学生だろうか。
私に向かって、人ごみの中、一組のカップルがこちらに向かって歩いてきた。
太陽の陽を浴びて輝く茶髪頭の男は、自分より背の低い彼女に、時折笑いかけている。黒髪が美しく小柄の彼女も、燦々と照らす太陽に負けない位の笑顔で男の方に語りかけていた。
私は、ただ下唇を噛みつつ、そのどこにでもいそうなカップルを睨みながら横を通り過ぎた。
(こんなにも、こんなにも惨めなものなのか)
涙は既に出しつくした。人間の体の六十パーセントを占めるという水分を、ほとんど枯渇させるくらい、昨日の夜、泣いたのだ。
もう、私の中にあるのは悲しみではない。『惨めさ』と『憎しみ』だ。
遠く後ろから、あのカップル達だろうか、楽しそうな笑い声が聞こえた。人の幸せは自分の幸せ、なんて嘘だ。大嘘だ。人の幸せは、不幸の人間をより一層不幸にさせる。絶対だ、これが真理だ。
私は、胸元に揺れる、アメジストが煌めくネックレスに触れた。金属の冷たい感触が、手を通して全身に伝わる。
「でも、私はこれ以上に冷たいのか」
そう呟いた私の横を、また別のカップルが通り過ぎた。幸せそうなカップルを横目に、口の中に鉄の味が広がった。唇が切れたようだ。私は、生唾と一緒に血を飲み込んで、喉を潤した。
(いったい、私はどうすればいいんだろう)
答え無き疑問が、頭の中に渦巻いている。この苦しみから、永遠に解放されないのでは、という恐怖が体を締め付けていた。
私が優一郎と、この先も一緒だったら、こんな疑問に狂わされる事も無かっただろう。しかし目を閉じれば、一昨日の電話のやり取りが、私を底知れぬ深海に引きずりこんでいった。
「真奈美、今までありがとう」
優一郎の最初の一言を、私は理解出来なかった。
「ありがとう? え、どういうこと?」
「一昨年のクリスマスだったな。俺が君に告白したの。だから、今日で俺達付き合って一年と半年ちょっと経った」
「うん、そうだけど…」
今思えば、優一郎がこの後告げる一言を、私は気づく事が出来ただろう。その時、電話を切れば、まだあの一言を聞かなければ、こんなに苦しまなかったと思った。
「真奈美、電話で言う事じゃないんだろうけど、言うよ。俺と別れてくれ」
この時、私は死んでいれば良かったと思う。
「な、何で? 何か私、優一郎が嫌いになることした?」
「ごめんな、これ以上話すつもりは無い。番号も変えるし、引っ越したから」
「何で? ねえ、何でよ?! 会って一回話そー」
私の言葉が荒々しくなったと同時に、電話はプツリと切れた。ただ、ツーツーと寂しい音を耳が拾っていた。深夜の自宅のアパート、仕事で疲れて帰宅した私には、優一郎の一言はあまりにも重すぎた。
一昨日の真っ黒な回想を、都心のビル群の騒音がかき消した。
(何をやっているのだろう)
歩行者専用の信号が真っ赤に染まり、人の波が止まった。私も波と共に立ち止まり、心と体の不和を自嘲気味に笑って、心の中で呟いた。
心身共にボロボロになったと思っていたのに、私は普段通りに起床し会社に向かっている。ビルの窓ガラスに映った自分は、ナチュラルな化粧をしてベージュのスーツに身を包んでいた。顔色だけは暗い。
(優一郎がいたから、夜遅くまで頑張れた。それなのに、もう彼はいない)
そんな事を考え出したら、仕事も何もかももアホらしく思えてきた。私はベージュのスーツを脱ぎ捨て、白いブラウスを露わにした。そして、ビルとビルの間の細い路地に足を踏み入れた。
誰も、後ろから声をかけてくる者はおらず、ベージュのスーツは大勢の無関心な人々に踏まれていった。
ヒンヤリとした風が首を撫でた。細い路地は、初夏にも関わらず涼しい空間が創造されていた。
所々、汚れた青いバケツや黒いごみ袋が道を塞いでいる。それらを跨ぎつつ、両脇にそびえ立つビルとビルの切れ目に向かって歩いた。光が見え、早足になるのを抑えながら、薄汚れた空間を抜けた。
目の前には、小さな道路と電車のレールと小さなビルや商店が立ち並んでいた。
そのまま、電車のレールに沿って歩いた。朝早い為か、スーツ姿のサラリーマンや自転車に乗った学生が、私の横を通り過ぎていった。少し進んでいくと、右手のビル群は商店だけに変わった。
