安立商店街を抜けて、紀州街道を南下すると、堺市との境目の大和川に、大和橋がかかっている。
私は大阪市内から、かん袋のくるみ餅を食べるため、自転車でこの橋を渡ることが多かった。
自転車だと交通費が浮くので、普通のくるみ餅と氷くるみ餅を注文するのが常だった。
近くには開口神社(大寺さん)と馴染み深い大寺餅、熊野街道沿いの八百源の肉桂餅、小島屋の芥子餅など、茶の湯の伝統深い堺市らしく、美味しい和菓子の店が多い。
少し足を伸ばして、諏訪ノ森の梅寿堂や三国ヶ丘の宝船(と書いてほうせんと読む)茶道の主菓子の店に行く事もあった。
浪速区から住吉大社に参拝した帰りに行くという、随分無理のある言い分である。
でも最近めっきりこのルートを使わない。
堺市にあまり出向かなくなったためである。
ある日のこと、行きつけの屋台村系で、妙な事を言う奴がいた。
大和橋に首吊りの幽霊が出るので、夜は渡るのが怖いらしい。
「いやあ、あそこは怖いですよ。堺のクライアントさんのシステムトラブルの補修に行ったとき見てしまったんです」
赤ら顔のぽっちゃりメガネ、牧野井真作という、そいつはかまって系のオッさん、自称霊感持ちで、霊が見えると言い、道を歩く時や自転車走行の際に急に何かを避ける仕草をしたりする。
本当に見えているのか、いないのかは知らない。
でも少し鬱陶しい。
此奴があまり言うもので、私は久々、自転車で、単独で深夜に境に向かった。
行き先は、頓宮の向かいにある宿院のコンビニである。
無論、コーヒーサーバが、向かって左がR、右がLの……コンビニである。
敢えて例のオッさんと同行しなかったのは、此奴の事を信じていなかった為である。
虚言癖と霊感持ちは紙一重だが、殆どの霊感持ちは語らない。
痛い目に遭ってるからね。
それから……。
大和橋に首吊りの幽霊が出るので、夜は渡るのが怖いらしい。
という言葉。
多分これが此奴の馬脚である。
これは有り得ない情報である。
もしくは極めて特殊な情報である。
あいりん地区周辺を避けて、堺筋が終わる辺りから、紀州街道に入る。
手入れの悪いママチャリは、音を軋ませて走る。
真の闇などは何処にもない夜である。
言い換えればずっと黄昏時、延長された逢魔が時が朝まで続くのが、二十一世紀の都市である。
想念のみの存在が劣化して、他の干渉により変質した、記憶の肖像と言うべき残存想念、いわゆる妖怪が無数に道に立っている。実体のない情報である。
どのような霊能者であっても、チャンネルの合わない物とのエンカウンターは有り得ない。
大和橋の首吊り幽霊が途轍もないものであるか?
「大将、どうした?」
いきなり声をかけてきた者がいる。見ると顔見知りである。他の霊を取り込んでぞ強大化する邪鬼霊、実体化すら可能な霊体で、取り殺して食らった人間や動物に成りすまして現世で生活することもある厄介者。殆んどの霊能者は対処出来ない。そんな身の程知らずの末路は嫌という程見せられたものである。
取り込まれた者は永遠に浮かばない存在になる。
彼の姿は絵に描いたような定番の赤鬼である。
「今から宿院のコンビニへ行く」
と答える。
「なんだそりゃ。大将とこは近くに
ミニストップ二軒・ローソン四軒・ローソン100二軒・セブンイレブン三軒・サンクス一軒・それに新しくできたサークルK一軒、ってすげー密集いうか
混戦地域だろ?
