しとしとと冷たい雨の振るなか、俺はKの家の前に立っていた。
あの日、危機一髪で標識女から逃れた俺は、これから先はそう上手くはいかないだろうとどこかで感じていた。
あのKが消えた日に一体何があったのか。
それを聞けば何かこの危険な現状を打開する方法が見つかるかもしれない。
そのために今こうやってKの家の前までやってきたのだ。
俺は一度深呼吸すると、意を決してインターホンのボタンを押した。
ピンポーン
・・・・・・・・・・
「・・・・・・はい。」
出たのは案の定Kのお母さんだった。
「あ、あの前にも伺った○○です。Kに会いたくて来たんですが・・」
「ごめんなさいね、今はまだ無理なの。」
前と全く同じ返答だった。
前回はここまでで諦めていた俺だったが、今回はそうはいかなかった。
「とても大事なことなんです。少しだけでもいいので、なんとかKに会わせていただけませんか。お願いします!」
俺はそう言ってカメラに向かって深く頭を下げた。
「・・・・・・・・・・」
やはりだめかと少し諦めかけたとき、
「・・・どうぞ。」
インターホンが切れ、しばらくしてガチャリと玄関の鍵の開く音が聞こえた。
予想外の出来事に俺はしばらくそのまま立っていたが、はっと我に帰り門を開けて玄関の方へと向かった。
玄関の前に着くと同時にKのお母さんが扉を開けて出てきた。
「どうぞ、上がってください。」
「お、おじゃまします。」
俺は少し緊張気味に会釈をすると、中に入った。
Kのお母さんに案内され、広い玄関を通り過ぎ居間へと入った。
「どうぞ、こんなのしか出せないけれど。」
ガラス板のテーブルの前に座っている俺に、お洒落なティーカップに入った紅茶を出してくれた。
「あ、すみません。いただきます。」
そう言ってゆっくりとティーカップを口へと運び、一口すすった。
なんとも言えない気まずい雰囲気が二人の間に流れる。
「あの子・・・」
最初に口を開いたのはKのお母さんだった。
「あの子、あの夜に家に帰ってきてからまるで人が変わったみたいになっちゃったわ。一日のほとんど部屋の中にこもりっぱなしで、出てくるときといったらトイレと食事の時だけで・・・。その肝心の食事もほとんど箸をつけないの。」
「・・・Kから何か聞いたりしませんでしたか?その夜のこととか。」
「それが何にも話さないのよ。普通の会話さえほとんどしようとしないわ。ずっと俯いたまま動こうとしないのよ。一度病院に連れて行こうとしたのだけれど、とても嫌がって・・・もう、私どうしたらいいのかわからなくなってしまって・・。」
そう話すKのお母さんの目には涙が浮かんでいた。
「・・・・・・あの、Kに会えませんか。」
Kのお母さんはしばらく考え込むと、ゆっくりと口を開いた。
「そうね、このままでいたって何も変わらないものね。あの子も友達に会えば少しは元気になるかもしれないわ。さっき玄関を上がったすぐのところに階段があったでしょう。そこを上って最初の部屋がKの部屋よ。鍵は付いていないから。」
「ありがとうございます。」
俺は飲みかけの紅茶をテーブルに残し、すぐに階段へと向かった。
玄関は二階の天井まで吹き抜けになっていて、その天井からはお洒落な照明がぶら下がっていた。
(Kの家、お金持ちなんだなぁ・・・)
そんな子供のようなことを思いながら、階段を一歩一歩ゆっくりと上る。
二階に上がると、すぐ目の前にドアが見えた。
「ここか・・よし。」
俺は一度立ち止まって一呼吸おくと、少し控え気味にドアをノックした。
コンコン・・・・・・・・・・・
中から返事は無い。
「おーいK、俺、○○だけど。少し話がしたいんだ。部屋に入ってもいいかな。」
・・・・・・・・・・・
やはり返事は返ってこなかった。
「入るぞー・・・」
俺はそう言うとゆっくりとノブを捻ってドアを開けた。
「うっ・・・」
中から漂う異臭に俺は思わず鼻を覆った。
何かが発酵したようなすえた臭いが部屋中に充満している。
カーテンは締め切られて部屋の中は薄暗く、空気もこもって埃っぽい。
窓から壁に視線を移して、俺は息を呑んだ。
壁一面がなにか文字のようなもので埋め尽くされているのだ。
『トマレトマレトマレトマレとまれトマレとまれトマレトマレとまれとまれトマレトマレトマレ・・・』
先のとがったペンか何かで力強く半ば彫られたかのように壁中に「止まれ」の文字が刻まれている。
