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人間の精神を破壊する一番手っ取り早い方法

長編13
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人間の精神を破壊する一番手っ取り早い方法

「おや、あんなところに人が」

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澁谷の隣に座る田中さんが虚ろな目でボソリと呟く。

夕暮れ時の日射しが生気のない横顔を浮き上がらせていた。

澁谷は田中さんの言葉に釣られて同じ方に視線をやる。

正面にある立て付けの悪そうな窓からはセピアカラーの空が覗き、秋特有の鰯雲が浮かんでいた。

その下方には疲れたようなどんよりとした街の全景が広がっている。

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「え、何処ですか?」

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そう言って澁谷は田中さんの横顔に尋ねる。

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「ほら、あそこにある黒い煙突の上」

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言いながら田中さんが指差す辺りを澁谷は懸命に探すが、そんな建物は見当たらない。

戸惑うように目を泳がせる彼の顔を改めて田中さんは見ると、

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「そうか、あんたにはあれが見えんのか?

そうか、、だろうな、、」

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と言いながら、何故だか納得するかのように何度も頷いていた。

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澁谷が会社ビル五階にあるこの「第一記録保管庫」に配属になったのは、3ヶ月前のこと。

それまで彼は充実したワーキングライフを送っていた。

新卒でこの会社に就職してから五年。

営業部の期待の星と言われて昼は営業活動そして夜は取引先担当の接待と昼に夜に勢力的に活動し、若干27歳にして課長に抜擢と異例の出世を成し遂げる。

そんな澁谷の輝かしい人生に暗い影が落ちたのは、ちょうど1年前のことだった。

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その日大口の取引先との契約を決めた彼は、そこの担当部長の接待で会社近くのネオン街に繰り出した。

行きつけの小料理屋で日本酒を交わしあい美味しい料理に舌鼓を打った後、それでは帰りましょうかと代行タクシーに連絡する。

だがその日は週末で二時間まち。

部長は明日は朝早いということだった。

澁谷は酒で少し気が大きくなっていたということもあったのだろう。

つい「だったら私の車で送ります」と言ってしまった。

部長は飲酒運転だから止めた方が良いと断っていたが、彼は半ば強引に彼を車の助手席に座らせるとそのまま走り出す。

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そして取り返しのつかない事故を起こしてしまった。

疲れた体に飲酒という悪条件が重なったからだろう。

澁谷はついハンドルを握ったままうとうとしてしまい、ガードレールに突っ込んでしまった。

結果フロントガラスに頭部を強打した部長は今も意識不明の重体。

澁谷は3ヶ月の入院ということになる。

もちろん免許は取り消し。

さらにかなりの額の罰金も払わされた。

相手先会社の部長に彼は、これから一生償っていかなければならなくなるだろう。

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そして今年の梅雨時にようやく退院し会社に復帰した澁谷に待っていたのは、営業部から総務部資料係というそれまで彼が聞いたこともないような部署への異動。

実質的には社内左遷というやつだった。

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第一記録保管庫室内の西側窓際にはデスクが4つ並べられ東半分には背丈ほどの書棚が並んでいて、まるで図書館の一角のような外観だ。

そこには会社の様々な部署の記録ファイルが、ぎっしり収まっている。

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それは澁谷が総務部の男性社員に連れられ保管庫に案内された初日のこと。

男性社員は澁谷と同期で大学も同じで、たまに交遊もあった。

窓際にあるデスクの一つの前に立ち「ここが席だ」と言った後、背後にある書棚まで歩く。

そしてデスクの上にカバンを置く澁谷に向かって、再び口を開いた。

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「ここにある膨大な数のファイルは全て、会社の情報がデジタル化する前の手書きの頃のものばかりなんだ。

今日からきみには、ここにあるファイルの訂正をやってもらうから」

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「訂正?」

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澁谷が訝しげに問い返すと男性社員は一冊の分厚いファイルを書棚から抜き取り、彼の傍らまで歩く。