左手のレールの上をけたたましい音を立てて行く電車は、商店のシャッターを揺らしていた。
気が付けは、人は疎らになり、あれだけ晴れていた空は曇天に変わりつつあった。
(私と同じー。ねえ、そのまま泣き出してよ)
私は天を仰いで、雨を期待した。全てを洗い流してくれるのではないかと思ったからだ。
しかし、雨は降らず、遠くの方から雷鳴が響くだけだった。
天にも見捨てられたような気分だ、と私は思った。そうなると考える事はただ一つだけだ。
「ー死のう」
そうだ、死んで楽になろう。そして、この苦しみの呪縛から解かれよう。
『死』が、魅力的なものになっていく。
「ネえ、ちョっとお姉サン」
不意に聞こえた女性の声に、私は足を止めた。線路の先の高架下のトンネルから、その声は聞こえた。吸い込まれるように、足がトンネルに向かって歩き出していた。
高架下のトンネルは、両側のコンクリートの壁が、赤や黄色、茶色などのスプレーで書かれた低俗な落書きで埋め尽くされていた。
そして、ちょうどトンネルの真ん中辺りだろうか。そこには真っ赤な艶のあるチャイナドレスを着た女がいた。顔は小さく八頭身、スラッとした体型で、猫のような目つきが特徴の美しく妖艶な顔つきをしている女だった。
「オ姉サん」
声の主は、また私に呼びかけた。
「あなたは?」
私は、この精神状態が不安定な中、このトンネル内に違和感を感じつつ、その女が何なのか聞こうとした。
「お姉サんハ、ソのまま死ぬノカ? 悪イのアイツラなノに、あナタが死ぬのか?」
流暢(リュウチョウ)ではあるが、どことなく外国人であると感じる話し方だった。そして私は、『死』という言葉に体が一瞬ビクついて、 思わずブラウスを両腕でさすった。その時、秋の終わりのような寒さがトンネル内に満ちて、私の体は寒気を纏ったからだ。
「『アイツラ』って、誰のこと?」
女は口元に微笑を浮かべて答えた。
「ユーイチロー」
心臓の激しい鼓動音が頭の中に響いた。女は、そんな私に追い打ちをかけるように、はっきりと言った。
「そシて、ユーコ」
『ユーコ』初めて聞いた名前では無かった。いや、むしろ良く知ってる名前だ。
「ユーコ、由子ね。なんで由子が?」
「ユーイチローの新シい女、ユーコ」
その一言で決意は固まった。自らの死と憎しみの狭間にいた私は、憎しみへと大きな一歩を踏み出した。
そうか、私の大親友の由子が優一郎を。
私は、叫んだ。
「殺したい。私は、死ぬ前にアイツラを殺したい!」
少しの間、女は口を閉じていた。ただ、底の見えぬ井戸のような濃くて黒い目だけが、私の目をジッと見つめていた。
真上を電車が通り、トンネル内の静寂が失われた後だった。
女は右頬の口元のホクロを上げた。いや、口を左右に大きく開いて笑ったのだ。
「あッはっハは! ソウね。あナたの望ミを叶えマシょう」
そう言うと、女はトンネルの奥へ歩き出した。私は、慌てて後を追った。
トンネルを抜けると、反対側と同様に古びた商店や、雑居ビルがあった。女はスタスタと、その内の一番高い五階建てのビルの前で立ち止まった。
ビルを見上げると、スナックの看板や金貸しの看板があった。薄汚れており、看板の横に並ぶ窓ガラスは割れていた。
「廃ビルかしら?」
私が呟いたと同時に、キイという音がして顎を下げた。そこに居たはずの女の姿は無く、チェーンの鍵が外れた入り口が半分開いていた。
微かにビルの中から、何かの花のような香りがした。
(あの女、ビルの中に? それにしてもこの花の匂い何だろう。)
物が散乱したロビーに恐る恐る立ち入る。中は薄暗く、勿論明かりも無い。
しかしー
「あっ」
ロビーの先にエレベーターがあった。だが、ボタンの部分だろうか。バツ印が書かれたガムテープが上から貼られており、それは使用出来ない事を物語っていた。
見間違いでは無い。エレベーターの扉は開いている。中には、ボンヤリ明かりもあった。
私は、誘われるように、エレベーターに乗った。錆びた鉄と鉄が擦れる音が聞こえたが、不安は無かった。人差し指が、『R』のボタンを押した。
