前作『加賀君』の続きです。
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ここ1年程、月に数回お気に入りのビストロへ行くのが習慣になっていた。
職場の最寄りから2駅ほど電車にのり、少し歩いたところにあるそのビストロは、マスターが1人で経営しており、こぢんまりとしているが、常連客の多いアットホームで落ち着く場所だった。
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もともとは職場の先輩に連れてきてもらったのが始まりだったが、美味しい料理に気さくなマスターが気に入り一人でも通うようになった。
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4月下旬。この日も20時過ぎに職場をでて、ビストロへ向かった。
6名掛けのカウンターに、4人かけのテーブル席が3つ。
テーブル席は満席、カウンターは奥から年配の夫婦、1つ空けて女性客が1人座っており、私は女性客と1つ席を空け、いつものようにカウンターに着いた。
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マスターと世間話をしながら、いつもの飲み物とクリームパスタを楽しんでいた。
心地よい時間が過ぎ、すっかり気が緩んでいたそのとき、男性客が1人来店した。
同じくらいの年齢だろうか。すらりとした体躯に、目鼻立ちもはっきりとしていて、所謂モテそうな顔立ちだった。
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男はまっすぐ私の隣に座り、店内の空気が急に張り詰めたような錯覚を覚える。
「おすすめを1つ。」と静かな口調で頼む男。
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「常連じゃないお客さんから、来て早々に『おすすめ頂戴』って言われるの、結構困るんだよね。そもそも飲み物なのか、食べ物なのかわかんないしね。」
前にマスターが愚痴をこぼしていたことを思いだす。
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マスターは男と少しやり取りをしたあとに、赤ワインとチーズの盛り合せをだした。
ワインのことは詳しくないが、ここで提供されるチーズは美味しい。確かにおすすめの1品だ。
男はじっとワインを見つめながら口元を緩めた。その仕草はどこか馴染みのあるような、しかしどこか異様な空気をまとっていた。
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パスタを食べながら、マスターとそれぞれの地元の話で盛り上がっていると
「地元、○○なんですか。」
それまで静かに赤ワインを嗜んでいた男がゆっくりした口調で声をかけてきた。
「え、ええ。」
何気なく答えたものの、急に不安に襲われた。男は静かに微笑んで言葉を続ける。
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「僕もね、○○なんだよ。昔から知ってるよ。」
彼の視線がじりじりと悠乃にまとわりつき、まるで皮膚の下にじわじわと染み込むような冷たさが背筋を這い上がる。
「僕のこと、覚えてない?」
男の表情が変わり、かすかに歪んだ笑みを浮かべる。
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ぞわっとした。
「えっと…ごめんなさい。同じ学校に通っていた…とかですか。」
「分からないよね、まあ少し顔をいじったからね。」
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整形したということだろうか。
そうであればなおのこと、誰かは思い出せない。
男は店に入ってきた時から私に気が付いていたのだろうか。
良く分からない違和感と不快さがじっとりと体にまとわりついている感覚がした。
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「悠乃が好きそうな顔にしたんだよ。」
その時、男の表情が妙に曖昧に見え、どこかで見た顔がフラッシュバックした。
その人物の名前を口に出していいのか、聞いてはいけないような気もした。
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「……加賀君…?」
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「よくわかったね。」
男はニヤっと口角を上げ、じっと私を見据えた。
急に鼓動が早くなり呼吸が苦しくなる。
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「マスターごめん、お金今度払うから」
吐き捨てるようにそう言って逃げるように店を出た。
背後からの視線がじわりと肌にまとわりつくのを感じる。
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もうあの店には行けない。
そして思い出す。
加賀君は指輪をしていなかった。
作者m
そのまま警察に行きました。
その後は何もなく。
実話をもとに少し脚色を加えております。
書くか迷いましたが、12月にサイトが閉鎖される前に…
書くことで、物語にすることで、現実逃避しているのかもしれません。