夜雀といえば、高知県や愛知県、和歌山県に語り継がれる怪異のことだ。山道に出没する怪異として古来より恐れられてきた。
夜雀というからには小さな雀をイメージする人もいるだろう。だが、実際は雀のような「チッチッチ」という鳴き声をしているというだけで、姿形が雀に近いものではないという。
ビジュアル的に言えば、大きな鳥だと表記されている場合もあるし、蛾のような小さな羽虫だとされている場合もある。
夜雀は山道を歩く人間の前後に突如として現れ、歩行を阻害したり、またその鳴き声で山犬を呼ぶものと謂われている。そのためか夜雀の鳴き声は不吉の前触れと噂されていたようだ。
夜雀についての記録はあまりないのだが。うちの姉さんがどこぞの古書店から買い取ったという、「夜雀」という題名そのままの本がある。江戸時代後期に編集された本で、現代ではかなりの値打ちがあるとされている稀覯本だ。
はっきり買い取り額を聞いたわけではないけれど。一介のサラリーマンが三ヶ月間身を粉にして働いた給料と同じくらいだと姉さんが言っていた。つまり、かなりの額である。それだけ値打ちがある本だということらしいが。
そんな稀覯本がひょんなことから紛失してしまったのだ。しかも、その紛失事件にはこの俺、玖埜霧欧介が関わっているのである。というか、はっきり言ってしまえば、夜雀の本を紛失したのはーーー他の誰でもない。俺だった。
◎◎◎
「神が最初に創ったとされる人間、アダムとイブがどうして楽園を追い出されたのか。それは邪悪な蛇に唆され、禁断の果実を口にしたからなんだよ。悪いことをすればそれ相応の罰が必要なんだよね。これは言うまでもなく分かりきっていることで、誰しもが心に留めていることなんだけれど。
じゃあ実際に実行してみろと言われれば、果たして何人の人間が出来るのかな。常套句だけれど、当たり前と言われていることほど、難しいことはないんだよ。この社会は実に上手く歯車が廻されていて、どんな形であれ悪人には罰が下るシステムになっている。それは法律が下すものだけではなくて、人間が本来持ち合わせている良心というやつだね。天知る地知る我が知るーーー悪事は誰かしらが見ている。自分自身が罪の重さを一番よく知っている。それに悪事ほどバレやすいものはないからね。おかしなもので、繕えば繕うほど糸はほつれて穴は大きくなるものさ」
ねえ欧介、と。俺のほっぺをみょいんと抓りながら、姉さんはにこりと笑った。笑っている割には瞳孔が開いていてコワヒ。
「私の大切な本を勝手に持ち出した上、あろうことかこの屋敷に置き去りにしてきたなんてね。お前も会ったから知っているんだろうけれど、ここの女主人は変わり者でね。大金をはたいては怪しげな骨董品を買い漁ることで有名なんだ。興味本位に近付くなっての」
「ふぁーい……。しゅみましぇーん……」
頬を抓られているため、変な発音になってしまった。気が済んだのか姉さんは抓るのを止め、目の前に聳える屋敷を見上げた。
「さてと。では取りに行きますか」
姉さんは迷いのない足取りで門扉をくぐる。あまり手入れをされていない、枯れ葉だらけの庭を横切り、苔むした飛び石に招かれるように玄関へと進んでいく。俺は主人の後をてくてく歩く忠実な犬のように姉さんに続いて歩いた。
大切な稀覯本ーーー夜雀をなくした経緯については、姉さんにあらかた説明してある。俺が興味本位で勝手に持ち出し、学校に持って行き、その帰りに怪しげな屋敷にこれまた興味本位で立ち入って本を落としてきてしまった、と。
実際は俺が興味本位で持ち出したわけではないし、屋敷にも興味本位で立ち入ったわけではないのだけれど。俺が通う中学校のクラスメート、日野祥子。通称ショコラが屋敷に行くように仕向けたのだけれど。