ひらがなにカタカナ、大きな文字から点のように小さな文字まで、あらゆる「止まれ」が壁中に並んでいる。
そして壁の真ん中には大きな逆三角形が真っ赤な色で描かれていた。
まるであの標識のようだった。
Kは部屋の真ん中にうずくまっていた。
元は白かったであろう衣服は、黄色く変色していた。
この鼻をつくようなすえた臭いはこの服のせいだとすぐに分かった。
「お、おい、K・・・。」
おそるおそるKに呼びかけると、うずくまっていたKの肩がピクリと震えた。
ゆっくりとKが顔を上げる。
その顔に俺はその場に固まった。
俺に向けられたKの顔は、ガムテープでぐるぐるに巻かれていた。
口の部分意外すべてがガムテープに覆い尽くされている。
ガムテープの隙間から覗いた口から、今のKが全くの無表情だということが分かった。
「おぉ、○○じゃんか。久しぶり。」
突然Kがいつもと変わらぬ声の調子で俺に話しかけてきた。
ガムテープから覗くKの口がニッと笑った。
目も鼻も見えないその顔に映える白い歯が、むしろ不気味だった。
「お、お前・・なんだよその顔。」
俺は震える声でKに問いかけた。
「ね、閉めてよドア。」
Kが笑ったまま言った。
「あ、あぁごめん。」
俺は慌てて自分の後ろのドアを閉めた。
「ここ、ここ座りなよ。」
Kがそう言ってKの目の前の床を指差した。
俺は拭いきれない警戒心をなるべく表に出さないようにしながらゆっくりとKの前に座った。
「K、今まで・・・何してたんだ?」
「あーやばいやばい。」
「Kさ、あの夜・・・何があった?」
「あたっちゃうよ、。」
「おい、真面目に答えてくれよ。」
「ねぇ見える?見えてる?」
全くKと会話が噛み合わない。
真剣に質問を投げかける自分と反対に、まるでわけの分からないことを返してくるKに対して、だんだんとイライラがつのっていく。
「頼む、あの時何があったか思い出せる範囲だけでも教えてくれ。」
「ブゥウゥ・・・ブオオオオオオン・・」
終いには車のエンジン音のような真似をし出したKに、俺は思わず怒鳴り声をあげた。
「おいKってば!!!」
瞬間、Kの声がぴたりと止む。
張り詰めた空気の中、Kがぼそりと呟いた。
「・・・・・・・・・・・・・・トマレ」
「え?」
「トマレトマレトマレトマレトマレトマレトマレ・・・・」
Kの声がだんだんと大きくなる。
「お、おい、どうし・・」
「止まれよおおおぉぉああああぁぁぁぁ!!!!」
その瞬間、Kが耳をつんざくような大声で叫んだかと思うと、物凄い速さで俺の首に掴みかかった。
「ぐっ・・・」
パツンッーーーー
何かが頭の中で切れる感覚と共に、俺の視界が真っ白になった。
真っ白な意識の奥に、雨の振る音と、青い何かを見た。
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ブオォォォ・・・
強い雨が降りつける山道を、一台の青いスポーツカーがエンジン音をとどろかせながら走っていた。
「すごい雨だね・・」
助手席に座った女性が窓の外を見つめながら呟いた。
「確かに。せっかくのドライブもこの雨じゃ台無しだな。」
車を運転する男性が苦笑いで答えた。
「どんどん上ってくけど、山の上に何があるの?」
「すっごい綺麗な夜景が見えるとこがあるんだよ。この調子じゃ見られないかも知れないけど。」
「そうなんだ!すごく見たいけどこの雨じゃ見えないでしょ。あはは・・・」
「まだ分かんないよ?もしかしたら山頂に着く頃には晴れてるかもじゃん!な。」
「ほーんといっつも前向きだよね、直樹は。」
「こんな俺に触発されて綾子もそろそろ前向きになったらいいじゃん。」
「余計なお世話ですぅ、どうせ私はネガティブですよー。」
「あははは、冗談だって冗談。」
他愛も無い会話をしながら車はどんどん山を登っていく。
そんな楽しそうな二人とは裏腹に、雨は強さを増していった。
「ほらぁ、これじゃ晴れるわけないって。それでもまだ上るの?」
「どうしても見せたいんだよ。ダメもとで行こうぜ!」
そう言って直樹が綾子に向かって笑いかけたその時、
「直樹まえ!!!!!」
「うわっ!」
目の前に突然飛び出した何かに、直樹は思い切りハンドルを切った。
濡れた地面でコントロールを失った車がふわりと宙に浮く。
凄まじい衝撃と共に車が横転した。
ガンッガシャンガシャンガシャンッ!
