俺には四つ年上の姉がいる。
年上の姉がいると言うと、よく「どんな人なの」って周囲から質問されるんだが。どんな人かと言われても、彼女のことを上手く説明出来る自信があまりない。
姉さんは名を玖埜霧御影というんだが、それすら本名じゃない。偽物の名前だから。
玖埜霧という名字は姉さんが引き取られた時に与えられた称号であり、本来は別の名前だったのが御影という名前に変更されたもの。
つまり。姉さんは正式に玖埜霧家の人間ではなく、養子縁組みをして玖埜霧家の一員として迎えられたというわけだ。
それは姉さん自身も了承済みの事実だし、両親や俺もそれを受け入れている。血の繋がりなんてなくても、人は家族になれる。俺はそう信じている。
ところで姉さんは所謂「見える側」の人間だ。
科学では決して解明出来ない不可思議な現象ーーー怪異とひとくくりに呼ばれているがーーー姉さんには怪異を見る力、そして祓える力がある。
姉さんは特別扱いされることを嫌うから、あまり表立って言えないけど……専門的並みの知識や経験を持ち合わせている。
弟の贔屓目と思われるかもしれない。でも、これだけは言わせてくれ。
玖埜霧御影は「本物」である。
◎◎◎
「欧ちゃーん、一緒に帰ろー♡手繋ごー♡クレープ食べよー♡公園デートしよー♡」
「うわおう!」
いつもの学校帰り。中学校の校門を出たら、電柱の陰からピョコンと姉さんが飛び出してきた。驚きのあまり、一瞬身を引いた。
吃驚した。女の変質者かと思った。
「欧ちゃーん、何か失礼なこと思ってるー?」
ぐにに、と。姉さんが俺の頬を引っ張った。さり気なく爪を立ててるところが怖い。
「ひーえ、ひょんなことはありまひぇん……」
「そう。ならいいの。じゃー、デートに行こー♡」
ヤバい。今の姉さんはデレモード前回だ。うっすら血が滲む頬をさすりながら俺は戦慄した。
家にいる時は両親の目もあってか、クールなんだけど。外に出ると一目を憚ることなくデレるんだからなあ。
こうなるともう誰にも止められない。冗談抜きに俺の貞操が危ない……。
半ば無理矢理に手を繋がれ(指を絡められた。これ、恋人繋ぎって言うんだっけ?)、クレープ屋の屋台まで連行された。
おまけにどういうつもりか、一つしかクレープを注文しなかった。キャラメルソースにジェラード、バナナ……やけに甘ったるくて喉が渇きそうなやつを注文してるし。
「はい、あーん♡」
「………」
そうだよね。やっぱりそうくるよね。
周囲の視線をすんげー感じる……。俺と姉さんとでは顔立ちがあまり似てないから、一緒にいても姉弟に見られるこては少ないんだけど。でも、恋人同士に見られても困るなあ……。
「あーん……」
ベチャッ。
食べさせるというより、口の周りを汚すことが目的みたいに、クレープを押し付けられた。トロトロに溶け出したジェラードで口の周りが真っ白になる。
「あーあ。欧ちゃんたら食べるの下手だね。こんなに汚しちゃって。赤ちゃんみたい」
「いや、今のは不可抗力……いえ、何でもありません……」
「ジッとして。舐めて綺麗にしてあげるから」
「やめてーッ!公衆の面前でそれは勘弁してーッ!」
なんて漫才をやってる時だった。
「坊や。ちょっといいかい」
杖をついたおじいさんが、にこにこしながら話し掛けてきた。小柄で、上品そうな着物に身を包んでいる。
「あ、はい……。何でしょう」
口元を拭い、おじいさんに向き直る。姉さんといえば取り澄ました顔でクレープをかじっていた。デレモードから一転。いつも通りのクールな姉さんに戻っていた。
この変わりよう。だから女の人って怖い。
おじいさんはにこにこしながら言った。
「頼み事があるんだよ。聞いてくれるかい?」
「何でしょう」
「留守をね、頼みたいんだよ」
おじいさんはスッと指差した。目をやると、三階建ての小さなアパートが目に入る。古くもないけれど、目新しくもない。特に何の特徴もない、普通のアパートだった。
「急に出掛けなくてはならなくなってね。二時間ほど家を空けたいんだが……その間だけ留守番をして貰いたいんだよ」
「はあ……」
頷いてみたものの。妙な話だ、と思う。