そしてそれをデスクの上に置くと適当に開いた。

A4サイズくらいの紙には手書きでびっしり文字が書かれている。

男性は続ける。

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「例えばこれは当時の社員の営業日報だ。

手書きだから結構書き損じがある。

きみはファイルの一ページから最後まで目を通してから書き損じを発見したら正しいものに訂正する。

訂正の仕方は、

まず間違っている文字の上から定規を用い0・5の黒のボールペンで二本の直線をひき、その上に自分の認め印を押す。

それからその行上方の欄外に○文字削除と書き、その横に正しい文字を記す。

これが正式な訂正のやり方だ。

例外は認めない。

そして終わったら次のをやる。

それを定時までやる」

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「それだけ?」

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そう言って澁谷が唖然としながら男性社員の顔を見ると、

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「ああ、簡単だろ?」と彼は返した。

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それから「じゃあ頑張れよ」と軽く微笑み入口ドア前まで行ったところで振り返ると、

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「ああ、それと、一つの部署の訂正が全て終わったらM部長のところに行って報告するようにな」

と付け加え立ち去った。

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それからカビ臭く殺風景な室内に一人残された澁谷がデスクに座り、一つ大きくため息をついた時だ。

背後に人の気配を感じ何気に振り返ると、はっと息を飲んだ、

整然と並ぶ書棚奥の暗闇から、ぬっと男が現れた。

それが田中さんだった。

くたびれたワイシャツと黒のスラックス姿で、全体に細身の体躯をしている。

七三に分けた黒髪には艶がなくチラチラ白髪が光っており、その顔は骨張っていてまるで骸骨を思わせた。

田中さんは無言で澁谷の傍らに立ち「ようこそ、この世の楽園へ」とボソリと呟きニヤリと笑うと、隣のデスクに座った。

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田中さんは澁谷が配属されたずっと前からここで働いているということだった。

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「こんな昔のファイルの訂正にどんな意味があるんですか?」

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澁谷がデスクに積まれた古びたファイルを横目にしながら呆れたように言う。

すると隣に座る田中さんは目の前に開いたファイルから視線を外さずに「恐らくないだろうな」と一言呟いた。

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また別の日に田中さんは澁谷にこんなことを教えてくれる。

澁谷がここに来る前にも3人の社員がここに配属されてきたらしい。

だが一人はすぐに依願退職しもう一人は精神を病み、そして最後の一人は失踪し市北部にある住宅街外れにある丘の上で変死体で発見されたそうだ。

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「変死体?」

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澁谷が聞き返すと、田中さんは死んだ魚の目で彼の顔を見るとこう言った。

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「ああ、頭蓋骨は陥没。

臓器のいくつかは破裂して、体中のいくつかの骨は複雑骨折していたそうだ。

まるで高いところから落ちた人のように」

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「事故か何かだったんですか?」

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澁谷がさらに尋ねた時田中さんは静かに首を横に振るとゆっくり彼の顔を見て、またあの生気のない顔で薄ら笑いを浮かべるだけだった。

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そしてそれは澁谷が第一記録保管庫に着任してから一月が経った、ある初夏の昼下がりのこと。

デスクに座った田中さんが、ポツリとこんなことを呟く。

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「澁谷くん、人間の精神を破壊する一番手っ取り早い方法はなんだと思う?」

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いきなり投げ掛けられた奇妙な質問に、彼は無言で首を横に振った。

田中さんは続ける。

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「一つは基本的に誰にでも出来る簡単なものであること。 

もう一つはそれをやり遂げるにはそこそこ困難であること、そして最後に、、、実はこれが一番大事なのだがね、

やり終えたものが成果として残らないということ、つまり世の中の何の役にもたたないということだ。

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これは私がまだ幼い頃じいさんに聞いた話なんだがね、じいさんがまだ若い時分戦地に赴いた時に実際に体験したことらしい。

日本の南の果てにある小さな島に赴任した彼は、同僚とともに敵軍の攻撃を迎えうっていた。

彼らは鬱蒼としたジャングルの一角に作った小屋を本拠とし、そこで日がな1日を過ごしていたらしい。

その小屋から少し離れたところには数十人の白人や黒人の捕虜たちが檻に入れられていたそうだ。

彼らには十分な飲食も与えられず、不衛生なまるで犬猫のような生活を強いられていたそうだ。

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そして彼らは毎日朝から晩まである作業をやらされていたのだが、それをやらされた者のうちほとんどは狂うか自死したという。まあ体の良い人減らしというやつだな」

