか。

旦那しか知らず、自分よりもはるかに年上の旦那は早々と私の体に興味を示さなくなり、私も更年期を迎えれば恋愛とかセックスにはまったく無縁の心境になるものだと思っていたのに。

しかしこれまで縛られてきた家族という存在から解放された私は、そんなことを考えながらも少女の頃のような恋心を胸のどこかで楽しんでいました。

考えてみれば、生まれてからずっと恋というものを経験しないまま結婚したんです。

もちろん旦那や子供達に愛情は持っていましたが、恋心とは違います。

この歳になって、これが初恋なんて恥ずかしくて誰にも言えませんよね。

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********

そんなある日、いつものように時計と睨めっこをしながら、隣の物音に耳をそばだたせ、今だ!とゴミ袋を掴んで玄関を出ました。

「おはようございます。」

狙った通り、玄関から顔を出した彼が笑顔で挨拶をし、私も精一杯の笑顔で挨拶を返しました。

もちろん電車の時間に合わせて家を出る彼は時間に余裕があるわけではなく、そのまま手を振って立ち去ってしまうのが常なのですが、その日は玄関を出ると私に近づいてきたのです。

「日向さん、今日の夜、時間ありませんか?」

これはどう考えても何かのお誘いでしょう。

嬉しくて思わず“暇です!”と叫びそうになるのをぐっとこらえ、微笑みと共に首を傾げました。

「今日、知り合いが新しい料亭をオープンするんです。それで今夜そのお披露目を兼ねて試食会をするんで、それに付き合って頂けないかなって。男一人で参加するのも寂しいですし、日向さんがご一緒してくれるなら嬉しいなと思いまして。」

「ええ、特に予定はないので、私のようなものでご迷惑でなければ是非ご一緒させて下さい。」

小躍りしたいような気分を押さえて、極めて冷静を装って彼の誘いに答えました。

「それはうれしい。日向さんのような方に同行して頂ければ僕も鼻が高い。それじゃあ、午後五時に渋谷のハチ公口改札で待ち合わせという事で如何ですか?」

「ええ、楽しみにしています。」

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********

私は天にも昇るような気分でした。

昼間に新しい洋服を買い、意味がないとは思いながら下着まで新しいものを買い揃えました。

そして試食会の間、私は彼の嬉しそうな顔を見ていてとても幸せを感じていました。

正直、”お母さんですか?”と言われるのを覚悟していたのに、何人もの方から”奥さん”と声を掛けられ、お酒が入っていたこともあったのでしょう、私はすっかり舞い上がってしまったのです。

松崎さんは試食会の店を出るとすぐに声を掛けてきました。

「このまま、真っ直ぐ帰るのもつまらないので、もう少し飲んで帰りませんか?」

もちろん断るはずはありません。

そこで松崎さんは、自分がマザコンの気があることを正直に打ち明けてくれました。

小学六年の時に母親を亡くし、それ以来、年上の優しく包み込んでくれるような女性にずっと憧れていたそうです。

それ故に若い女性の未熟さや傲慢さが鼻につき、これまで婚期を逃してきたとのこと。

もちろん年上の女性なら誰でもいいと言う訳ではなく、それなりに自分の美的感覚に合致してなければならず、私は理想の女性だとまで言ってくれました。

私はものすごく嬉しかったのですが、個人的に付き合いたいという彼の言葉に、あまりにも年齢的に不釣り合いだとお断りしました。

もう子供を作れる年齢ではないですし、松崎さんには普通の幸せな家庭を築いて欲しい、心からそう思ったのです。

しかし、友達として、と言われるとお隣さん同士ということもあってさすがに断れません。

そしてそれ以来、誘われるがまま一緒に買い物に行ったり、食事に行ったりと、一緒に過ごす時間が増えて行きました。

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***********

それは暇を持て余していたある平日の昼間の事でした。

買い物に出かけようとマンションのエントランスを出ると、突然目の前に人影が立ち塞がったのです。

驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは三十歳くらいの女性でした。

痩せぎすの体型に黒のワンピース、黒のストッキング、そしてローヒールのパンプス。

まるでお葬式に行くような服の上に、胸まであるような長い髪で俯いて立っているため顔はよく解りません。

その髪の毛の間から上目遣いに私のことを見ているようですが、しかしまったく知らない人のようだったのでそのまま横を通り過ぎようとしました。

「ちょっと待ちなさいよ。」

やはり声を掛けてきました。しかしその声は低く陰気で、とても好意的な感じではありません。。

でもさっき急に思い立って買い物に出てきたのですから、私のことを待っていたとは思えません。

ここで会ったのは偶然なのでしょうか。

「何か御用ですか?」

待てと自分で言ったのに女は何も言わずじっと私のことを見ています。

「用が無いなら、行きますよ。」

すると女はピクッと眉を動かした。

「松崎武司に・・・近寄るな。」

松崎さんに近寄るな?

この人は松崎さんとどのような関係なのかしら。

恋人はいないと言っていたけど、それが嘘でなければ、ひょっとするとストーカー?