そのあまりの衝撃に二人は外に投げ出された。
横転した車は、そのままガードレールを突き破り、急な斜面を転がり落ちていった。
「うぅ・・・う・・」
先に起き上がったのは綾子だった。
割れた車の窓ガラスの破片がそこら中に散らばっている。
さっきの衝撃のせいで耳鳴りが収まらない。
自分の目の前を、さっき飛び出してきたのであろう狸の親子が走り抜けていった。
「いっ・・・切れてる・・・」
立ち上がろうと力を入れた足には、ガラスで切ったであろう大きな傷がついていた。
痛みに顔を歪めながら綾子は辺りを見回した。
「・・・直樹!!」
自分から10メートルほど離れた先に、直樹がうつ伏せで倒れているのが見えた。
痛む足を引きずりながら直樹に走りよる。
「直樹!ねぇ直樹大丈夫!?」
一生懸命ゆするが、直樹はうつ伏せのままピクリとも動かなかった。
「ねぇ直樹って・・・・ば。」
直樹の腹部に触る自分の手に感じた生暖かい感触に綾子はそっと掌を返した。
掌全体が真っ赤に染まっていた。
はっと倒れる直樹の腹部に視線を向ける。
直樹の脇腹には青い大きな車の破片が深く突き刺さっていた。
「いやだ!!直樹だめ!死んじゃだめ!!お願い目を開けて!直樹ぃ!!」
雨に濡れたアスファルトに赤黒い直樹の血液が滲んでいく。
「直樹!!起きて!直樹ぃ!」
涙と雨で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら綾子は必死で動かない直樹の名前を叫んだ。
「う・・・・・綾・・子・・」
「直樹!!!」
かすれた声と共に、直樹がゆっくりと目を開けた。
「直樹!大丈夫!私が、私が助けるから!」
「お前は・・・綾子は大丈夫なのか・・」
「私はなんとも無いから!だからあと少し頑張って!ね!」
綾子は泣きながら直樹の手を握り締めた。
助ける、助けるとはいっても携帯は車と一緒に落ちていってしまった。
綾子は必死で直樹の体を持ち上げようとした。
しかし華奢な自分の体では、直樹の体を数センチ移動させることすらできない。
むしろ無理やり動かそうとして、直樹は苦痛に顔を歪める。
どうしよう・・・どうしよう・・・
途方に暮れていたその時、
ゴオオオオオォォォ
後方からエンジンの音が聞こえてきた。
はっと顔を向けると、向こうからヘッドライトの黄色い光が近付いてくる。
一台の大型トラックだった。
「お願い!!助けてぇ!!!」
綾子は大声で叫ぶと必死でトラックに向かって手を振った。
ゴオオオオオォォォ
土砂降りの雨で前があまり見えていないのか、トラックがスピードを下げる様子は無い。
直樹が倒れているのは道のど真ん中、このままトラックがここを通過すると直樹が引かれてしまう。
何がなんでも絶対にトラックを止めなければならなかった。
「お願い!!気づいてぇ!止まってぇぇぇ!!!」
そんな綾子を嘲笑うかのように雨はどんどんと強さを増していく。
ゴオオオオオォォォ
トラックは轟音を響かせながらこちらに迫ってくる。
見えてないの・・・このままじゃ、このままじゃ直樹に当たっちゃうよ・・。
綾子は千切れんばかりに両腕を振って声を張り上げた。
「お願いとまって・・・とまれとまれ、止まれぇぇぇぇぇ!!!!」
綾子の声を掻き消すように、空に雷鳴が轟いた。
次の瞬間、綾子の体は宙を舞っていた。
骨のひしゃげるような衝撃が全身を襲う。
ゆっくりと景色が流れていく。空から落ちる雨粒が見える。
まるで全てがスローモーションのように綾子の体は地面へと落ちていった。
地に体が触れると同時に時の早さが元に戻り、そのままゴロゴロと地面に転がった。
キキィィィィィ!!!
遅れてトラックのブレーキを踏む音が後ろから聞こえる。
バンッ!