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「いったい何をやらされていたんですか?」

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田中さんは澁谷の質問に一回だけ軽くため息をつくと続けた。

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「穴だよ」

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「穴?」

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「そう、スコップで穴を掘らせるんだ」

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「え?なんでそんなことくらいで狂ったり自死したりするんですか?」

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田中さんは澁谷の問いにまた不気味に微笑むと、また口を開く。

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「うだるような蒸し暑い気候の下鬱蒼とした林の中に連れてこられた捕虜たちは適当な砂地の真ん中に立たされた後、各々スコップを手渡される。

スコップと言っても幼児が使うような小さなやつだ。

そして足元の地面を掘ることを命じられる。

しかも自分の背丈くらいに深くと。

命じられた連中は朝から晩まで息を切らし汗を拭いながらひたすら掘り続けた。

彼らの傍らには日本兵が銃を持って見張っている。

そしてようやく何とか穴は出来る。

泥と汗まみれになりよろめきながら地表に上がった連中に、また日本兵は命じるんだ。

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その穴をスコップで埋めて、また元の地表に戻すんだと。

それを来る日も来る日もやらせるんだ。

うだるような暑い日もじめじめした雨の日も、、、

他のことは一切やらせずにね。

やがて屈強な兵士たちの幾人かは発狂し、幾人かは自ら舌を噛んで亡くなったという。

どうだい、今の私たちにどこか似てると思わんか?

衛生兵だったじいさんは捕虜の亡骸を大八車に乗せ焼却炉の前まで運ぶと、まるでゴミのように焼いたそうだ。

焼却炉の背後に建つ黒い煙突からもうもうと立ち上る灰色の煙。

それを見るたびに彼は、人間という存在の愚かさ儚さを思い知ったという。

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そしてとうとう事件は起きる。

それは亜熱帯地域特有のじめじめしたぬるい雨が朝から振り続いていた日のことだったらしい。

いつものように穴を掘り続けていた黒人の兵士が突然奇声をあげて監視役の日本兵に襲いかかり銃を奪うと、まずその日本兵を射殺。

さらにその場にいた仲間の捕虜たちまでも全て射殺すると、そのままジャングルの中に逃走。

それから小屋まで行き着くと、そこで待機していた日本兵全員を射殺した。

その時じいさんはたまたま外で用を足していたため、難を逃れる。

それからその黒人兵は何を思ったのか焼却炉背後の黒い煙突のところまで行くと梯子をよじ登りそのてっぺんに仁王立ちすると、銃口を口に咥えて引き金を引いたんだ」

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そして澁谷が第一記録保管庫に配属され三カ月が経ったある日を境に、突然田中さんが会社に来なくなる。

それはちょうど彼が黒い煙突を見たという日の翌日のことだった。

欠勤は3日続き、心配になった澁谷は同じフロアにある総務部の人事課に行く。

女事務員の座るデスクの傍らに立った澁谷は、田中さんがもう3日間出勤してこないが病気でしょうか?と尋ねた。

すると事務員は彼の顔を見上げると、怪訝な顔で言った。

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「あの、、第一記録保管庫付けの社員は現在あなただけなんですが」

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「いや、あの、あそこでずっと働いている、、」

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しどろもどろになって懸命に説明する澁谷を尻目に事務員は面倒くさげにパソコンを操作すると、

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「澁谷さんが配属する前は三人の社員があそこで働いていましたけど、一人はすぐに依願退職、もう一人は体調不良で施設に入院、そしてもう一人は」

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「失踪したんでしょう?」

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澁谷の言葉に事務員が驚いた顔で「どうしてご存知なんですか?」と言うと、彼は「だって田中さんが言ってたから」と言い残して、その場を立ち去った。

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……………

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その日澁谷は定時に退社した後、数年ぶりにネオン街に立ち寄り前後不覚になるくらい飲んだ。

