ーキュッキュー
ガラスの水気を拭き取る度に、心地良い音が鳴る。
水垢ひとつ無くなった綺麗な窓の向こうには、花壇に植えられているヒマワリが太陽の光を燦々と浴びていた。
季節は7月中旬、この日も普段と変わらずとても暑く、外に出れば忽ち汗だくになるくらいだ。蝉は毎日、飽きる様子もなく、求愛行動に励んでいる。暑苦しい、いや事実その鳴き声は暑さを助長させていた。
私はそんな灼熱の外を涼しい目で見つつ、次の窓に移った。もちろん、周りのお年寄りに注意しながら。
ここは、普段清掃してる病院とは異なり高齢者の詰まった建物。
つまり、老人ホームである。
たまたま、当番のパートの弥生さんが体調不良で休んだ為、弥生さんと老人ホームの清掃経験のある私が変わりに清掃することになったのだ。
(一人で清掃は不安だったけど、こう涼しいと嬉しいわね)
高齢者を気遣ってか、施設内は過ごしやすい快適な温度に設定されていた。外が地獄なら、ここは天国と言えるだろう。
外で、花壇の水やりを行っていた職員は麦藁帽子を被っているが、その顔は滝のように汗が滴り落ちて、白いポロシャツに汗染みを作っていた。
「あやこさん、夕飯はまだかねえ?」
かすれた声が背後から聞こえ、私は振り向いた。
車イスに乗ったお婆ちゃんが、私の顔を見上げていた。白髪頭に、目が細く、シワだらけの顔が印象的だ。
私はその細い目から目をそらして、お婆ちゃんの後ろの方を見た。
木目の美しい、長方形のテーブルの周りに高齢者数人と若い女性の職員が椅子に座って話していた。
「あの…」
私が職員に声をかけようとした時、テーブルの向こうの椅子に座っていた職員がこちらに気が付いて困ったような顔をつくり、歩いてきた。
「すみません、佐藤さん。佐久間さん、一緒に向こうで皆さんとお話ししましょうねえ?」
佐久間さんと呼ばれたお婆ちゃんは、職員に車イスを押してもらいながら、テーブルの方に向かった。
(ふう。病院以上に神経使うのが大変だわ)
私は小さな吐息を吐いて、再び目の前の大きな窓の清掃を始めた。
外は相変わらず暑そうだが、遠くの空が暗い。手前の青い快晴の空とは対照的に、林の鬱蒼とした木々の間から見える空は灰色に染まっていた。
(マズい…。雨かしら?十七時までに降らなきゃ良いけど)
十七時で老人ホームの清掃を終了して、病院の敷地内にある事務所まで徒歩で帰る必要がある。傘は持ってきてないため、降られたら間違いなくずぶ濡れだ。
しかし、私の願いも虚しく、十六時近くだろうか窓の清掃を終え、洗面台の清掃に入ろうとしたときだった。
洗面台の鏡に映った外の景色が真っ暗になっていた。私は振り向いて窓の外を改めて見ると、ポツポツと雨が降り出していた。
(ああ、もう少しで終わるのに…! 早く終わらせないと)
すぐに洗面台に向き直り、清掃に取りかかった。洗面台のゴミをとり、水拭きをする。窓は水拭きと乾拭きで時間がかかる。
ゴミ箱などを元の位置に戻し、長い廊下を早足で歩いた。
突き当たりを右に行き、施設内で一番端の北のトイレに着いた。
「よし、後はココと向こうのトイレを清掃をすれば終わりね!」
私は自分を元気づけようと、ワザと声に出して呟いた。そして、窓拭きの用具の入ったバケツを床に置こうとして気が付いた。
廊下の向こう側に、杖をついたお爺ちゃんが私の方をジッと見ていた。
ちょうど、オートロックのガラス張りのドアが私とお爺ちゃんの間を遮っていた。
(ちょっとビックリした。何であんな目を見開いてこっち見てんのよ…)
私は軽く会釈した。お爺ちゃんは口をパクパクしていたが、何を言っているか分からない。
少し気になったが、トイレの清掃に取りかかろうとトイレの電気のスイッチに触れた。
「あら?」
電気がつかない…。
いや、だいたい電気は自動でつくはずなのにつかない。
「参ったわ。切れちゃったのかしら? 暗いけど、仕方ないわね」
外の雨と、施設内の隅、そして電球切れが重なって、トイレ周辺は暗かった。
それでも、早く清掃を終わらすために諦めて清掃に取りかかった。
汚物入れのゴミのチェックをして、床の排塵を行い、便器をタオルで拭いた。
全然使われていないのか、あまり汚れておらず清掃は早めに終わりそうだと思った。
ーブルブル、ブルブルー
途中から、妙な寒気を感じた。
次いで耳なりと肩凝りが身体を襲った。
(急に雨が降り出して気温が落ちたから体調を崩したかしら)
最初はそう思ったが、異様な鳥肌も重なり、トイレから逃げるように出た。
あとはトイレのドアの曇りガラスの両面を水拭きすれば終わりだったが、中に入る気が出なかった。
廊下にいたお爺ちゃんはいなくなっていた。
他に人がいないことを確認して、ドアを半開きにして湿ったタオルを握った右手を中に入れた。頭と体は廊下に出ている状態だ。
(横着した格好だけど…、何か気持ち悪いのよねココのトイレ)
縦に細長い長方形の窓を上から下へ拭いていく。曇りガラスの為、歪んだ自分の右手と黄色いタオルが廊下側から確認出来る。
一番下まで拭き終わろうとした時だった。
右手の手首に何かが触れた。
(…え?! な、何?)