トラックの扉が開く音と共に中から男性の運転手が慌てた様子で飛び出してきた。
「あぁ、やっちまった・・・」
運転手は震える声でそう呟くと、ゆっくりと後ずさりした。
綾子は軋む腕を精一杯運転手のほうへと伸ばした。
「助けて。」
そう叫んだつもりが、つぶれた喉からはかすれた息の音しか出てこない。
「あぁ・・うぁ・・」
運転手は放心したように声を漏らしながら、さらに後ずさると次の瞬間、トラックに飛び乗り物凄いスピードで走り去っていった。
エンジンの音がだんだんと遠くなり、土砂降りの雨の音だけがその場に響いた。
「うぐっ・・うぅ・・」
体のいたる所が酷く痛む。
朦朧とする意識で目線を道路に移すと、
雨に滲んだ血溜りの中、無残な姿で転がる直樹を見た。
「嫌、嫌ぁ・・・直樹、直樹・・・」
かすれる声で彼の名を呼んだ。
頭から流れる血が目に入り、綾子の視界を赤く染めた。
「直樹、直樹ぃ・・・」
叩きつけるような雨のなか、綾子は直樹の名前を呼び続けた。
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はっと目を覚ますと、Kが俺の顔を覗き込んでいた。
その顔に、さっきまで巻かれていたはずのガムテープはなかった。
「お、俺は・・」
「大丈夫?ずっと意識失ってたけど。」
Kがいつもの調子で尋ねた。
「大丈夫かって、お前が俺の首絞めてきたんだろうがよ!」
俺はそう言ってその場に起き上がった。
Kはまるでそんな記憶は無いというようにきょとんとした顔でその場に座っている。
「俺、そんなことしてないよ。」
「したんだよ・・・覚えてねぇならいいよもう。」
そんなことよりも、ついさっきまで見ていた夢が気になってしょうがなかった。
あれを夢と呼んでいいのだろうか。
あまりにリアルだった。
あの綾子という女性・・・あの人は一体・・・。
色々なことを考えていると、ふいにKが口を開いた。
「綾子さん、かわいそうだな。」
「お、お前もあの夢見たのかよ!!」
俺は驚いたようにKの肩を掴んだ。
「よく覚えてないけど、うん。」
Kは俺よりも前にあの出来事を知っていたのだろうか。
「それよりさ・・・」
またKが口を開いた。
「なんかお腹すいた。」
さっきまでの異様な雰囲気はどこへいってしまったのだろうか。
目の前で話すKは、頬がこけて顔色が悪い以外はすっかり今まで通りのKだった。
「なんか食べるもの持ってこようか。」
Kがその場に立ち上がりながら俺に向かって尋ねた。
「い、いや、俺はいい・・・」
少し控えめに俺は笑ったが、その顔はきっと引きつっていただろう。
「そか、じゃあ俺なんか自分のとってくるわ。」
「お、おう。」
Kはそう言うと部屋を出て行った。
俺は静かに部屋を見回した。
相変わらずあの鼻をつくような臭いは部屋の中を漂っていた。
俺はゆっくりと腰を上げると、おもむろに壁に近付いた。
所狭しと並ぶ「止まれ」の文字。
Kのこれまでの異常さが、一目でわかる。
壁に描かれた赤い逆三角形はまるで血のように赤かった。
「ん?」
その下に、明らかに「止まれ」ではない文字を見つける。
目を細めて、壁に顔を近付ける。
どうやら名前のようだった。
『山本義文』
その文字の上には、これでもかというくらい強い力で引っかき傷がついていた。
「この名前って・・・・・」
その時、
ドォォォォン!!!!
下の階から、地面を震わすほどの物凄い音が響いた。
あまりの音に俺はその場から動けなかった。
「イヤアアアアァァァァァァァァ!!!」
数秒後、Kのお母さんのけたたましい悲鳴がこだました。
俺は慌ててKの部屋を飛び出すと、二階の手すりから下の階を見下ろした。
あまりの衝撃に目を見開いた。
「Kに、家の子になにしたのよぉぉぉぉぉぉ!!!!」
泣き叫ぶKのお母さんのすぐ近くには、無残な姿のKが転がっていた。
うつ伏せに倒れ、腕や足は折れ曲がり、それぞれがありえない方向を向いていた。
うつ伏せのはずなのに、Kの首はねじれ、二階の俺を見上げていた。
一目で首が折れているのだとわかった。
ぱっくりとスイカのように割れた頭から溢れ出す真っ赤な血が、Kの頭の輪郭をなぞるように床に広がっていく。
あの夢で見た直樹という男性の姿がKに重なる。
俺はKと目が合ったまま、動くことができなかった。
Kの顔は、笑っていた。
「いやぁ、いやぁぁぁぁ!」
Kのお母さんの泣き叫ぶ声が意識の遠くで響く。
Kが、死んだ・・・。
俺はごくりと唾を飲んだ。
二階の天窓から差し込む太陽の光が、Kの周りに広がる赤い血潮をキラキラと照らしていた。
作者籠月
こんにちは、籠月です。
久しぶりの標識女の続き、第三弾になります。
前作がまだの方は、そちらから読んでいただけると嬉しいです。
今回は怖さはさほどないです。怖いのを期待されていた人はごめんなさい(汗)
次回はだいぶ話も進展し、また怖さも戻ってくると思います。たぶん・・・
K、ごめんよ・・・。
誤字、脱字等ありましたら遠慮なくご指摘ください。