とある社長夫人の話。
その女性は仮にОさんとする。彼女は三十歳半で、大手企業の社長と結婚した。いわゆる社長夫人である。
社長夫人と聞くと、どうもお高くとまったイメージがあるのは否めない。目玉の飛び出るような高い洋服や宝石、アクセサリーに外車、ブランドもののバックに靴……己を飾り付けるだけに金を使いまくる、といった負のイメージを抱く人も少なくはないだろう。
だが。Оさんは慎ましやかな家庭に育ったためか、あまり高額な買い物はしないようだった。社長を務めるご主人からプレゼントされる物なら一応は受け取るが、自分からお金をはたいて贅沢することはないようだった。
「Оさんって謙虚な方よね。お金の使い方が分からないのかしらね」
いつしか、社長の部下達からそんな風に言われるようになっていた。
そんなある日のこと。いつもは滅多に会社に訪れないОさんが来た。社長秘書を務めるNさんという女性をこっそり呼び寄せ、人払いした会議室に招いた。
「何か御用でしょうか」
Nさんがそう切り出すと、Оさんは興奮したように息を荒くした。「はっ、はっ、はっ、はっ……」と、まるで食べ物をねだる野良犬のような雰囲気のОさんに、Nさんは少し気味悪くなった。だが、相手は社長夫人だ。失礼があってはならない。
ぐっ、と我慢して何とかにこやかに笑うNさんを前に、Оさんはこんなことを言った。
「ねっ…、あなたのこと聞いてる…っ、主人からねっ、聞いてる……っ。凄く優秀な秘書なんですってねっ、あなたっ。ねっ…。そうなんでしょっ……。ゆっ、ゆうしゅう、なんでしょっ、ねっ……」
「い、いえ……。私などまだまだ……」
思わず後ずさりするNさん。それを追い詰めるかのように、Оさんはじりじりと距離を詰めていく。
「ほしっ…、欲しいモノ、あるっ、あるのっ。欲しいのっ。なかなか…、手に入らなくてっ。ねっ…、あなたならっ、手に、手にっ、入れられるんじゃないかってっ。思ってっ。ねっ、お願いっ……。どうにかっ。手に入れてっ……」
「な、何をご要望でしょうか」
「にっ、人間のっ。手の甲っ、あるでしょっ。けっ、血管、浮き出てるでしょっ。あれ、あれをっ、あれをねっ。びいーって。びいいいいいーって。ひっ、引っ張り出したいのっ。ねっ。欲しいのっ…。手に、手にっ、入れたいのっ。ねええっ、手にっ、入らないかなっ。お金っ、払うからっ。幾らでもっ、払うっ。ねっ、ねっ、ねっ……」
「お、奥様。どうか落ち着いて。落ち着いて下さい」
NさんはОさんが錯乱してしまったのでは、と思い、彼女の両肩を揺さぶった。Оさんは興奮し過ぎたためか、全身にうっすら汗までかいている。半開きの口からは、荒い呼吸が繰り出されている。唇の端から涎が一筋垂れていた。
「それは幾ら何でも手に入りませんよ……。どう考えても無理です。ご承知下さい」
「そっ……、あ。あ、嗚呼。そうか。そうね……。ご、ごめんなさいね、私ったら……。突然変なこと言って……ごめんなさい。む、無理よねえ。そうよね、そうよね」
Оさんは何度も頷いた。しかし、その視線は何度となくNさんの右手に注がれているようだった。Nさんは興奮気味のОさんを何とか宥め、二人は寄り添うようにして会議室を出た。
それから間もなくして、Nさんは社長秘書を辞めた。何でも右手に大きな怪我を負い、一生使えなくなってしまったからだそうだ。
作者まめのすけ。-3