もしもそうだとすると、私も危害を加えられるかもしれない。

「近寄るなって言われても、単なるお友達だし、それにお隣さんだから。」

「うるさい!彼に近づく女は尽く呪い殺してやる!」

吐き捨てるようにそう言って私を睨みつけています。

私は怖くなって買い物どころではなくなり、そのままマンションの中へ駆け戻ったのです。

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********

その夜、私は迷った末に松崎さんの部屋を訪ねました。もちろん松崎さんに昼間会った女の話をするためです。

私の話を聞いた松崎さんはしばらく何かを考えていた様子でしたが、やはりあの女の事を知っていました。

彼の話によると、私が引っ越してくる半年くらい前の仕事帰り、酔っ払いに絡まれている見知らぬ彼女を偶然助けたのがあの女だったそうです。

助けたと言っても、酔っ払いの態度があまりに酷かったので見かねて強い言葉を掛けただけだったらしいのですが、彼女はそんな彼に惚れてしまったようで、それ以来しつこく付き纏うようになったとか。

しかしそもそも彼の好みには全く合致しない女性です。

彼はのらりくらりと女のアプローチを躱し続けたのですが、それが日を追ってエスカレートし、待ち伏せはもちろん、郵便受けには手紙やプレゼントが投函され、何処で調べたのか、会社や友人達のところにまで電話を掛けてくるようになったところで、さすがの彼も堪忍袋の緒が切れて警察へと届け出たのでした。

「三か月ほど前に警察からストーカー規制法違反の警告が出されて、それ以来姿を見せなくなったから安心していたんだけど・・・」

彼のうんざりしたような表情は初めて見ます。

「でも呪いって本当にあるのかしら。何だか怖いわ。」

理屈では説明できないにしても、呪詛は大昔から脈々と絶えることなく語り継がれてきている以上、何かしらあるのではないでしょうか。

少なくとも恨みという感情は間違いなく存在していて、それが実際に他者へ何かしらの影響を与えることは否定できないと思うのです。

自分の部屋に帰ってひとりで寝るなんてとても恐ろしくてできません。

結局その夜、私は松崎さんの部屋に泊まってしまいました。

もちろん松崎さんだからということなのですが、正直に言うと恐怖が理性を越えたということなのかもしれません。

でも松崎さんに抱かれ、そして彼の裸の胸に顔を押し当てて目を閉じているととても安心できます。

おそらくあの女は松崎さんに直接危害を加えることはないでしょう。

だから松崎さんの腕の中に居れば多少は違うはずですし、もしかして呪詛で直接私の心臓を止めるなどということが可能だとしても、ひとりきりで冷たくなっていくより松崎さんの腕の中であれば寂しくはありません。