ショコラのことは姉さんには伏せている。話したら話したでややこしくなりそうだし……何て言うか友人を売るような真似はしたくないのだ。こんな目に遭ってもどうかと思うけど。
ショコラから渡された夜雀の本が姉さんのだという証拠はないしな。祥子だけに証拠がない。
姉さんは姉さんで、大切な稀覯本を取りに屋敷まで行くと言い出したので、俺も同行した次第である。学校帰りに待ち合わせて屋敷へと来たので、二人とも制服姿だった。
玄関先でふと足を止めた姉さんが言った。
「制服デートって学生の特権だよな。休日に目一杯のお洒落を決め込んでデートするのもいいけれど、制服デートは構えてないところがいいよな。気軽ってか、気分が楽だ」
「え?これデートなの?」
「そうだよ」
さらりと頷かれた。
「欧ちゃんとのデートだから、下着脱いできた。上も下も♡」
「ちょっとおおお!!!」
思わず姉さんの下半身に目が行く。姉さんはスカートを短くしていないため、膝が隠れないくらいの長さなのだけれど……それでも風が吹いたりすれば関係ない。
もし姉さんの言ってることがマジだとすれば、猥褻罪で逮捕されるレベルである。
「……嘘でしょ?嘘だよね?もう御影さんたら、冗談キツいんだから。一瞬本気で吃驚しちゃったよ。あははははは!」
「信じられない?なら証拠見せようか」
「止めてー。お願いだからそれだけは止めてー」
一通りの流れが終了した後。俺達は肩を並べて屋敷へと足を踏み入れた。チャイムがないので、例によって「こんにちは」と挨拶をしながら引き戸を開ける。
「…う、」
むせかえるような悪臭がした。昨日と変わらず、黒々とした長い髪が大蛇のように横たわっている。その長い髪の毛は廊下のほうまでずっと続いており、髪本来の臭いで立ち込めていた。髪本来の臭いというのは決して芳しい臭いではない。
それと同時に、生臭い臭いもした。こちらは濃厚な血の臭いである。さらりとした血の臭いではなく、どろりと濁った生臭いものだった。
「うわ……、何この臭い」
ここまで強烈な臭いは初めてである。野犬を大量虐殺しても、ここまでは臭わないのではないだろうか。臭いの元はーーー何だ?
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
ドスン、バタンと大きな音がして、廊下の奥から長い髪の毛を振り乱した女性が頭を抱えて飛び出してきた。目ばかり大きくなったその表情といい、パカッと縦に開いた口といい、まるで「ムンクの叫び」みたいだった。
「ゆ、ゆらさん!」
女性はこの屋敷の女主人ーーーゆらさんだった。着替えていないのだろう、昨日会った時と同じ白地の浴衣姿。だが、昨日はしとやかな印象だったその浴衣姿は、胸元がだらしなくはだけ、鎖骨や肋骨が弱々しく浮き出ていて、しとやかで艶っぽいというより惨めで哀れだった。
一晩で二十キロ近く痩せたのではないかという酷い風貌だった。よくよく見れば頬もげっそりと痩けている。はだけた裾から垣間見える脹ら脛や太股は枯れ枝のように細かった。
「ア、アアア、アアア……」
彼女は俺を見ると、おぼつかない足取りで駆けてきて、俺の足にすがりついた。
「た、たすけて。たすけてよぅ。あれが、あれがおかしいんだよぅ。きのうころしたのに。かみのけをぜんぶぬいてやったのに。しんぞうがとまってたのに。やっとだまったとおもったのにぃ。さっきからおかしいんだよぅ。いきかえったんだよぅ。へんなんだよぅ。こわいよぅ。たすけてよぅ……」
「ゆらさん!ちょっと落ち着いて!どうしたんですか!生き返ったって何ですか?ゆらさん!ゆらさんってば!」
ゆらさんの肩を掴み、ガクガク揺さぶる。だが彼女はぽかんとした表情のまま「こわいよぅ。こわいよぅ……」と呻くばかりである。マトモに話が通じる状態ではないようだ。
