佐々木さんが学生時代に体験した奇妙な話。
当時、彼は手狭なアパートを借りて住んでいた。このアパートは家賃が非常に安かったという。
「まあ、古かったっていうのも理由の1つなんですがね。取り分け押し入れがね……」
佐々木さんの部屋の押し入れは、何故だか釘が打ちつけられており、開かない。大家さんに聞いても、前の住人がしたことだからよく分からないと言われるだけだった。
押し入れが使えない分、家賃もぐっと安くなったらしい。
佐々木さんはあまり部屋に物を置くタイプではないので、押し入れが使えなくても別に平気だった。だが、何年も住み続けていると、少しずつ物が増えていく。こうなると押し入れが使えないのは不便だった。
彼は釘抜きを用意すると、押し入れに打ち付けられた釘を外しに掛かった。
「中に何があるのかっていうのも気になってましたからね。もしヤバい物が見つかったら、また釘で打ち付けとこうと思ってね」
それから少しして、釘は全て取り除かれた。そっと引き戸を開け、中を見渡す。湿っぽい埃の臭いがして、中央に何かが置かれてあるのが目に付いた。
「子ども用の椅子だったんです」
昔、流行ったアニメのヒロインがプリントされた古い椅子が1つ、ポツンと取り残されたように置かれていた。あとは何もない。椅子だけだった。
何でこんな物が……というのが正直な感想だった。
まるで忌まわしい物でも封印するかのように、釘を打ち付けた押し入れに入れておくなんて。
この椅子は一体何なのだろう。曰わくでもあるのだろうか。
暫く椅子を眺めていたが、特に変わった様子もない。少し迷ったが、押し入れに自分の荷物を入れた。椅子は処分するつもりで部屋の隅に片付けておいた。
しかし、何日かしてその椅子が消えてしまったのである。佐々木さんが外に持ち出したわけでもなく、例え泥棒が入ったとしても、あんな古い椅子など盗んでいくだろうか。因みに、なくなったのはあの椅子のみで、他に被害はない。
変なこともあるものだなぁと思ったが、更に別の変なことも彼に起き始めていた。
街中を歩いている時。電車に乗っている時。コンビニに買い物をしに来ている時。
見ず知らずの他人が佐々木さんを見ると「ありがとうございます」とお礼を言うのだという。
初めは誰かと勘違いしているのかと思ったが、それにしたって数が多過ぎる。しかもお礼を言った人々は無意識の内に言っているらしく、すぐに佐々木さんのことなど眼中にないように、平然と通り過ぎていく。
1度、お礼を言った人のあとを追いかけ、訳を尋ねてみようと思ったことがある。しかし、その人はお礼を言った覚えなどまるでないらしく、逆に佐々木さんのことを不審者扱いをした。
それ以来、佐々木さんはお礼を言われても、会釈を返す程度に留めている。
最近はお礼を言われる回数も減ったが、今でもたまに言われるのだそうだ。
作者まめのすけ。