俺には四つ年上の姉がいる。姉とはいえど、俺達の間に血の繋がりはない。義理の姉弟というやつである。
血の繋がりはないけれど、絆という繋がりはある。姉さんには何度も窮地を救って貰ったし、命を助けて貰ったこともある。
姉さんは俗に言う「見える側の人間」だ。持って生まれた先天性な能力なのか、それとも成長するにつれ開花した後天性の能力なのかは分からない。しかし、姉さんには確かに「見える」能力があるのだ。
ここで言う「見える」能力というのは、霊的な存在のモノを指す。姉さんはそれを怪異と呼んでいる。
怪異ーーー怪しくて、異なるモノ。
大昔は自然災害や天変地異なども、怪異の仕業だと考えられていたようだ。例えば山火事や土砂崩れは山に住まう妖怪の仕業だと思われていたり。海が荒れたり、大雨が降るのは水神の祟りだと危惧したり。
人は未知なる存在に恐怖を覚える生き物であるらしい。実体がないものとか、科学的理論で解明出来ない現象は畏怖の対象となる。
これは姉さんから聞いた話なんだが、「怪異に惹かれやすい体質」というのもあるのだそうだ。
卵アレルギーの人間が卵を口にすると体に発疹が出るように。特定の条件を満たしてしまうと、体が過敏に反応してしまうシステムーーー怪異に惹かれやすいという体質もまた、アレルギーみたいなものらしい。
姉さんも俺も、まさしく怪異に惹かれやすい体質らしく、頻繁に怪異に遭遇している。姉弟揃って、怪異に過敏に体が反応してしまう厄介な体質であるようだ。
つい先日も事件が起きた。学校帰りに公園を通りかかった俺は、鬼ごっこをして遊ぶ子ども達を見掛けた。鬼から必死に逃げ回る子ども達。
実は「鬼の子」という怪異を交えての鬼ごっこだったらしい。鬼役は鬼の子、逃げ回る子ども達は水子霊だったという、実に奇妙な鬼ごっこに俺自身も巻き込まれてしまった。
その時は姉さんの助力もあって、事なきを得た。そう思っていた。全ては解決したものだと心から安堵したものだけれど……
事件はどうやら終わっていなかったようだ。
今から話すのは、ニ度目に起きた事件の全貌である。
鬼の子事件が起きてから三週間ほど経った頃。その日は国民の休日デーとも言える日曜日だった。
三週間ほど前に負った捻挫もどうにか回復し、今では普通に歩けるし、走ることも出来る。姉さんに肩を貸して貰わなくとも良くなった。
俺は先週から借りていたレンタルビデオを返しに、駅前にあるTSUTAYAへと立ち寄った。借りていたディスクを返却し終え、今日発売された漫画を購入し、帰路についた。
最近、思うように外出出来なくて困る。姉さんがうるさいからだ。登下校は必ず付き添われるし、夜中にコンビニに行こうと思っても止められる。
「私の目の届かない場所に行くな。私の監視下にいろ」
と、こうだ。
初めは怪我した俺を労ってくれているのかと思ったんだけど……それにしては姉さんの様子が変だった。何かを警戒しているようなーーーそんな感じ。
理由を聞いてもはぐらかされるし。しつこく聞いて怒られるのもやだったから、とりあえず「はいはい」と言うことを聞いてたんだけど。
今日も外出禁止のお触れが出ていたんだが、姉さんがトイレに行ってる隙に、こそっと家を抜け出した。返却日が今日までだったので、どちらにしろ返しにいかなくてはならなかったのだ。
滞納金は払いたくない。今月はお小遣いがピンチなんだもん。
「……やっぱり黙って出てきちゃったのはまずかったかな」
ポケットに入れているiPhoneがさっきから振動しっぱなしだ。さっきTSUTAYAで確認したら、着信五十八件にメールが七十件きていた。
メールの内容も、件名に「どこ」とあるだけで、本文には何も書かれていなかった。七十件ともみんな同じ。
……ストーカーばりじゃねえか。着信に至ってはワン切りだし。
早いところ家に帰ったほうが良さそうだと思い、ダッシュした。ポケットの中でまたiPhoneが振動する。今度は着信だった。相手は勿論、姉さんである。
そろそろ出ないとヤバい。幸いにもワン切りで切られることなく、コール音は続いている。俺はiPhoneを取り出すと、「もしもし」と電話に出た。
「お……す……け…………い……どこ…………」
「え?何、よく聞こえない」
ノイズ混じりで声がよく聞き取れない。テレビの砂嵐みたいなザーッという耳障りな音がしている。
