俺には4つ年上の姉がいる。まあ、一口に姉と称してはいるのだけれど、実際は血の繋がらない義理の姉だ。
義理の姉や妹というのは、世間一般から見れば「萌え」の対象であり、アニメや漫画、小説でもよく使われるパターンなのかもしれない。何年か前に上映された映画も、血の繋がらない兄と妹の恋愛ストーリーをテーマとした作品だった。
だが……。期待を裏切るようで申し訳ないが、実際はそんなに甘ったるいものじゃあない。他の家庭ではどうだか知らないが、少なくとも俺と姉さんの間では、漫画や小説のような、トロリとした蜂蜜のような恋愛感情などない。皆無だ。
そもそも、姉さんは俺のタイプではない。だって、スキンシップが激し過ぎるんだもんな。そりゃ一応姉弟なのだから、戯れ合いくらいはするかもしれないが、姉さんの場合は戯れ合い方が常軌を逸している。
猫耳セーラー服を着て「にゃんっ」とか媚びてみたり、ナース服を着て「お注射しますよ」とか注射器を構えてみたり、ネットで取り寄せたブルマーを履いて「体罰は禁止ですよ」とか言ってみたり……。自慢するわけではないが、姉さんはすらりとした長身の美人なので、どんな服装でもサラリと着こなしてしまうんだが、言い方が可愛くないのだ。国語の教科書を機械的に読んでいるかの如く、何の感情も込めないから。
もっと愛嬌たっぷりに、少し恥じらいながら喋ってくれると男心は大いに揺さぶられるのだが。……いや、俺はこんな話がしたいわけじゃなかった。そうではなく、もっとシリアスな話がしたいのだ。
アレはーーーアレこそ、決して忘れてはならない事件なのだから。俺にしろ姉さんにしろ、一緒背負っていかなくてはならない「罪」であり、重荷なのだ。何故、急にそんなことを言い出したかといえば、つい昨日の出来事だからである。
人間の記憶力というものは曖昧で、かつ自分に有利なよう細部を変換してしまうことも出来る。そして思い出したくもない記憶というものは、時と共に忘れてしまうことも出来てしまう。
正直、思い出したくもないことだし、出来たら忘れてしまいたいとも思うけれど……あの事件の重要な登場人物となってしまった俺は、あの事件の全てを語る義務があるのだろう。つらつらと、淡々と、粛々に。記憶が新しい内に、洗いざらい白状してしまおう。
つい昨日の朝方ことである。その日は月曜日で、俺は自室で学生服に着替えていたんだが、階下からチャイムの音が鳴った。それも妙に慌ただしく、何回も連打されている。
「……誰だろ」
両親は既に出勤してしまったようで、応対する気配がない。姉さんも今頃は自室で身嗜みをチェックしている頃合いだろうし、そうなると俺が出るしかあるまい。
そう考えている間も、チャイムはひっきりなしに鳴らされている。一体何だろうと首を傾げつつ、あまり来訪者を待たせるのも失礼なので、「はい」と言って玄関の扉を開けた。
「助けて!助けて!助けて!」
扉を開けた瞬間、1人の女の子が切羽詰まった表情で飛び出してきて、俺の胸にすがりついてきた。着ている制服から察するに、俺が通っている中学校の生徒だと思われた。
「助けてよ、ねえ!あなたのお姉さん、霊能者なんでしょ!?早く御祓いとかしてよ!でないと私もーーー」
「ちょっ、ちょっと待って。落ち着いて」
俺は女の子の両肩を掴むと、なるべくゆっくりとした口調を心掛け、言った。
「助けてって、どういうこと?助けてあげたいけど、まず何がどうなって助けてほしいのか、教えて貰わないと」
「……あ、そっか。そうね、ごめん」
女の子はハッと我に返ってか、済まなさそうに謝った。詳しい話を聞かせて貰おうと思い、とりあえず彼女に上がって貰い、リビングに通す。
「よお。朝っぱらから雌犬引き連れて何しようってんだ?」
ーーーリビングには、先客がいた。右手に父さん愛用のジッポーのライターを弄びつつ。やたらとデカい態度で悠々とソファーに腰掛けているのは、誰であろう、姉さんだった。姉さんは冷ややかな笑みを浮かべると、俺にジッポーなど突き付けながら呟く。
「どういうことなのか、説明して貰おうか」