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翌日からも澁谷はがらんとした殺風景な保管庫内に一人、朝からあの退屈な作業を続けていく。

そしてようやく一つの部署のファイル全ての訂正が終了したある日の昼下がりのことだった。

ここに配属された最初の日に総務部の社員に言われたのは、一つの部署の訂正が終わったら部長に報告をして欲しいということだ。

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─もしかしたら、元の部署に戻れるかもしれない

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淡い期待に少し元気を取り戻した彼は室を出ると、同じフロアにある総務部に行った。

縦長の室内には社員たちが整然と並ぶ事務机の前で黙々と仕事をしている。

奥にある窓を背にしてデスク前に座るM部長は、銀縁のメガネを丁寧に拭いていた。

失礼しますと言ってから室の片側を真っすぐ歩く澁谷を、社員たちは一瞥もしない。

彼はM課長の傍らに立つと、作業が一つ終わったことを報告する。すると部長はメガネを拭く手を止め胡散臭げに彼の顔を見上げると、耳を疑うようなことをのたまった。

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「そしたらそのファイルを全部ビル裏手にある焼却炉に運んでから一つ残らず燃やして。

それが済んだら今度は資材部のファイルの訂正を頼むね」

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一瞬で澁谷の頭の中は真っ白になった。

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彼はゾンビのような覚束ない足取りで資料室に戻り台車にファイルを山積みすると、押しながら廊下奥のエレベーターに向かった。

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およそ4カ月かけて訂正を終えたファイルを全て焼き尽くした澁谷は、いつもの事務机の前に座る。

千切れ雲が疎らに散らばる青空の下に広がるいつもの街をしばらく眺めていると、ちょうど街の真ん中辺りに見慣れないものがあることに気付いた。

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─あれは?

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彼は改めてそこに視線をやる。

ちょうど碁盤の目のような住宅街の外れの丘にポツンと立つそれは黒い煙突だった。

煙突はもうもうと灰色の煙を吐き続けている。

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━あんなところに煙突とかあったっけ?

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訝しげに思いさらにそれを凝視していた彼は、煙突のてっぺんで何かが動いているのにさらに気付く。

澁谷はそこを凝視してから「あっ!」と小さく悲鳴を上げた。

それは人だった。

真っ黒い影のようなその人は懸命に両手を上げてから手を振っているようだ。

まるでここにいる澁谷にこっちに来いよと言ってるように。

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─田中さん?

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根拠はないのだが彼はなんとなくそう思った。

すると突然デスク上の電話が鳴り出す。

内線電話のようだ。

澁谷は慌てて受話器を取ると、耳にあてた。

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「報告は?」

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いきなり耳に飛び込んできた、ぶっきらぼうな男の声。

意味の分からない彼は「え?」とだけ呟く。

男は少し不機嫌な様子で「は?Mだけど、ファイルの焼却は済んだのか?と聞いてるんだ」と言った。

澁谷が慌てて「あ!M部長でしたか?すみません。焼却は先ほどおわりました」と応えると、部長は「報告くらいしっかりやれよな、サラリーマンの基本じゃねえか、全く使えないんだから」と言うと一方的にブツリと電話を切った。

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その時だ。

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澁谷の片方の鼻からタラリとどす黒い血が流れ、ポトリと顎先から落ちた。

彼は無表情のまま受話器を置くと立ち上がり、窓際まで歩く。

そして窓を開け、思い切り外に向かって叫んだ。

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「わあああああ!ああああ!ああああ、、、」

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それこそ声が掠れてから出なくなるくらいになるまで。

それから背後に並ぶ書棚の一番端まで歩くと、渾身の力を込めて押す。

やがて棚はファイルを落としながら前方に傾きだし、他の棚を伴いながら次々将棋倒しのようにバタバタと倒れていった。

そしてポケットに入っている100円ライターを片手に持つと火を灯し、床に散乱したファイルに投げ込む。

それから入口ドア前まで歩き、ドア横に置かれた傘立てからおもむろに傘を一本抜き取った。

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そしてそれを片手に持ったまま室を出てから廊下を真っ直ぐ進むと、静かに総務部のドアを開く。

