wallpaper:742
いいかい、昔話ってのは、あってもなくても、あったことにして、聞かないとならない、だから、昔々、で始まって、だとさ。で終わるんだよ。
半分、夢の中を生きていた母親の口ぐせだった。怖かったら目を瞑ってごらん。そういうのも忘れない。
俺は電車に揺られながら窓の向こうの闇夜を見つめた。
「先輩、次みたい」
「え、ああ」
一個下の小夜子と付き合いだしてから、やけに思い出す。
多分、初めて寝た時に目を瞑ってと言われたからじゃないかと思う。真っ白な陶器仕立ての肌、唇や乳首のピンク。赤く艶かしい舌が俺にまとわりついた。
小夜子の前髪を撫でた。遺伝のせいだという深緑の右目に俺が映った。
大学入試で一緒だった同じ高校の奴に誘われた合コンで初めて小夜子に会った。もう六年前の話だ。付き合いだしたのは半年前だが。
小夜子を家族に紹介する。それが小夜子を嫁に迎える儀式だと分かっていても、気が重いのは変わりなかった。二度と帰らないと決めていたのに。死んだ母親の枷カセはまだ足首にがっちり巻かれている。なんとか小夜子に説明し、正直、何があるかも分からないと伝えた。
大丈夫、怖かったら目を瞑って。
小夜子はそう言って俺を抱き締めた。
父親に電話をすると、そうか。と言っていた。
小さな駅は変わりなかった。ああ、こんな駅だったなと思った。闇夜に闇夜を重ねたくらい、真っ暗だった。海の音が響くなか、クラクションが鳴る。妹だった。
「兄貴、お帰り」
「希沙、悪いな」
逃げたこと、帰らなかったこと。希沙は小夜子に頭を下げて、中へ促した。車は闇夜を切り裂くように進んでいく。
「親父は?」
「普通」
夢の中を生きていた母親を殺した父親。今だったら潜れなかったであろう、精神鑑定を抜け、無罪放免。きっと父親も母親とは違う夢の中を生きているんだろう。全てを希沙に押し付けてのうのうと暮らしてきた。
殺人者の子供。
死体の子供。
家族で笑ったことなんてあっただろうか。
見えない足元から母親がしがみついて、這い上がってくる。血だらけで砕けた頭を持ち上げて。
怖かったら目を瞑って。
怖かったら目を瞑って。
出来なかった。眠ることも瞬きでさえ、恐怖が付きまとう。
.
作者退会会員