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「変な話しって言ってもなぁ」
長門さんはちょろりと伸びた顎の無精髭を音をたてて擦った。
彼は東北にある寺の次男で、今は横浜で不動産の建売営業をしている。
「なんかあるでしょう……」
「ああ……叱の話がひとつあった」
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彼の実家は山奥の集落にあった。
「古い寺でな、もう本堂の天上なんか雨漏りで染みちゃってべろべろ。今は兄貴が継いでるんだけれど、檀家は減るし、オヤジの頃より厳しいんじゃないかなぁ………」
それでも彼の幼い頃はそれなりに檀家の人を集めての法話会や褝の初歩などもしていた。
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「あれは俺が小学校の五年のとき」
東京から帰省している家族の子供が行方不明になった。
「荒物屋の息子さんの一人娘で八つの子。蝉獲りに行った兄貴の後ろをちょっと遅れてついてったのが迷ったらしい」
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夕方になって実家周りの親戚の子供とだけ戻ってきた兄に家人が妹の事を訊ね、行き会ってないという事が知れて大騒ぎになった。
夜中じゅう村人総出で山狩りしたが判らず、
翌日になって森奥の淵に浮いているのが発見された。
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「どうも道途中の二またを兄とは反対に行ってしまったらしいんだ。あちら側は行きは明るいけど、すぐ樹が混んできて慣れない者だと方向を見失う」
妹さんは間違った道を進み、結果…生い茂る雑草で隠れた淵に足を滑らせてしまった事故というのが警察の調べであった。
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「もうお母さんなんか気が違ってしまったようになってな………」
その夜、通夜が行われた。
「うちの方では本当に通夜は通夜なんだ。夕方から明け方まで客がいるの。それで通夜が始まってすぐ……」
はじめ、それに気づいたのは手伝いの主婦だった。
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亡くなった娘さんは実家の奥座敷に蒲団で安置されていた。
その蒲団の端が光っている。
「なんまんだぶなんまんだぶ……」
主婦は小さな遺体に手を合わせ、蒲団を捲ってみた。
すると経帷子が所々赤く濡れていた。
血であった。
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主婦はすぐ台所に集まっている仲間に伝え、それをまた聞きした母親が父親が止めるのも振り払い、
寝込んでいた蒲団を蹴り払って娘の元へと駆け込んだ。
「あぁ~あぁ。痛い痛い、ちーちゃん。苦しかった苦しかったねぇ」
嗚咽の様に細く糸を引きながら娘に問いかける彼女の声が響いた。
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母親は柔らかなハンカチを用意すると娘の血を拭きはじめた。
「ちーちゃん。ごめんね。ごめん。ごめんね、かあさんが悪かったねぇ。ごめんね。」
何度も何度も拭き続けるのだか血は止まらなかった。
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「だけど外傷はないんだよ。完全な溺死だったからね。お尻なんかには当然、詰め物がしてあるしさ……。もちろん後で聞いた話なんだけど葬儀屋も初めてだって吃驚してたらしい。死ぬと普通血は新たな傷でも付けない限り出ないし、付けたとしても溢れ出すほど出血する筈がないんだと……心臓止まってしまってるからね」
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血は蒲団を湿らせるほど続いた。
用意したハンカチはすぐ底を尽き、代わりにタオルやサラシが用意された。
母親は謝りながら一心不乱に拭き続けたのだが午前二時を回った頃、心労の余り昏倒してしまった。
別室に母親が運び込まれると代わりに俺が拭くと言い出した父親に落ち着くように仲間が言い、家内は一時静まった。
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娘は一人になり、その傍らには血を吸った布の山が残された。
奇妙な悲鳴が響いたのはそれから間もなくの事だった。
身を捩るような気味の悪い声は娘の安置された部屋からしていた。
皆が部屋に駆け込むと、ハッポウというあだ名の若者が襖に身を押し付けバリバリと指で紙を掻き破っている。
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目を娘の遺体に釘付けにしたまま。襖の奥へ奥へと逃げ込もうとするかのように必死の形相であった。
「おい!しっかりしろ!おい!」
仲間が声をかけてもハッポウは気づく風もない。
ただ呻きともつかぬ音を発しながら青白い顔で目を血走らせ、もがいていた。
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「おい、あれなんだ」
中の一人が叫んだ。
娘の蒲団が捲れ、その肩口に針のような物が突き立っていた。
かんざしだった。
「これはちひろに婆さんがやったもんだ。どうしてここにあるんだ!」
お父さんはそう一喝すると、錯乱しているのも構わずハッポウの横っ面を音がするほど張り倒した。
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はっと息をついて我に返ったハッポウは、周囲の気配に気づくとワッとその場に泣き伏した。
「ハッポウってのは遊び人でな。おふくろに畑を任せっぱなしで、いっつもほっつき歩いているような奴だったんだが、あの日、あの子に森で会ったんだ」
ハッポウによると女の子は家に戻りたいとべそを掻きながら歩いていたという。
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パッと見で東京者だと見て取った彼は彼女に二またの道を指し示した。
嘘の道である。
彼は女の子が悪路ヘ進むのを見届けてから足元に落ちていたかんざしに気づき拾った。
「奴はそれを返そうとやってきてたんだ。それで色々な騒ぎが収まったのを見計らって部屋に忍び込んだ」
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娘の傍らにかんざしを置き、軽く一瞬手を合わせたハッポウが目を開けると、娘が睨んで笑っていたという。
「それで首にかじりついてきたって言うんだ」
ハッポウはその後、村を捨て今は何処でどうしているのか誰にも判らないという。
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「俺らの村ではそういうのを叱って呼んでたんだ。叱られた者は必ず報いを受ける。ハッポウはもうこの世にはいないだろう………皆そう言ってる」
長門さんは静かにそう呟いた。
作者メリーさん