用事で家を空けるなら、窓や扉の施錠だけしっかりしておけばいいんじゃないか?見ず知らずの他人に、わざわざ留守を任せるほうがよっぽど危険な気がするのだが……。
「どうだね。頼まれてくれるかい」
ご老人直々にお願いされると、何だか断りにくい……。
「欧介。お前、まさか引き受ける気でいるんじゃないよな」
隣に立つ姉さんがボソリと呟く。明らかに「断れ」と言いたそうな口振りだ。俺は姉さんに目配せして「ごめん」と伝えてから頷いた。
「いいですよ。留守番していればいいんですね」
「そうかい、引き受けてくれるかい」
喜ぶおじいさんをよそに、姉さんは忌々しそうに舌打ちした。そして俺の膝裏をこっそりと蹴った。
「約束だよ」
おじいさんはそう言って、右手の小指を出した。一瞬、何のことだろうかと首を傾げたけれど、「ゆびきりげんまん」をしたいのだと分かった。
古風な人だな。俺は苦笑しつつも左手の小指を差し出した。
ゆびきりげんまん
うそついたらはりせんぼんのーます
ゆびきった
◎◎◎
おじいさんの自宅はアパートの三階。一番奥の角部屋だという。
「それじゃあ頼んだよ。これが部屋の鍵だからね」
そう言われて渡されたのは、赤い紐で結ばれた小さな鈴で括ってある鍵だった。揺れる度、鈴はコロコロと可愛らしい音色で鳴り響いた。
「ほら、姉さん。行くよ」
「…………」
姉さんは先程からずっと黙っていた。機嫌が悪いのかと思ったが、そうではない。真剣な眼差しでアパートを見上げていた。
「どうかしたの?」
「……このお人好し」
ぶっきらぼうにそう言い捨て、姉さんはスタスタとアパートのほうへと歩き出した。どうやら付き合ってくれるようだ。
ヘタしたら姉さんは俺を置いて、一人で帰っちゃうんじゃないかって危惧してたから。正直、ありがたい。だって、知らない人の家に行くのって無条件で怖いじゃん。
あのおじいさんは、別に悪い人には見えないけど……それでも一人よりは二人のほうが断然心強い。姉さんと一緒なら、密室空間に閉じ込められても安心である。
二人で外階段を上がり、角部屋の前に立った。おじいさんから預かった鍵で中に入り、靴を脱いで上がる。
「……おおう?あれ?おやおや?」
その部屋は六畳一間だった。床は畳で敷き詰められてあり、手入れも行き届いているのか塵一つ落ちていない。とまあ、ここまでは、普通のアパートなんだが。
だがーーー。明らかにその部屋は異常だった。
家具がないのである。
全然ない。箪笥もテーブルも。ストーブも。本棚も。洗濯機も。冷蔵庫も。鍋やフライパン、電子レンジ、食器棚はおろか食器なども見当たらない。ゴミ箱もない。部屋の真向かいには小さなベランダと物干しがあったが、洗濯物も干されていない。
日常生活を送るために、必要な家具類が一切ないのだ。まるで誰も住んでいない無人の部屋である。
いやーーー違う。一つだけあった。
テレビだ。大きさはニ十四インチほどで、フレームは黒。土台はなく、畳の上にぽつねんとコードで繋げてあった。
何の家具もない部屋に、テレビだけあるというこの状況。違和感というか……多少なりにも薄気味悪いものを感じる。
あのおじいさんは、本当にこの部屋に住んでいるんだろうか。生活感が全くないこの部屋に。
「さ、殺風景な部屋だねー」
暗い気持ちを払拭させるようにわざと大きな声で言った。姉さんは黙ったまま、睨むようにしてテレビを見つめている。
「暇潰しにテレビでも見てよっか?」
「莫迦。リモコンがないだろ」
「へ!?……あ、ああ、本当だ」
そういや見当たらない。コードは繋がってるから電源は入ってるんだろうけど、肝心のリモコンがなくちゃ意味がない。
ますますおかしい。というか怪しい。やっぱり引き受けないほうが良かっただろうか。
姉さんはテレビの前にきちんと正座した。膝の上できちんと両手を重ね、居住まいを正していた。
「お前も座れ。それと……じいさんから預かった鍵は持ってるよな?」
「うん、ここにあるよ」
鍵を見せると、姉さんは「大事に持ってろ」と言い、俺は制服のポケットに鍵をしまい込んだ。そして姉さんの横に胡座をかいて座る。
すると、そのタイミングを狙い澄ましたかのようにテレビが勝手についた。俺や姉さんが何の操作もしていないにも関わらず、である。そもそもリモコンがないのだから、操作すること自体が不可能なのだが。