そうして松崎さんのぬくもりを感じながらまどろんでいた時です。

突然松崎さんがびくっと体を震わせたのです。

「どうしたの?」

顔を上げて半分寝ぼけた頭で彼の顔を見上げると、寝室のドアの方を見て顔を引き攣らせています。

何だろうと私もそちらを振り向きました。

「ひっ・・・」

閉めたはずのドアが開いており、そこにあの女が、昼間と同じ黒のワンピース姿で立ってこちらを見ているではないですか。

玄関の鍵も閉めたはずです。どこから入って来たのでしょうか。

昼間は俯き加減でしたが、今ははっきりと顔を上げ、恐ろしい顔でこちらを睨んでいます。

思わず逃げ出そうかと思いましたが、相手はドアのところに立っており、何より私も松崎さんも一糸まとわぬ状態なのです。

私は女を見つめたまま、夢中で松崎さんにしがみつきました。

「どっかいってよ!私は松崎さんが好きなんだからあなたが入る余地なんかないの!」

私は半分泣きそうになりながらそう叫んでいました。

すると松崎さんも私を強く抱きしめ、女に向かって諭すように言ったのです。

「その通り。俺はこの人のように自分の事よりも相手の気持ちを大事にする優しい人が好きなんだ。あんたのように自分の気持ちだけ押し付けてくるような人間は大嫌いだ。」

すると女は悔しそうな、悲しそうな表情を浮かべるとすっと消えてしまったのです。

「えっ?」

私も松崎さんも、あの女は何処からか不法に部屋の中へ侵入してきたと思っていました。

それがいきなり煙のように消えてしまったのです。

「今の・・・幽霊?」

「いや、そんな馬鹿な・・・でもそうとしか思えないね。」

松崎さんも怪訝そうに気に部屋の中を見回しています。

でも取り敢えずは事無きを得たようであり、私はほっとして改めて松崎さんに抱きつきました。

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**********

しかし、これで終わったわけではなかったのです。

あの夜以来、私は時々松崎さんの部屋で朝まで過ごすようになったのですが、気がつくとどこかの隙間からあの女がじっと私達の事を見ているのです。

私の部屋へ場所を変えても同じでした。

何処からか現れ、物陰からじっと私達のことを覗いているのです。

せっかく松崎さんと夜を一緒に過ごせるようになったのに、これでは堪りません。

それは松崎さんも同じだったようです。

数日が過ぎ、松崎さんが会社帰りに私の部屋を訪ねてきました。

「今日、警察へ行ってきたんだ。」

松崎さんが聞いたところ、驚いたことにあの女はちゃんと生きていました。

「じゃあ、毎晩のように現れては消えるあの女は生霊ってこと?」

「ああ、そうとしか説明がつかないね。それで友達の知り合いの霊能者に話を聞いてきたんだ。」

その霊能者の話によれば、根本的に解決するには、やはり生霊を飛ばしている本人が松崎さんの事を完全に諦めるしかないとのこと。

嫌われるように仕向ける場合は、一歩間違うと更に事態が悪くなる場合もあると。

愛しさ余って憎さ百倍という奴でしょうか。

そして対処療法でしかないが、と前置きしてお札をくれたそうです。

「呪文を唱えながらこれを玄関や窓に貼り、部屋の四隅に盛り塩をすれば、取り敢えず部屋には入ってこられないだろうって。」

私達は藁にも縋る思いで、言われた通りにそれを実行しました。

「何だか、お化け屋敷みたいね。」

あちらこちらにお札の貼られた部屋を見回して私がそう言うと、松崎さんは苦笑いをして最後に部屋の四隅へ盛り塩を並べたのです。

確かに効果はありました。

その後、部屋の中で彼女の生霊を見ることはなく、少なくとも部屋の中にいる間は落ち着いてふたりの時間を過ごせるようになったのです。

しかし、まったく部屋から出ないわけにはいきません。

少なくとも私があの女に初めて会ったのは、昼間のマンションエントランスだったのですから。

あれが生霊だったのか、はたまた実際の彼女だったのか、私には判りません。

松崎さんと過ごせるのは嬉しいのですが、でもこのままと言う訳にはいかないのです。

「ねえ、武司、相談があるんだけど。」

実は、もともと住んでいた一戸建ての家は子供達への相続もあって、売らずにそのまま置いてありました。

取り敢えず、このマンションの部屋はそのままにして、しばらくそちらで暮らしてみてはどうかというのが私の提案でした。

生霊を飛ばすあの女が普段通り仕事をしているであろう、すなわち生霊を飛ばすとは思えない時間帯に、こっそりと移動してしまえば分からないのではないかということです。

所在が分からない相手のところに生霊を飛ばすことは無理なのではないか、そんな風に考えました。

「このままでは埒が明かないからとりあえずやってみるか。」

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*********

私と松崎さんは当面必要な身の回りの物を持って、元の家に引っ越しました。

今回の生霊騒動が起こるまでは、定期的に手入れをしていたので家の中は綺麗です。

松崎さんは、意外に信心深いのか、後ろめたい気持ちがあるのか、私の夫の仏壇の前に正座すると、三十分以上手を合わせていました。

これで安心して暮らせるかと思ったのは、やはり考えが甘かったようです。

数日後、松崎さんは顔を強張らせて仕事から帰宅しました。

何かあったのかと尋ねると、家の前にあの女が立っていたというのです。

やはりだめだったか。

そう思ったのですが、何故か以前のように家の中のどこかからこっそり覗いているということがないんです。

恐る恐る外出しても、あの女を見掛けることはありません。

「あの日、武司があの女を見掛けたというのは、人違いだったんじゃないの?」

何事もなく数日が過ぎ、私がそう問いかけると、松崎さんはゆっくりと首を横に振って、にっこりと微笑みました。

「いや、間違いなくあの女だったよ。でもね・・・」

あの女を見掛けた夜、なんと私の夫が松崎さんの夢枕に立ったそうなんです。

そして夫は松崎さんに向かってこう言ったそうです。

(君と政子の事は私がちゃんと守るから心配はいらない。だから政子の事はよろしく頼んだよ。)

それを聞いて私は涙が溢れてきました。

夫はちゃんと私のことを考えていてくれた。それなのに私は・・・

とても自分が恥ずかしくなりました。

でもその一方で、夫も松崎さんの事を認めてくれたのがとっても嬉しかったのです。

そしてそれがきっかけとなり、松崎さんは私にプロポーズしてくれました。

夫の仏壇の前で。

もちろん、私はすぐに承諾しました。

松崎さんに私のことをよろしく頼むと夫が言ったのです。断るわけがありません。

「俺にも立派に成人した子供が出来ることになるね。すぐにお爺ちゃんかな。」

松崎さんはそう言って大きな声で笑いました。

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もうあの女の生霊を見ることはありません。

あの女の生霊は元夫の霊に退治されてしまったのでしょうか。

喧嘩が強いとは思えない元夫ですが、どうやって?

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ちょっと気になります。

◇◇◇ FIN

Concrete
コメント怖い
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@たくたく様
いつもありがとうございます。
生霊を飛ばした抜け殻に入り込むって面白いですね。
そうすると生霊は戻れなくなってしまうのでしょうか。
なかなか面白そうなネタですね。

旦那さんも見合いで結婚した主人公に恋はしなかったにしても、たっぷりの愛情は持っていたんでしょうね。
恋と愛の違い、中学生の命題(笑)

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