「止めとけ。無駄だよ」
見かねた姉さんが間に割って入ってきた。
「何聞いたって無駄だよ。こんな状態だもん。話が聞けないなら用はない。そこら辺に座らせときな」
「で、でも……ほっといたら可哀想だよ」
「お前は優しいから手を差し伸べたくなるのかもしれないけれどね。私に言わせれば自業自得だよ。素人がなりそこないに手を出すからこうなるんだ。知識や経験がないのに、猛獣を手懐けようとするのと一緒さ。頭をかち割られてからじゃ遅いんだぜ」
人が人のために出来ることは、実はかなり少ないんだよ。
「……助けられなくて、ごめん」
ぶつぶつと譫言のように呟くゆらさんを廊下の隅に座らせた。後で救急車を呼ぼう。
髪の毛が犇めく廊下を奥まで進み、昨日も入った部屋の前で立ち止まり、耳を澄ませる。呻き声や唸り声が聞こえない代わりに、「ピシャッ、ピシャッ」
と液体の零れる音と、鼻がもげるような嫌な臭いがしてくる。
カラリ、と引き戸を開けた。
「……っ、!」
汚い話だが、俺はしゃがみ込んで嘔吐した。それはまさに地獄絵図だった。
……部屋の中央にはごろりとマネキン人形が転がっていた。いや、あれはマネキン人形ではない。頭髪がないのと白過ぎる裸体は一見したところマネキン人形なのだが。顔中に寄った皺や、目鼻立ちは紛れもなく人間そのものである。
彼女は「なりそこない」と呼ばれるモノだ。山間の村には古くから伝わる神おろしという儀式がある。
これは生きている人間に神様を取り憑かせるといった憑依現象なのだが、かなり危険な行為なのだという。
神に憑依された人間は、ほぼ元には戻らない。大抵は精神が錯乱し、痴呆のようになる場合はまだいいほうで、体の一部がおかしな風に変形し、人とは思えない姿になり果てるケースもあるのだとか。
神になりそこない、人間に戻り損ねた人間は「なりそこない」と呼ばれ、人目につかないよう処分されるか、一生監禁された状態で死ぬまで生き続けなくてはならない。
ゆらさんは知人からなりそこないを買ったと言っていたが……俺達の目の前にいる女はまさしくそのなりそこないだった。彼女は異様なほど髪の毛の伸びるスピードが速く、けたたましい唸り声を上げる化け物とその身を窶していた。
だが。俺が嘔吐したのは、そんな彼女の姿を見たからではない。
彼女の体から出てきている何かを見て、思わず嘔吐してしまったのだ。
「…うっ、う、ぐっ……」
それは。
それは。
それは。
まるで「出産」の様子に近いものがあった。
なりそこないは仰向けに倒れ、足を大きく開いていた。その間から這い出るようにして、何かが出てきているのだ。
それはなりそこないにそっくりな、性別不能な人間ーーーいや、人間に似た何かだった。見えているのは上半身だけで、下半身はまだ出てきていない。そいつが這い出てこようともがく度、ピュッピュッと血生臭い液体が噴き出し、床を汚していく。屋敷中に漂う臭気は、とまうやらこれが元凶のようである。
ーなりそこないから、なりそこないが生まれたー
胃の中が空になるまで吐いても、気分は回復しなかった。既に胃液も出きり、仕方なく口の中の唾をこれでもかと吐き出した。
「……、何あれ」
口元を拭って呟く。姉さんは少しだけ眉をしかめていた。
「この人、なりそこないになる前は妊娠してたんだろうね」
それ以上の説明は聞きたくなかった。姉さんもそこで口を噤んで俺の背中をさすってくれた。
そいつはもがきながらも、だんだんと這い出てきた。髪の毛はなく、つるんとした頭部からは小さな指が数本生えている。本来、右腕がなくてはならない部分には、ひしゃげた茶色い足が……。パーツは確かに人間の物だが、おかしな箇所に接続されている。