故障?或いは電波状況が良くないのかな。駄目元でiPhoneを振ったり、歩き回って場所を変えてみたんだけど、どうにも復活しない。ノイズ混じりのままだ。
「もしもし、姉さん?電波が悪いみたいだから、一旦切るよ」
「……莫迦………切るな………今………ど………」
ブツッ。ツー、ツー、ツー、ツー、
切れた。
iPhoneの画面は真っ暗になっていた。ボタンを弄ったり電源を入れ直してみたんだが、電源自体が入らなくなってた。出掛ける前にちゃんと充電しといたはずなのに。
やべぇ、こりゃ故障かな。
TSUTAYAのお次はケータイショップかよ。肩を竦めてiPhoneをポケットに仕舞う。
ざわり、と湿っぽい風が吹いて。
キャハハハッ。
甲高い子どもの笑い声がした。
ハッとして顔を上げる。前も似たようなことがあったような……。嫌な記憶がフラッシュバックのように蘇る。背中にじわりと冷たい汗が流れた。
「ちょーだい」
前方から声がした。ふと見れば、十歳くらいの女の子が少し離れた場所に立って、両手を胸の前でちょこんと差し出している。
間違いない。さっきまでこの道には誰もいなかったはずなのに。俺しかいなかったはずだ。
呆気に取られたというよりは、ギョッとして固まった。そのまま、じっと女の子を見つめる。女の子のほうも俺をじっと見つめ、単調な口調で言った。
「ちょーだい」
女の子は巫女さんみたいな格好をしてた。上は白装束に下は赤い袴姿。髪の毛はすんげー長い。地面につくくらい長かった。
こんな派手な身形をした女の子が近くにいたら、幾ら何でも気付くはずだろう。それなのに、今になって気付いたというのも変な話だ。
人影のない道に突如として現れた?それこそーーー怪しく異なるモノのように。
怪異みたいに。
「ちょーだい」
女の子はあどけない声で繰り返した。心なしか、その子との距離が近付いてきている気がする。でも、その子は足を動かしていない。歩いている素振りもない。なのに、だんだんと距離が縮まってきていた。
「ちょーだい」
キャハハハッ。
その子は甲高い声で笑った。八重歯だろうか、笑った口元から鋭い牙のような歯が覗いていた。異様に長い八重歯だった。
何より一番不気味だったのは……その子の眼球だ。
「目……、どうしたの」
恐る恐る尋ねると。女の子は口が裂けるんじゃないかってくらい大口を開け、「キャハハハッ」と八重歯を見せて高笑いした後、
「チョオオオオオオオオオダアアアアアアアアアイイイイイイイイイイイイイイイイイイ」
動画をスローモーションして再生した時みたいな声を上げ、滑るようにこちらに迫ってきた。両手をわきわきと蜘蛛のように動かしながら。
「うっ……、うああああ……!!」
またこのパターンかよ!
俺は踵を返すと走り出した。まさかこんな町中で遭遇するなんて思わなかったから。
「ちょーだい」
「っ、」
ぬうっ、と胸の辺りから女の子の頭部だけが現れ、俺を見上げていた。目が合うと、「キャハハハッ」と楽しそうに笑った。
「止め……、どっかいけよ!」
がむしゃらに手で振り払い、また駆け出した。
「ちょーだい」
「……いてぇ!」
ズシッと左足が急に重たくなり、バランスを崩してその場にすっ転んだ。女の子が俺の左足首を両手でぐっと握り締め、ニタニタ笑っていた。
「ちょーだい」
「離せ、この野郎!!」
抵抗した時に左の靴が脱げ、買ったばかりの漫画も手放してしまったけれど、惜しむ余裕も時間もない。
「くそぉ!」
どこをどう走ったか分からない。ただ、無意識のうちに姉さんに頼らなければならないと考えていたようで、家の近くにある公園に来ていた。
例の鬼の子事件が起きた公園である。
急激に走ったせいで喉は涸れ、膝はガクガク。過呼吸でも起こしてブッ倒れるんじゃないかってくらい、呼吸が苦しかった。
「欧介!無事か!?」
公園の入り口に自転車に跨がった姉さんがいた。ゆったりとした大きめのパーカーに、素足にサンダル履き。部屋着のまま飛び出してきたようなスタイルだった。
「ねぇさぁんんんん~。よがっだぁ~。ごわがったよぉぉ~」
「莫迦。いいからさっさと乗れ」
泣きべそかきながら姉さんの後ろに乗り、細い腰にぎゅっとしがみつく。姉さんは俺が乗り込むのを確認すると、「今日の日没は何時だ!?」と聞いてきた。
日没の時間?
