俺には4つ年上の姉がいる。最近、ロングヘアーをバッサリ切り、ショートヘアにした姉さんは、イメチェンついでに伊達眼鏡を掛け始めた。黒いフレームの細長いレンズが嵌め込まれているタイプで、姉さんが掛けるとエロい社長秘書みたいに見える……。
「男ってさぁ。女がたまに眼鏡を掛けると、してない時とのギャップにグッとくるんだろ?眼鏡なんて初めて掛けたけど、似合うかな?似合うよな?似合わないなんて抜かしたら、目潰しするからな」
ジロリとフレームの内側から眼光鋭く睨まれ、俺はぎこちなく笑いながら「似合う似合う。眼鏡美人って言葉は、姉さんのためにある言葉だよ。いやぁ、惚れるね。惚れ直すね。眼鏡掛けていない時の姉さんも素敵だけど、している時の姉さんも素敵。知的な感じがして、もう最高!」……などと、歯が浮くような台詞を言った。いや、言わされたというべきか。
かなり顔を引きつらせながら言ったので、文句を言われるかなぁと憂いていたのだが。或いは目潰しされるかと心底怯えていたのだが。姉さんはパアッと満開の笑顔を浮かべると、「そうか!?やっぱりそう思う!?ありがとうー」と言いながら、俺の頭をいい子いい子と撫で撫でしてくれた。意外と単純なところがある姉さんである。
そんな姉さんは来年大学受験を控えているため、土日ともなると、近場の大学のオープンキャンパスに足繁く通っている。どうも、家から通える範囲内の大学に通うつもりでいるらしい。
因みに。姉さんがオープンキャンパスに行く時は何故か俺も行くよう命じられる。土日くらい、家でゴロゴロしていたいとも思うのだが、姉さんがロングヘアーをバッサリ切ったのは俺のせいであり、他にも色々と莫大な恩を受けてしまったので、当面は姉さんの言うことに逆らえないのだった。
先週の日曜日のこと。最早、土日の日課となりつつあるオープンキャンパスに出掛けると言うので、俺達はバスを乗り継ぎ、目当ての大学へ向かった。大学内をあらかた散策し、学食で少し休憩し、サークル活動なんかも見学して。そろそろ帰ろうかという時になり、姉さんは言った。
「ちょっとトイレ。すぐ戻って来るから。ステイ!」
……ステイって。それ、飼い犬に言う台詞じゃねぇかよとも思ったが、姉さんにそんなこと言えまい。女子トイレの前でステイしているのは流石に気が引けたので、少し離れた場所に立っていると。
「あのう……すみません」
声を掛けられ、振り向く。若い女の人が赤ちゃんを抱いて立っていた。
「少しの間でいいので、この子を抱いていて貰えませんか」
嗚呼、もしかしてトイレに行きたいのかな。でも俺、赤ちゃんなんて抱っこしたことなんてないし、大体、ちゃんとした抱き方だって知らないのに、そんなことをお願いされても……。
「お願いします。すぐですから」
「あ…、ちょっと!」
女の人は半ば強引に俺に赤ちゃんを押し付け、トイレに駆け込んでいく。彼女は非常に短く、ひらひらとした薄い生地のスカートを履いていたので、つい赤ちゃんをそっちのけで、揺れ動くスカートの裾に思わず目を向けてしまったのだがーーー
「……ん!?」
ふわりとしたスカートだなぁとは思っていたが、あれはスカートというより、只の布切れを腰に巻き付けたような……。今時のスカートって、そういうデザインが流行ってるんだろうか。
おまけに、所々スカートに赤い染みが付いていた気がする。模様か何かだと思えばそう見えなくもないのだが、それにしても風変わりな……。
俺が女性の下半身について詳しく描写をしていると、腕の中の赤ちゃんがグズグズ言い出した。やっぱりママじゃないってことが分かるのだろうか。
でも、泣かれても困るんだって。むしろ泣きたいのは俺の方だよ。
「あー、よぉし、よぉし。いー子でちゅねー。いー子でちゅから泣かない泣かない。ほーら、べろべろばー」
赤ちゃんは泣いた。火が付いたように泣き出した。俺も泣きたかったが、泣くわけにもいかず、必死にあやし続けていたのだがーーー赤ちゃんの体が、何というかだんだんと重みを増してきたような気がしたのだ。
初めはただの気のせいかと思ったが、違う。腕に掛かる体重はズシンと重みを増し、まるで大きな岩を抱いているような気分である。
「ぐっ…、重い重い!腕が折れる……ッ」
立っているのも苦痛になり、ガクリと膝をつく。赤ちゃんは相変わらず泣いていた。何なんだよ、この子!?何で急に重たくなったんだ?あまりの重みに息をするのもやっとで、歯を食い縛りながらひたすら耐えた。と、そこにトイレを済ませたであろう姉さんが出てきた。
「何してんだ、鴎介。何だ、そのガキ」
「…ッ、ねえさ…、ん。こ、この赤ちゃんが……」
「お前の隠し子?」
「違うよ!!預かってるだけだってば!!」
俺はゼィゼィと荒い呼吸を繰り返しながら、姉さんにこれまでの経緯を話した。話を聞き終わると、姉さんは黙って両手を差し出してきた。赤ちゃんを渡せということなんだろうか。
「その女は人間じゃないよ。姑獲物(ウブメ)だね」
赤ちゃんを受け取った姉さんは、軽々と抱っこしていた。すげぇ。姉さんは華奢で細い体つきな割には怪力の持ち主らしい。
「お前が見た女は赤い腰巻きをしていたんだろう?だったら間違いない。そいつは姑獲鳥だ。へえ、姑獲鳥なんて珍しいな。滅多にお目に掛かれる怪異じゃねーんだぜ。ラッキーだな、お前」
「………」
何がラッキーだよ。希少価値のある怪異を見たところで、別に嬉しくも何ともねぇよ。俺は痛む腕をさすりながら、姉さんの腕の中にいる赤ちゃんを見つめた。赤ちゃんは姉さんの手に渡った途端、すぐに泣き止み、キャッキャッと笑い声さえ上げている。俺の時とは大違いだ。
姉さんは赤ちゃんを軽く揺すり上げながら続ける。
「姑獲鳥とは、難産の末に亡くなったり、死産した子どもを想う母親の情念が妖怪化したモノだ。赤い腰巻きを身に付け、出会う人に”子どもを抱け”と命じる。赤ん坊を受け取ると、どんどん重たくなっていくが、最後まで抱いてやると成仏して消えていく。反対に赤ん坊を抱くのを断ると、祟りを招くと言われているんだ」
「ふうん…。それはそれとして、何で大学に姑獲鳥がいるの?」
姉さんはクスリと微笑んだ。
「そりゃあ、お前の匂いを嗅ぎ付けたからじゃないか?お前は怪異を呼び寄せやすいというか、引き寄せやすいというかーーー怪異に好まれる体質なんだよ。それに姑獲鳥は鼻が利くしな」
その台詞を言い終えるか終わらないかの内に、姉さんの抱いていた赤ちゃんはスッと消えた。どうやら成仏したらしい。
へたり込んだまま、「はあ…」と溜め息をついていると。姉さんもまたしゃがみ込んで、俺の肩をポンと叩いた。ニコニコしながら姉さんは言う。
「私、ガキは嫌いなんだけどさ。鴎介とのガキなら生んでもいいかなぁって思うんだよ」
……あまりの爆弾発言に、俺は後ろにひっくり返った。
作者まめのすけ。