……それから姉さんとは一悶着あったのだが、詳しく説明していると夜が明けてしまいそうになるので、敢えて避ける。ただ、俺の前髪が少しだけ炎上したと言えば、大凡何が起きたのかは分かって貰えるだろう。まあ、そんなことは置いといて。
「彼氏と、忍冬(スイカズラ)神社に行ったんです」
佐々木綾香さんは、そう語り出した。つい昨日ーーーつまり日曜日の夜のことだったらしい。
佐々木さんは俺と同じ中学校に通う生徒だ。俺とはクラスが違うので、直ぐにはおもいだせなかったが、言われてみれば、成程。どこかで見たことがある。恐らく、学校の廊下などですれ違ったりはしていたのだろう。
彼女は同じクラスの沢田という男子生徒と付き合っていた。彼は大層なオカルト好きで、主に心霊スポットや神社などに、フラリと出向くのが趣味だったらしい。
昨日も、沢田は夕方近くになってから、佐々木さんを電話で呼び出し、こう告げた。
「忍冬神社へ行こう」
忍冬神社とは、俺達の住む町にたった1つしかない神社なのだが、不思議なことに一般客の参拝は赦されていない神社だった。入り口には注連縄が施され、「関係者以外の立ち入りを禁ずる」という看板が設置されていた。
何故、一般客の参拝が赦されていないのかは知らないが、ちらと聞いた噂によれば、何やら曰わくのある神様を祀っていると聞いたことがある。
そんな曰わく付きの神社になんて行きたくないと佐々木さんは訴えたが、沢田に半ば無理矢理強制され、渋々向かったらしい。
「最初は境内を見て帰るつもりだったんだけど……」
悪ノリした沢田が神社の内部をも探検しようと言い出したという。この沢田という男、どんな奴だか知らんが、かなりのお調子者のようだ。いや、無鉄砲というか、後先を考えないタイプと言ったほうがいいか。
勿論、社の入り口には鍵が掛かっていたが、もう何年も人の手入れがされていないためか、引っ張ったりしている内にガシャンと外れた。2人はそろそろと中へと入り、暗い社内を手探りで歩いた。
「そ、そしたら……唄、みたいなものが、聞こえてきて」
「唄?」
佐々木の声が震え出した。親指の爪を噛み、落ち着かない様子でそわそわしている。
「こ、子守唄みたいな…民謡、みたいな……ゆっくりした音程で、でも何言ってるか言葉は分からなくて……、でも、だんだん早口になって、私…、私、怖くなって……そ、そしたら、沢田君が、沢田君が、沢田君、の、小指、が………」
「ーーー消えたのか?」
佐々木さんの言葉を引き継ぐように、姉さんが答える。佐々木さんは今にも泣き出しそうな顔をして、首を縦に振った。
「こ、小指の先から煙みたいなのがスーッと上って……、そしたら糸が解けていくみたいに、さ、沢田君の指が、スルスル解けて、消えちゃって……わ、私、怖くなって、彼を置いて、社から逃げて来ちゃって……沢田君も吃驚して、後から逃げて、きたんだけと……」
「沢田は?それから沢田はどうしたの」
「き、消えちゃった……」
佐々木さんの話によると、沢田の体はスルスルと煙のように溶けていき、小指から腕、肩、首、顔、胴体とどんどん消えていき、神社の入り口まで来た時には、沢田の足首だけがぼんやりと残っていた。それを見た佐々木さんは、そのまま家に逃げ帰ってしまったらしい。
「警察に…行くことも考えた。でも、信じて貰えるわけないでしょ?人1人が急に消えた、だなんて……。小指からスルスル解けて消えました、なんて誰が信じるものですか!だから朝になるのを待って、あなたの家を訪ねたのよ。あなたのお姉さんが霊能者だっていう噂を聞いてたから……」
佐々木さんは姉さんに向き直ると、精一杯体を前屈させた。
「お願いします!沢田君を助けて下さい!それに、次は私が消えてしまうかもしれないし……、だから助けて!御祓いが出来るなら御祓いしーーー」
「沢田って奴は手遅れだ」
姉さんは今までに見たことないくらい、真剣な表情で呟いた。佐々木さんの顔から、一気に血の気が引いていく。
「あんたも既に無事ではないよ。どうもさっきから獣臭いと思ってたんだが、アレが近くまで来てるからだ」
俺は姉さんに「アレって何?」と聞いたが、姉さんは固い表情で首を振った。