生まれてくるなりそこないの腰の部分まで露わになった。それに比例して、じくじくと赤黒い染みが床に広がっていく。母体となりうるなりそこないは、死んでいるのか何一つ言葉を発さなかった。
その時である。生臭い臭気に混じって、どこからかガソリンの臭いがした。
「こわいよぅこわいよぅこわいよぅこわいよぅ……」
「ゆらさん!」
ボロボロと大粒の涙を流しながら、ゆらさんが戸口の前に立っていた。その手にはポリタンクを抱えている。
「なりそこないをころさなきゃなりそこないをころさなきゃなりそこないをころさなきゃなりそこないをころさなきゃなりそこないをころさなきゃなりそこないをころさなきゃ……」
彼女は袂からマッチを取り出した。火を点けたマッチ棒をポタリと床に落とすと、火は一瞬にして勢い良く燃え上がった。
「しねしねしねしねしねしねしね。おまえなんかしんじゃえおまえなんかしんじゃえおまえなんかしんじゃえおまえなんかしんじゃえおまえなんかしんじゃえおまえなんかしんじゃえおまえなんかしんじゃえおまえなんかしんじゃえおまえなんかしんじゃえおまえなんかしんじゃえ……」
荒れ狂う火の中で、ゆらさんは狂ったように笑い出した。背中を大きく反らせて高笑いし、そのまま火の海に目掛けてひっくり返った。火は容赦なく彼女をも包み込む。
「っ、ゆらさん……!ゆらさん!ゆらさん!」
「逃げるよ!」
姉さんが俺の手首を掴み、一目散に駆け出した。ゆらさんは屋敷中にガソリンを撒いていたらしく、あちらこちらから火の手が上がっている。俺達は廊下の縁側から飛び出した。
◎◎◎
パチパチと火がはぜる音がする。火は屋敷を舐め回すように、唸りを上げて盛んに燃えた。轟々と黒煙も天に向かって伸びている。
近所の住民が火事に気付いたのだろうか。遠くからサイレンが聞こえてくる。
「間一髪だったな。縁側があって助かったぜ。玄関まで逃げてたら、煙を吸ってアウトだったよ」
煤で少し黒くなった頬を手の甲で拭いながら姉さんが言う。因みに、俺達は屋敷の裏口から外へと出てきていた。あのまま現場に残っていたら、最悪放火を疑われていたかもしれないからだ。これ以上、面倒事に関わるのはごめんである。
「はあ……。死ぬかと思った……」
そう呟く俺は、一人では立ってもいられなかった。煙を大量に吸い込んだとか怪我をしたからというわけではなく、気力を使い果たしてしまったのだ。そんなわけで、今は姉さんに何故かお姫様抱っこをされている。
「姉さん……。運んでくれるのは凄く嬉しいんだけど……何でお姫様抱っこなの?」
「画的にいいじゃん」
「……運んで貰ってる身で非常に申し訳ないんだけれど、運ぶならせめておんぶにして貰えないかな」
男が女の子をお姫様抱っこするのは格好良いんだけどさ。女の子が男をお姫様抱っこしているのは、画的にまずいと思う。画的にまずいし、俺が恥ずかしいし。
「ぐったりしてる欧ちゃんかわいー♡うわぁ、苛めたい!縛り付けたいー!」
「姉さん、目が飢えた肉食獣みたいだよ……」
「私が鷹で、お前はさしずめ捕らわれた栗鼠ってとこかな」
「はは……」
「ところでさ」
姉さんはにこりと笑って足を止めた。やっぱり瞳孔が開いててコワヒ。俺はきゅうと首を竦めた。
「夜雀の本ーーー結局見つからなかったね」
その言葉にギクリとした。そういや、夜雀の本を取りに行くのが本来の目的であったはず。今頃は恐らく火に焼かれ、灰と化しているだろうな……。
焦臭い臭いがここまで漂ってきている。俺と姉さんはにっこりと微笑んでお互いを見つめ合っていた。姉さんは瞳孔を開きまくって微笑み、俺は顔から背中から冷や汗を流しまくりながら微笑んでいた。
「欧ちゃん」
「は、はひ。なんでさう……」
「このままラブホに直行の刑でいいかな♡」
姉さんは今までで一番優しい口調でそう言った。
作者まめのすけ。-2