とある田舎町にある小学校がある。全校生徒がおよそ五十人弱という、小さな学校だ。ただし、その歴史は古く、今年で創立百週年を迎えるらしい。
その小学校には、今でこそあまり聞かれないが、警備員を長く勤める初老の男性がいた。仮に名前を保坂さんとする。
この道一筋で勤続三十年。温厚で、人柄も良く、職員や児童からの支持も熱かった。根っからの仕事人間で、この年まで独身だと豪語しているため、皆からの笑いを誘っていた。
そんな保坂さんの仕事といえば、昼間は鶏小屋や兎小屋の補強や修繕、校庭の草取り、花壇の手入れなど。そして日がどっぷり暮れる頃合いになると、懐中電灯を片手に薄暗い校舎を見て回るのだ。
この小学校は建て増し工事はしているものの、造りはおよそ昔のままである。理科室や家庭科室がある第二校舎は未だに木造で、昼間でも薄暗く、気味が悪い。長く勤める職員でさえ、第二校舎は一人では歩き回りたくない場所だとこぼすくらいだ。
だが、保坂さんは違った。彼は現実主義で、自分が見たこと、聞いたことしか信用出来なかったし、幽霊だの妖怪だのは空想の類に過ぎないと思っていたからだ。それに校舎内の見回りは、自分が赴任した時からずっと続けてきた仕事である。慣れているというより、それが日常的なものと化しており、生活の一部になっていた。
ある夏の日。この日も保坂さんは一人、校舎内を一人で見回っていた。児童は勿論、職員も全員帰宅しており、校舎内にいるのは保坂さんだけである。
第一校舎の見回りを終えた保坂さんは、渡り廊下を過ぎ、第二校舎へと向かった。理科室、理科準備室、家庭科室……と通り過ぎ、次は音楽室がある二階へと向かうため、階段を上がろうとした。
「……おや?」
懐中電灯で階段を照らす。そこには誰かがいた。
長身で黒っぽいスーツを着た……男性とおぼしき誰か。「それ」は保坂さんに背中を向けた形で階段の一番上の段に立っていた。身じろぎ一つせず、背筋は真っ直ぐ伸びている。
「あのー、もしもし。忘れ物か何かですかね?」
保坂さんは職員の誰かだと思い、声を掛けた。しかし返事はない。
「あのう、ちょっと。加賀先生……嗚呼、違うか。酒井先生ですかね?こんな時間帯にどうしたんですか」
再度声を掛けたが、やはり返事はない。それに今は夏だというのに、「それ」は暑苦しそうなスーツ姿だった。保坂さんの中でぐるぐると疑念が渦巻いていく。
ーーーもしかしたら学校荒らしか何かか。変わり種の変質者なのかもしれない。
保坂さんの動悸は一気に早まった。「おい、あんた!」と語気を荒げつつ、階段を駆け上がろうと足を踏み出したーーーが。
動けない。小指一つ動かせない。声も出せなければ、瞬きすら出来ない。所謂「金縛り」状態である。
勿論、保坂さんは金縛りに遭ったことなどただの一度もない。自分が置かれている状況がまるで理解出来ず、口から泡を吹きそうになった。すると……。
カツン。
「それ」は後ろ向きのまま、器用に一段階段を下りた。勿体ぶるように、えらく緩慢な動きだ。
カツン。
続いてもう一段。保坂さんは目を白黒させて、その様子を見ているしかなかった。
カツン。
嫌だ。嫌だ。得体の知れない恐怖が全身を駆け巡る。何だか分からないものへの恐怖心というのは想像を絶するものがあった。
カツン。
嫌だ。嫌だ。止めろ。
カツン。
止めろ。止めろ。止めろ。下りてくるな。
カツン。
来るな。嫌だ。くるな。来るなよ。
カツン。
嗚呼、嗚呼、また来た。近い近い……。
カツン。
嫌だ。嫌だ。この階段は何段あった?
カツン。
十二?一四?今、何段下りてきた……?
カツン。
……靴の音、さっきより大きくなってないか?
その通りだった。一段一段と階段を下るごとに、「カツン」と高らかに響く靴音は大きくなってくる。それは単に距離が近付いたせいだというわけではなく、「それ」がわざと大きく靴音を鳴らしているようにも思えた。
カツン。
うわぁ。うわぁぁ。来た、来た、来たぞ……
カツン。
カツン。
カツン。
カ ツ ン
いよいよ「それ」は階段を下り切った。保坂さんの目の前まで来た時、「それ」の靴音は鼓膜が破れてしまうのではないかというくらい大きいものだった。
「それ」はゆっくりと振り向いた。保坂さんと「それ」は目が合った。
保坂さんはそれっきり気絶した。
翌日。出勤してきた職員に発見され、保坂さんは病院に搬送された。幸い命に別状はなく、本人も割と落ち着いているふうだった。
保坂さんは付き添いしていた職員に、ポツリポツリと昨夜の体験談を話した。職員は最初は半信半疑だったが、彼が嘘をつくような人間ではないと知っていたので、真剣に話を聞いた。たが、確かに歴史ある小学校とはいえ、そんな奇怪なモノの話は聞いたことがない。きっと疲れて幻でも見たのだと説得したが、保坂さんは首を振った。
「見間違いでも何でもありません。だって私はこの目で見たんですから。確かに見たんですよ。私は自分が見たことや聞いたことしか信用しないんです。それにそいつとは目まで合ってるんですよ……」
「では、どんな顔をしてたんです?」
「…………」
保坂さんはその質問にはすぐに答えなかった。しばらく黙り込んでいたが、やがて蚊の消え入るような声で呟いた。
「それだけは聞かないで下さい。もう思い出したくないんです」
やがて退院した保坂さんは、学校を辞めた。結局、あの事件の後、保坂さんは学校に姿を現すことはなかった。辞職願と書かれた封筒が学校宛てに投函されており、それによると学校に残したままの彼の私物なども、そちらで処分してほしいと切々に書き綴ってあった。
びっしりと細かい字が書かれた便箋の最後の行には、「かおが かおが かおが かおが」と書かれてあったという。
その後、保坂さんがどうなったのかは不明である。東北の実家に戻ったのだという噂があるが、真偽のほどは分からない。
あの小学校は、来年度には廃校になることが確定したそうだ。
作者まめのすけ。-2