「……私も詳しい話は知らない。前に1度、文献で読んだことがあるだけだ。忍冬とは植物の名前として知られているが、それと同時に神様の名前でもある。忍冬はね、人を喰うタイプの神様なんだよ」
「神様が人を喰うの……?」
「神様ってーのは、人間の味方とは限らない。日本には八百万(ヤオヨロズ)と言って、たくさんの神様があちこちに存在している。忍冬も一応神様として崇めたてられているが、実際は神様ならぬ邪神なんだよ。人間を喰う為だけに存在している神様だ」
「じゃあ、沢田が煙のように消えたのって……」
「忍冬に喰われたんだよ。アレは人間の肉体どころか、その存在さえも喰い尽くす。とりわけ、唄を聞いたとなるとヤバイ」
姉さんは立ち上がると、2階に駆け上がり、御神酒と蝋燭、そして長い数珠を持ってきた。蝋燭に火を灯し、リビングの四隅に置き、佐々木さんに正座させ、数珠を持たせた。
「霊が取り憑いているのであれば祓うことが出来る。だが、相手は一応神様だ。だから祓うことは出来ない。神様に太刀打ちは出来ない。いいか、絶対喋るな。息も出来るだけ堪えろ。居場所を探られたらアウトだ。諦めて社に帰って貰うまで、一言も口を利くな」
佐々木さんは目に涙をいっぱい溜め、コクコク頷いた。俺は彼女の隣に正座し、寄り添う。姉さんは頭から御神酒を被ると、両手を組み合わせ「印」を結ぶ
。
時間だけが刻々と過ぎていく。特に怪しい気配を感じることはないが、姉さんは何か感じているようで、耳をそばだて、周囲を警戒している。佐々木さんといえば、よほど恐ろしいのか、目を瞑り、必死に両手を合わせて拝むような体勢を取ったままだ。
その時、突然家が揺れた。ガタガタとテーブルや食器棚が揺れ始める。姉さんが顔をしかめた。
「……来た」
もわっと、生臭いような獣臭いような、不快な臭いがした。家中の窓や扉は施錠してあるというのに。この臭いの根源はどこなのだろう。
「佐々木さん、大丈夫?」
隣にいる彼女に声を掛けたが、彼女は既にパニック状態だった。周囲に忙しなく視線を巡らせ、半泣きだった。これはマズいんじゃないかと思った瞬間、佐々木さんがハッとして顔を上げた。
「……唄。唄が、聞こえる……」
それを合図としたかのように、激しい揺れが嘘のようにピタリと治まった。姉さんがギョッとしたような顔で佐々木さんを見る。
「聞こえる……。あの時と同じ唄だ。同じ唄が聞こえるよぉ!ねえ、聞こえるよ!怖いよ、早く何とかしてよ!唄が、唄が聞こえるの!ねえ、聞こえるでしょ!?すぐ傍から聞こえてくるでしょ!?ねえ!?ねえ!?ねえ!?あんた達には聞こえないの!?」
耳を澄ましてみるが、唄のようなものは聞こえない。その代わり、重苦しい閉塞感にも似た空気がリビングの中を隅から隅まで支配していくのが分かった。
「ッ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッッッ!!!!!」
「佐々木さん!?」
耳を塞ぎたくなるような、つんざくような絶叫を上げて、佐々木は自らの右手を凝視していた。白く煙のようなものが立ち上り、彼女の小指はスルスルと解けて消えていく。
「いやよぉ!何で私まで!悪いのは沢田君じゃないのよぉ!!沢田君が忍冬神社に行くなんて言わなきゃ良かったのにぃ!嫌だよぉ、消えたくない!消えたくないよぉ……!!」
「佐々木さん!」
泣き叫ぶ佐々木さんに近寄ろうとしたところを制止された。姉さんが後ろから俺を抱き締めるようにして苦々しく首を振る。
「近付くな!気に当てられる!もう手遅れだ!あの子はもう……」
「でも……!」
だがーーー確かに手遅れだった。ほんの一瞬の間に、彼女の上半身はスルスルと解け、煙のように消えていく。やがて腰から下もスルスルと解け出し、瞬きを数回している内に彼女は足首だけの存在となった。その足首もスゥッと解けて消えていく。
「………」
消えた。完全に佐々木さんは消えてしまった。俺はヘタヘタとその場に座り込む。ショックさえ通り越して何も言えない。
「ごめん……。助けてあげられなかった」
姉さんが悔しげに呟く。俺はやっぱり何も言えなくて、佐々木さんが立っていた場所を呆然と見つめていた。
続く。
作者まめのすけ。