「テ、テレビが……」
「シッ。黙ってろ」
画面には数十秒ほど砂嵐が流れたが、そのうちパッと明るくなった。白い足首のみの映像が映し出された。
足はゆっくりと歩いている。歩道を歩いているらしく、他の通行人の足元も映っていた。
これは普通のテレビ番組でないことは明らかである。まるで隠し撮りカメラで撮影されたかのようなこの映像を公共の電波で流すわけないし。
隠し撮りカメラで撮影された映像を見ているわけでもないと思う。だって、そうだとしたらビデオに接続しなくちゃいけないだろう?どこをどう見たって部屋の中にビデオはない。
一番奇妙に思ったのが、靴を履いていないということ。画面の中央にピントが合わせられている足。それは素足だったのだ。
この人物は素足のまま、外を悠々と闊歩しているとそういうことか?しかし、現代の日本において、靴を履かないで出歩いている人間がいたら、それこそ周囲に不審がられそうなのに。
「………」
黙っていろと言われた手前、俺は目線で姉さんに訴えた。何がどうなってるのか分からなかったし、怖かった。
姉さんがニヤリと笑って俺を見た。
「あいつ、ここに近付いてきてるよ」
「えっ……」
「ほら、ここ」
姉さんは画面右端を指差した。そこにはクシャリと丸められたピンク色の紙みたいな物が転がっている。
「これはクレープの包み紙だよ。ここまで来る道中に私が捨てたやつだ」
「てことは……テレビに映ってるこの映像って……」
「現在進行形」
「……だよねぇ」
「五十メートルくらい手前までは来てるはずだよ」
「あ、あはは……いっひっひっひっ……」
その地点から五十メートル走を行えば、ここのアパートがゴールというわけだ。
力なく笑う俺に対し、姉さんは呑気なもので欠伸をかみ殺している。姉さんが切羽詰まって大騒ぎしていないということは、大事にはならないんだろうけど……。
足はどんどん早足になってきていた。最初はのろのろとペースも遅かったし、歩幅も小さかったのに。五十メートルほど近付いた地点から、歩くペースが速まり、歩幅も大きくなったような気がする。
「ね、姉さん!逃げよう!」
「逃げられねえよ。お前が約束したんだから」
「や、約束?留守を守るって言ったこと?でも、何かヤバいことになってきてるし……。今は逃げたほうが、」
「お前、じいさんとゆびきりげんまんをしただろ」
「したけど……それが何?」
「ゆびきりげんまんはな、古くから伝わる呪法なんだよ」
江戸時代のことである。遊郭に勤める遊女達の間では、ある種のしきたりがあった。
好きな男性が出来ると、変わらぬ愛を誓うため、自分の左手の小指を切り落とし、男性に贈ったそうだ。何故、左手の小指なのかというのは諸説あるが、当時は左手の小指は心臓に繋がると考えられていたからという説が有力らしい。
左手の小指=心臓 心臓=命
つまり左手の小指を贈るということは、自分の命を差し出すということ。命を懸けてあなたを生涯愛しますよという決意表明なのだそうだ。
ゆびきりげんまんを簡単に要約すると、以下のようになる。
ゆびきり(今から左手の小指を切り落とします)
げんまん(私を裏切ったり捨てたりしたら、拳骨を一万回ですよ)
うそついたらはりせんぼんのーます(私に嘘をついて騙したら、針を千本飲んでもらいます)
ゆびきった(さあ、小指を切り落としました。これであなたは私の物です)
遊女の中には小指を切り落とした傷口から病気に感染し、命を落とす者もいた。まさに命懸けの行為だったのである。
「ゆびきりげんまんはな、約束を果たさない者への戒めと罰を表してるんだ。あまり知られていないけどね、これは古い呪法でもある。相手に約束を破られないよう、呪いを掛けるまじないでもあるんだよ」
「も、もし破ったらどうなるの?」
「さあてね。お前の小指がもげたりして」
「……ッ」
慌てて左手を右手で覆った。もげるなんて冗談じゃない。そんな話を聞いたからだろうか、小指の付け根がチクチクする。
と。ダダダダッとテレビから音がした。見れば、足は一足飛ばしに階段を駆け上がってきていた。