浮遊霊、地縛霊、餓鬼霊掻き分けて、百円コーヒ一杯だけ買いに頓宮の向かいに行くんかい?」
さもおかしそうに言う。
「期間限定で指定のサンドイッチとかドッグと一緒だと20円引きのキャンペーンやってるよ」
邪鬼霊は大笑いして、
「ああ面しれえ、牧野井のオッさんに踊らされてご苦労様なこった。サラダドッグとエッグドッグ、それにホットとアイス各100円で40円引きか?405円で大散財か」
言いたい放題である。
「じゃな、行ってくるわ。あゝ面倒くっせ」
「頑張れよ。霰松原気を付けてな!」
あんまり干渉されると取り殺される相手である。かと言って此奴のようにシカトしたら命取りの輩がまだまだたむろしている。
幸いこの辺りには高層建築物が少ない。ダイブしてくる奴が少ないのがせめてもの救い、相手は自動再生ビデオみたいなものである。でも、地面に激突した瞬間のイメージは、慣れないもんだ。住吉大社も過ぎて、霰松原の所も過ぎ、商店街を通り抜けて、坂道を息を切らしつつ登った先は大和橋である。ここを越えても、今は丑三つ時、この先には、くるみ餅も、芥子餅も、肉桂餅もない。自分へのご褒美は……ドッグとコーヒかよ。
橋には餓鬼霊、そう普通に地縛霊や浮遊霊がいるだけである。
ここまで来るのにあれだけインパクトのある連中がいるのに、牧野井のオッさん、なんでそれに反応しないんだ?
彼奴まさか私に罠を仕掛けた?
一瞬の疑念である。
私は入念に橋をチェックして行く。
あゝ、ここだ。
4本の橋の支柱の内、南側の橋脚の川上の手すりに結びつけられたロープ発見、現ではない幻影とは知りつつも、橋を渡り切りぶら下がっているものをチェックする。
ビジョンは男の縊死した死骸、しかも此奴……牧野井のオッさん。赤ら顔がうっ血して褐色めいた色になっていて目は見開かれ舌を出している。
やっぱりな……。
黄昏状態でも夜である、この距離からそんなに細かい所まで分かる筈がない。
「いやあもう気付いた?そりゃまぼろしだよ。大将♡」
此奴か、此奴は先ほどの奴だ。
私は訊いてみた。
「あんた、此奴食ったの?」
「おおさ、それがどうした?」
「腹痛起こさなかった?こんなゴミ食ったら叱られるよ。それに」
「なんだ?」
「あんたの目論見じゃ、此奴がぶら下がるのはまだまだ先の話だ。そして、目論見通りに行かないのが世の中ってな」
「なんだよ。大将、あんた冥界の理くらいご存知でしょう?
鬼は人を喰らうもの。人は鬼に喰らわれるもの」
「そうかい?その先の食物連鎖って思いあたりはしませんか?」
「ああ?てめえ、て……」
「そう、天刑星を招聘して、天網を張ってある。逃げても、もう手遅れだよ」
そして、私が対峙しているのは邪鬼霊、赤鬼一匹、その両足を掴む天刑星の巨大な手は、私には見えない。ガシッという音と鬼の叫び声が私の耳をつんざいた。天刑星の撥遣と天網の撤去までは、私はもう何もすることはない。鬼の右腕は、鎖骨から食いちぎられて、くちゃくちゃ咀嚼する音がきこえる。そして次は左手が消えて、血が吹き出している。
そして苦悶の表情の頭部が胸のあたりから消えるしばらくの間に鬼は食い尽くされてしまった。
牧野井のオッさんはどうなったかは後日知れる事になる。
静かになった。
作法通りに撥遣を済ませた私は、
虫の音をしばらく聴いていた。
秋の気配が私を包み込んでいる。
私は宿院のコンビニまで自転車を走らせた。さっきの光景を見て思った、エッグドッグやサラダドッグより肉気が食べたくなった。
あくる日、寝不足の私は、仕事帰り例の屋台村系に行くと、案の定オッさんは来ていない。まあどうでもいい話である。
そして二週間位、ここに来る機会がなかった。久々訪れて、奥のラーメン屋に行こうとしたら、オッさん行きつけの焼き鳥のマスターに呼び止められて、牧野井のオッさんの末路を聞かされた。
牧野井のオッさんは十日ほど前に死亡していた。発見されたのは二日前、司法解剖の結果は、心筋梗塞だったらしい。
オッさんとマスターの関係はわからない。普通、客の消息などわかるのか?
そうは思ったが、考えるのが面倒になったので、焼豚多目の焼豚麺を啜りながら危うくナルコレプシーの発作に襲われそうになるのを必死で堪えていた。
作者純賢庵
創作怪談実話風です。秋の夜長、気楽にお読みくださいませ。