突然、金縛りになった。身体が動かない。目だけが、曇りガラスの向こうにある自分の右手をジッと見ている。
その右手首には、ヒンヤリとした何かが当たっていた。
感触としては、ぷにぷにした赤ちゃんの肌のようだった。
その感触が、手首からなぞるように右手の甲に少しずつ移動していく。
冷や汗が頬を伝ったのが分かった。
『ドクン、ドクン』
心臓の鼓動の音が頭に響き始めた。
(…!)
急に右手の甲、全体が冷たくなった。違う、感触が一つから沢山に増えたのだ。
そして、
ぺた、ぺたぺたぺたぺたぺたぺた
曇りガラスいっぱいに赤ちゃんの手のひらが無数に広がり、埋め尽くした。
赤っぽいような色や、肌色のような色の手のひらが広がり、曇りガラスを染めた。私の手は見えなくなった。
心臓の鼓動の音と、ぺたぺたという音が私の頭の中を埋めていく。
(だ、だれかタスケテ…!)
冷や汗が顔を伝って、ポタポタと床にたれた。
(タスケテ、タスケテ!)
叫びたいのに声が出ない。口は半開きのまま、ひゅーひゅー呼吸だけしていた。
数分経過しただろう、急に手の平が消えた。
曇りガラスには、黄色いタオルをギュッと握り締めている私の右手だけが映っていた。
(助かった…?)
安堵した直後、瞬時に二つの疑問が頭をよぎった。
『アレは何? 助かった?何に!?』
そして、両耳いっぱいに聞こえた。
「にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ」
猫のような鳴き声。
でも違う。これは猫の鳴き声なんかじゃない。
これはー
ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた
曇りガラスを埋め尽くしたのは、手のひらではなく、人の顔だった。
歪んでいても分かる。赤ちゃんの頭位のサイズの顔がガラスを覆った。
どれもガラスに顔を擦り付けるようにして、口を開き真っ暗な空間から声を出していた。
『にゃあ、んにゃあんにゃあ! んぎゃあ、んぎゃあにゃあ!」
その顔の目の部分は真っ黒だった。
耳をつんざくような、赤ちゃんの鳴き声はどんどん大きくなった。
『んぎゃあ!んにゃあ、んにゃあんぎゃあ! んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!』
「きゃああああああああっ!」
私は叫んで、気を失った。
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気がつくと、目の前には真っ白な壁が。
いや、所々汚れてる。清掃しないと。
「あら? あ、気がつきました? 大丈夫ですか?」
私を覗き込む顔がある。
「…みずきちゃん?」
「そうですよ! みずきです! 佐藤さん覚えてますか? 佐藤さん、老人ホームで倒れてしまったみたいで運ばれたんですよ!」
白い壁は、病室の天井だった。みずきちゃんは、私が病室の清掃で仲良くなった看護士の一人だ。若いのにしっかりしていて、うちの中学生になった娘のお手本にしたい一人でもある。
「良かったあ、気がついて! 原因不明って聞いてたから心配したんですよ。今、先生呼んできますね! あ、お家の方には所長さんが連絡してくれたみたいですよお」
そう言って、みずきちゃんは病室から出て行った。
枕元の時計に目をやると、19時を回っていた。
(二時間くらい…気を失っていたのかしら?)
ーゾクッー
シーツの下にある右手に違和感を感じた。
恐る恐る右腕をシーツから出した。
何もない。アザやキズのような跡も何もなかった。
でも、何か感じる。
ぺたぺたと、赤ん坊が手で触ってくるようなー。
その後、少し検査をして病院の先生と老人ホームの所長、私の清掃の事業所の所長に挨拶をして帰宅した。
三日後、老人ホームが火事で全焼した。
ニュースで取り上げられ、私たち清掃員は所長から長々と話された。
ニュースでは、火元は調理場だとなっていた。
だが、清掃員の間で嫌な噂が流れた。
火元が本当はトイレである、というものだ。
どうやら事実らしいが、所長にはうやむやにされた。
そして、新しい老人ホームが2ヶ月前病院の南側に建った。
私は何故か、清掃区がその老人ホームになった。
おかげでお婆ちゃんやお爺ちゃんと仲良くなったが、最近ふとお婆ちゃん達や職員の方達にあることを聞く。
あの日、廊下に立って私に向かって何かを言っていたお爺ちゃんのことだ。
お婆ちゃん達や職員にお爺ちゃんの特徴を告げ、あの日以降姿を見ない知らないかと聞く。
すると、みんな答えは同じだった。
「そんな人はいない」
作者朽屋