少しの揺れはあった。しかし、エレベーターの扉は閉じ、上へ上へと動き始めた。その感覚は、魂だけが体から抜けるように思えた。
ポーンという、雑音混じりの音が鳴り、エレベーターが止まった。私は、扉が開くと同時に外に出た。目の前にドアがあり、開いていた。冷たい風と、さっきの名前の分からない花の香りが頬を撫でた。
ドアをくぐると、そこは屋上で、ひび割れたコンクリートの床が広がっていた。空は相変わらず灰色に染まっている。
「コっちニ」
女は屋上の端に立っていて、私に手招きした。
「いつの間に屋上に来たのよ」
私が女の横に来ると、今度は二メートルはあるだろう、錆びた黄色い柵の向こうに女は立った。私も同じように、一部壊れた柵から体をスリ入れた。
「どうするの? 何をするつもり?」
私は、左手で頼りない壊れかけた柵を握りながら、聞いた。
すると女は、左手で私の胸元にあったネックレスをむしり取った。
「ちょっと、何するのよっ!」
ネックレスを取られ、項(うなじ)に、痛みが生じ、女を睨んだ。
「こレハ、イラなイ物ヨ」
「あっー」
私は、女の握ったネックレスを見た。
そうだ、優一郎に買ってもらったものだ。
「アナタハ、ユーイチローヲマダー」
「いいえ、私はー。アイツを、アイツラを殺したいわ」
私は、女からネックレスを奪い取り、遥か下の線路に向かって投げ捨てた。何かが砕け散った音が聞こえた。
女は笑って、左手で私の右手を握った。冷たい感触に私は驚いて、振り払おうとした。だが、指が絡みついて離れなかった。
そして、右手をゆっくり私の胸に押し付け、女は目を大きく見開いて言った。紫色の瞳だった。
「自殺デハ一時シカ、彼ラハ痛ミヲ覚エナイ。アナタノ時ハ止マルガ、彼ラノ時ハ進ミ続ケル。ダカラー」
何でだろうか。私の頬に涙が伝う。
「ーアナタニ、呪詛ヲ教エテアゲル」
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シャー シー ズー ゾ ゼジ チ デ シーヨン
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世界がモノクロになった。女もビルも空も町も、全てが黒と白に染まっていく。
女がゆっくりと、ビルの外へ飛んだ。私の右手から、柵のザラついた感触が消えた。そして、女の左手に引っ張っられ体が空中に飛んだ。
背中から落ちる私は、徐々に小さくなっていく屋上を見て、ふと思った。
(そうだ、あの花の匂いー。小さい頃、近所の公園に植えてあった、金木犀だ)
後ろから、あの女の笑い声が聞こえ、目の前が真っ暗になった。
同じ町に、小さなアパートがあった。そのアパートの一室に一組のカップルがいた。男は二十代後輩だろうか、爽やかな雰囲気だった。女は栗色のショートの髪を撫でながら、煙草の煙を天井に向けて吐いた。
部屋は、大小のダンボールで埋め尽くされていて、引っ越してきたばかりだと分かる。
二人は、小さなベッドの上で裸に近い格好をしていた。部屋の柱にかけられた真新しい時計の針は、二十二時を回っていた。
「ねえ」
女が煙草を灰皿に押し付け、男に声をかけた。
「彼女、真奈美さ、恨んでるかな?」
男は顔をしかめて、返事をした。
「もう、あの仕事馬鹿の話題はすんなよ、由子」
「ごめん、ごめん。これからは私を愛してね優一郎」
二人が軽くキスをした時だった。室内にチャイムの音が鳴った。
「誰だ、こんな時間に」
男がベッドから立ち上がり、ジーパンを履いて、シャツを羽織った。
「大屋さんかな。それとも、私たちのエッチに苦情かしら」
女は、白い薄手のシーツを体に纏って、悪戯っぽく笑った。男も、笑いながら玄関に向かい、のぞき穴を覗いた。
「あ? 誰もいねえな。イタズラか」
確認の為に玄関のノブを回し、ドアを開けた。
彼の目は見開いて、笑みが消えた。
「お、お前。真奈美、何で!」
真奈美は何も言わず折れた右足を引きずり、男を部屋に押し込み、部屋を赤く染めたー。
作者朽屋