「わ、分かんないよ。急にそんなこと言われても……」
「携帯で調べりゃいいだろうが。てめえは猿か!」
「それが……さっき急に電源落ちちゃって……」
「ちっ」
姉さんは舌打ちすると、サドルに足を掛け自転車を漕いだ。ぐんぐんスピードを上げるので、振り落とされまいと必死でしがみつく。
そりゃ俺は同級生の男子と比べると背は小さいし、体つきも小柄なほうだ。それにしたって後ろに男の俺が乗ってんのに、このスピードはねぇだろ。
これ、普通のママチャリだぜ?マウンテンバイクじゃないんだよ?
マウンテンバイクどころか普通のバイク並みのスピードを出してる気がする。こんなスピードで走り続けてたら、近いうちタイヤがパンクしそうだ。
日はすっかり傾いている。西日か差す中、俺達を乗せた自転車は町中を併走しまくった。通行人を跳ね飛ばしそうになりながらも、姉さんは自転車を漕ぎまくった。
「ねえ!もう大丈夫なんじゃない!?」
後ろを振り返りながら俺は叫んだ。あの女の子の姿はどこにも見当たらないし、声も聞こえない。「」それだけでもホッとする。
姉さんが一緒にいることもそうなのだろう。俺としては、大分恐怖は薄れていた。
だが姉さんはまた舌打ちした。
「アレはいなくなったりしねーよ。姿を隠してるだけだ」
「アレって……何なの」
「アレが”鬼の子”だよ。お前、あいつの目を見たか」
「……うん」
「尋常じゃなかっただろ」
確かに……あの目は尋常じゃなかった。
えもいわれぬ恐怖。思い出すだけで背筋に冷たいものが走る。
「あいつはお前の肌の匂いや心音を頼りにお前を探してるんだ。あいつは目が見えないからな。その代わり嗅覚と聴覚が極端に優れてるんだ。妙な気配を感じてたから、外出は禁止だって言ったのに。勝手なことしやがって」
「ごめんなざいぃ~。ずみまぜんでじだ~」
「謝って済むなら警察はいらねーんだよ」
言うが早いか。姉さんは急ブレーキを掛けて自転車を止めた。そして方向転換し、今来た道をフルスピードで戻っていく。
「あいつを祓うことは出来ない。だが、一時的になら追い払うことは可能だ。あいつは幽霊でも妖怪でもない。神の化身と似たようなモノだが、神でもない。何者でもない。悪意や敵意もない。だから一番厄介だ」
「悪意や敵意もないって……でも追い掛けてきてるし。”ちょーだい”とか言ってるし。何より見た目が怖いじゃん。あいつ、目が……」
「姿形は確かに不気味だけど、お前に対して悪さをしてやろうと思ってるわけじゃない。純朴で純粋過ぎるんだよ。小さなガキと一緒だ。好奇心が赴くままに行動する。お前を追い掛けてくるのも、あいつからしたら鬼ごっこをして遊んでるようなものだ」
だからこそ厄介なんだ。
そんな話をしながら、姉さんはある神社の前に自転車を停めた。
ここは忍冬(スイカズラ)神社という。この町に唯一ある神社なのだが、一般客の参拝は禁じられており、入り口には厳重に注連縄が施されている。関係者以外は立ち入り禁止区域になっている場所。
実を言うと、以前にこの神社で怪異絡みの事件が発生し、一生トラウマになるような出来事が起きた。それ以来、決して近寄らないようにしていたんだが……それはさておき。
自転車から降りると、姉さんが俺の背中をドンと押して叫んだ。
「鳥居を潜れ。そしたら少しの間だけ呼吸止めてろ」
俺は姉さんの言う通り、古びた鳥居を潜った。そして口元を手で押さえ、息を止めた。
本殿を取り囲むようにして、ぐるりと聳え立つ木立からは、名も知らない鳥がギャアギャアと喚いていて煩かった。
神社はひっそりと静まり、鳥が騒がしく喚いている以外に物音一つしない。不気味なくらいの静寂さがかえって恐ろしかった。
「……やっぱり駄目か。おい、走るぞ」
「んぅ!?」
「もう息はしていい。本殿まで走ったら、両手を広げて前を向いてろ。あいつは必ずここに来るから」
「俺が囮になるってこと!?」
「当たり前だ」
姉さんに腕を引っ張られ、本殿の前に立たされた。あいつをここで待ち構えていなきゃならないと思うと……生きた心地がしない。
あの目……。あの目に見つめられ、ニタニタ笑いながら「ちょーだい」を連発されると思うと、マジで泣きたくなってきた。
ざわっとした湿っぽい風が吹く。あいつが現れる前兆だ。
心臓がバクバクいってた。どこだ。どこから来るんだ。周辺をぐるりと見渡したかったが、それも怖くて出来なかった。
「ちょーだい」
「………っ、」
目の前に、あいつがいた。
本当の意味で目の前。背丈は俺のほうが上なのに、あいつは俺と視線を合わせる形で立っていた。よくよく見れば、宙にぽかんと浮いていた。
もうキスでもすんのかってくらい近かった。近過ぎてピントがぼやけるくらい。
「……っ、っ、」
声が出ない。動けない。視線が反らせない。しばらく睨めっこするかのように、黙ってお互いを見つめ合っていた。
「出たな」
本殿の裏から姉さんが飛び出してきた。手には長い巻かれた包帯を二つ持っており、その一つを俺に向かって投げてきた。
「それ使え」
包帯を伸ばすと、梵字(?)みたいなものが端からは端までびっしりと書かれてあった。使えと言われても、どうやって使うんだ?