相変わらず社員たちは彼には一瞥もしない。

室一番奥に座るM部長はというと、メガネを外してから新聞に目を通していた。

澁谷は無表情で真っ直ぐ歩くと、部長の傍らにたどり着く。

そしてしばらく無言でそこに佇んでいた。

ようやく彼の存在に気づいた部長が訝しげな顔で何かを言おうとしたその時だ。

澁谷はいきなり片手で部長の髪をぐいと上方にひっぱると、もう片方の手に持った傘の鋭利な先端でぽっかり開いた部長の口目掛けて力任せに突いた。

金属の先端は首筋まで一気に突き抜ける。

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━あがっ、あががが、、

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M部長は黒目を寄せおかしな悲鳴を上げたまま椅子ごと後方に倒れると、口からたらたら血を垂らしながらビクンビクンと全身を痙攣させている。

何事か?と立ち上がった数人の社員たちを尻目に澁谷は再び入口ドアまで歩くとまたゆっくり開けてから、社員たちの悲痛な悲鳴を背中で聴きながら室を後にした。

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澁谷はエレベーターで一階まて降りると、会社前の道でタクシーを拾う。

助手席に乗り込んだ彼は運転手に、とにかく西に走ってくれと言った。

運転手は少し怪訝な顔をしたが、やがて走り出す。

澁谷は、フロントガラス越し前方に見える真っ黒で巨大な煙突だけをひたすら目で追っていた。

ようやく煙突の近く辺りと思われる場所まで来た彼はタクシーを降り、よろめきながらも走り出した。

煙突は住宅街を抜けた小高い丘の上に、ひっそり立っているようだ。

澁谷は丘の法面を息を切らしながら一気に登りだす。

そしてようやく彼は丘の上に立った。

雑草があちこち生えた平地の真ん中には、巨大な石造りの煙突がそびえ立っている。

煙突を形作るレンガはかなり古くて多くが風化しており、あちこちカ青ビも生えている。

彼はその周囲をゆっくり歩くと、てっぺんまで伸びた錆びて赤茶けた梯子の前に立った。

それからそれに足をかけると慎重に登りだす。

途中何度となく止まり下方に視線をやった彼はその眺めに足がすくんだが、それでも恐怖と戦いながら黙々と登り続けた。

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そしてようやくてっぺんにたどり着く。

なんとか排煙口の端に上がり、四方からふく風で髪を乱しながら四つん這いのまま辺りを見回した。

そしてアッと声をだした。

くたびれたワイシャツに黒のスラックスという見慣れた風体の男が澁谷に背を向け座っている。

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「田中さん?」

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彼は思わず声をかけた。

すると肩越しに振り返った男は澁谷を見ると、微かに微笑んだ。

澁谷は四つん這いのまま慎重に進み男のところまで行くと、隣に並び座る。

太陽はすでに彼方に臨む山脈の狭間辺りにまで来ていた。

朱に染まった荘厳な街の光景にしばらく目を奪われていた彼が

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「田中さん、、、」

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と呟き再び隣に視線をやった時、そこにはもう誰もいなかった。

澁谷が訝しげに首を傾げていると、

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━ぉぉぉぉぃ!、、ぉぉぉぉぉぃ!

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何処からだろう、誰かが呼ぶ声がする。

それは投げ出した足下からのようだ。

恐る恐る下方に目をやると、思わず「あ!」と声をだした。

真下の地表で田中さんが澁谷の方を見上げながら手を振っている。

その隣には迷彩色の軍服姿をした体格の良い黒人と、会ったこともないワイシャツ姿の若い男。

皆笑顔で彼の方を見上げながら手を振っていた。

澁谷も笑顔で大きく手を振ると、ゆっくり立ち上がる。

彼方に建ち並ぶビルの一角から、灰色の煙がもうもうとたちあがっていた。

どこからだろう消防車のサイレン音が微かに鳴り響いている。

彼は満足げに一つ頷くとジャンプし、虚空に身を任せた。

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fin

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Presented by Nekojiro

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自分のバッティングの才能をオンラインで試してみたいプレイヤーは、google baseball ゲームをプレイすることでより楽しい体験ができます。

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