ーーーアパートの外階段を。
「うわわわわっ、来てる来てる来てる!!」
俺は姉さんにしがみついた。「ハアー‥‥‥ハアー‥‥‥ハアー‥‥‥」と、息せききった吐息も聞こえてきてゾッとした。
「アけテクダさい」
扉の外から声もする。
男みたいな女みたいな……高いような低いような。よく分からない声だった。どことなくカタコトの感じもする。喋り慣れていない言葉を無理して喋っているようだ。
「アけテクダさい」
「アけテクダさい」
「タずねテきまシた」
「アけテクダさい」
「アけテクダさい」
「アけテクダさい」
「タずねテきまシた」
「タずねテキマシた」
「アけテクダさい」
カチャカチャとドアノブを回す音がした。こいつ……まさか扉をこじ開けてまで入ってくるつもりなのかな。
「アけテクダさい」
「アけテクダさい」
ガチャッ。ガチャガチャガチャガチャ……
「アけテクダさい」
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ
そのうち、ガチャリと鍵が外れるんじゃないかと思うと、気が気じゃなかった。姉さんの腰にしがみついたまま、みっともなく震えていると。姉さんがおもむろに口を開いた。
「あなたは入れません」
ピタリ、と。ドアノブを回す音が止んだ。
「あなたは入れません」
姉さんはキッパリした口調で繰り返した。
……チッ。
扉の向こうから、生々しい舌打ちの音。それきり何も聞こえなくなった。
「おい。大丈夫か腰抜け」
「ひゃー‥‥‥」
ようやく姉さんの腰から手を離す。マジで腰が抜けそうだ。手が未だに震えている。
「いなくなったの……?」
「とりあえずはな」
姉さんはスタスタと扉へ近付いていき、コンコン、と内側からノックの仕草をする。
「海外の有名な話だが……吸血鬼っているだろ。人の首筋に噛み付いて血ィ吸う化け物。吸血鬼はな、他人の家には許可がないと入れないんだ」
「じゃあ……、あいつは吸血鬼なの?」
「違うよ。今のは単なる例えだ。日本の怪異な中でも同じようなタイプがいるんだよ。中にいる住人の許可がないと、家の中に入ってこられない奴がな」
「嗚呼……なるほど」
だから姉さんは執拗に「あなたは入れません」と繰り返したのか。この場合、俺か姉さんの許可がないと、あいつは部屋に入れないのだ。
「だからこそ、じいさんはわざわざお前に留守を頼んだんだよ。誰かが部屋にいて、”入れない”と答えてやらないと入ってくる可能性があるからね」
「………」
さいですか。
おじいさんが俺に留守番するよう頼んだ理由がハッキリした。おじいさんが留守の間、あいつが侵入するのを防ぐためだったのだ。
ゆびきりげんまんをしたのも、俺が確実に約束を守るように仕向けたのかもしれない。
今更、確かめようとも思わないけれど。
ーーーカチャリ。ドアノブが回り、ゆっくりと扉が開いた。俺は「どわっ!」と声を上げ、姉さんの背後にササッと隠れる。
「ただいま。留守番ありがとうね」
おじいさんだった。相変わらずにこにこしながら俺達を見た。手には風呂敷包みを抱えている。
「あ……。お、おかえりなさい」
「おや。坊や、どうしたんだい。お嬢ちゃんの後ろに隠れたりして」
「………」
どうしたんだい、じゃねえよ。寿命が縮んだよ。
喉まで出掛かった言葉をどうにか呑み込む。
「じいさんが帰ってきたんだから、もういいだろ。帰らしてもらうよ」
「いいとも。嗚呼、何かお礼をしないといけないね」
「いや、いらない。欧介、帰るよ」
そう言いながら、姉さんは玄関で靴を履き、さっさと出て行ってしまった。俺もあとを追い、靴を履こうとして思い出した。
「これ……お預かりしていた鍵です」
ポケットから鈴の付いた鍵を取り出し、おじいさんに差し出した。おじいさんは黙ってそれを受け取りながらジッと俺を見て呟いた。
「また今度も留守を頼まれてくれるかい?」
……俺が無言でアパートを飛び出したことは言うまでもない。
最後に一つだけ言わせてほしい。どんな約束であれ、軽々しく交わさないほうがいい。
二重の意味で。
ゆびきりげんまん
うそついたらはりせんぼんのーます
ゆびきった
ゆ び き っ た
作者まめのすけ。