「目を塞げ!」
嗚呼、目ね。つまり目隠ししろってことか。
伸ばした包帯を目元に巻き付けようとすると、後頭部をスパァンとひっ叩かれた。
「お前が目を塞いでどーすんだ。そうじゃなくて、こいつの目を塞げって言ってんだよ!」
そっちか。
既に姉さんは鬼の子の目元に包帯を巻き付けていた。一巻きニ巻き……素早く手を動かし、少しの隙間も許さないようにぎゅうぎゅうと締め付けていく。
目を潰すような勢いだった。圧迫された部分の周囲がだんだんと紫色に変色していく。
「キャハハハッ、ちょーだい、キャハハハッ、ちょーだい、キャハハハッ、ちょーだい、キャハハハッ、ちょーだい、キャハハハッ、ちょーだい、キャハハハッ、ちょーだい……」
鬼の子はケタケタ笑っていた。声は一層甲高くなっていき、両手をバタバタと動かして、一応抵抗はしているようだ。
笑い続けているので、楽しんでいるようにも見える。実際は苦しんでるんだろうけど。
「お前も手伝え!呑気に見学してんじゃねえ!」
「あ……、ああ、うん……」
姉さんにどやされ、俺はそろそろとあいつに近付いた。すると鬼の子はケタケタ笑うのをぴたりと止めた。両手をゆっくりと下げ、声は出さずに唇だけゆっくりと動かす。
ま た ね
ざわっと風が吹いた。
キャハハハッ。
その風に攫われてしまったかのように、鬼の子は影も形もなくなった。鬼の子の目元を覆っていた包帯だけがふわりと地面に落ちた。
「いない……」
「逃がしたか。まあ、あいつは黄昏時から日没までしか動き回れないからな」
地面に落ちた包帯を拾い上げながら姉さんが言った
「あいつ、最後にお前に何か言い残していかなかったか?」
「”またね”って言ってた……」
ま た ね
つまりーーーまたあいつは俺の前に姿を現す気でいるんだろうか。俺の記憶違いであってほしいと祈るばかりだ。あいつには二度と会いたくない。
「あいつーーー目があべこべだった……」
あべこべ。白目と黒目が逆転していたのだ。白目の部分が黒く、黒目の部分が白かった。白い黒目がせわしく微動していたのが薄気味悪かった。
あいつは何を欲しがっていたんだろう。ずっと「ちょーだい」を連呼していたが……そもそも、あいつは一体何だったのだろう。
幽霊でもなければ妖怪でもなく、神の化身に近いけれど神でもない存在。悪意や敵意を持っておらず、純朴で純粋過ぎるモノ。だからこそ祓うことが出来ないのだと姉さんは言っていたが。
姉さんに聞けば、もっと詳しく教えてくれたのかもしれないけれど、何故か聞こうとは思わなかった。聞く勇気がなかったのだ。
恐ろしい事実を知ってしまいそうで。
「……あいつはまた現れるのかな」
二度あることは三度ある。次に会った時、俺は今みたいに逃げ切ることが出来るだろうか。正直、自信がない。
祓えないというのが事実ならば……ヘタしたら、一生あいつに付き纏われる可能性もないとは言えないのだ。とんだ鬼ごっこである。
日はすっかり落ち、辺りは薄暗くなってきた。あれだけ騒いでいた鳥達も、塒を探しに飛び立ったのか声が聞こえてこなくなった。
姉さんは巻き終えた包帯をパーカーのポケットに仕舞い込むと、俺を見て呟いた。
「次にあいつが現れたら、お前を守り抜く自信がないよ。今回はたまたま助かったんだから」
……恐怖は継続中。
キャハハハッ。
「ちょーだい」
作者まめのすけ。