ある夜のこと。暇だった私は、友達のサヤカに電話を掛けた。しばらく他愛のない話で盛り上がっていたのだけれど、ふいにサヤカが声を潜めた。
「……怖い話、してあげようか」
「出た出た、ホラークイーンの悪い癖が」
サヤカは大のホラー好きで、しょっちゅう怖い話や都市伝説、学校の怪談などを話して回るので、クラスメートからはホラークイーンという渾名を付けられている。本人もまんざらではないらしく、ホラークイーンと呼ばれる度に嬉々として、「今日はこんな話があるんだよ」などと語り始めるのだ。ホラーが特別大好きというわけでもなく、かといって極端に苦手でもない私は、サヤカの悪癖にやや呆れつつも付き合ってあげることにした。
「今日はどんな話なの」
「今日はね、お風呂場にある鏡の話」
サヤカは雰囲気を出すためか、わざとらしく低い声で話し始めた。
「お風呂場に鏡、あるでしょ。鏡って四つ角があるよね。その角を見ちゃいけないの」
「何で?」
「四つの角を全部見た後に、鏡を真正面から見ると……」
「見ると?」
「こわーい何かが起きるの!!」
やたらと大きな声で叫ぶサヤカの声に驚きはしたものの。話の内容としては低俗で、ありきたりともいえる内容だった。しかも何かって何だ。曖昧だし、信憑性に欠ける。ホラークイーンの異名を持つサヤカの話にしては、何だか拍子抜けな結果に終わったが、それでも一応「止めてよー、これからお風呂に入るんだから。怖いじゃんか」と、精一杯怖がるフリをした。
だが、サヤカは私の稚拙な演技などお見通しらしかった。機嫌を損ねたらしく、低い声でぼそりと、
「……今に分かるよ」
そう言い残して電話を切ってしまった。
サヤカとの電話を終えた私は、お風呂に入ることにした。サヤカの話に出てきたから入るのではなく、ちょうどお風呂に入る時間帯だったのだ。
「鏡の角を見ちゃいけない、ね……」
体を洗いながら、ふとサヤカの話を思い出す。目の前には全身を移す大きな鏡がある。湯気でくもりがちな鏡。風呂場に入ると、まず目につくのがこの鏡だ。私は何の気兼ねもなく、体を洗う手は休めずに視線だけ動かす。上の右角、左角、続いて下の右角、左角へと視線を移す。それから真正面を見る。
が。別に変わったものは何一つとして映っていない。体中、白い泡だらけの私が立っているだけだ。
「ほーらね、何も起きやしない。全然怖くないし」
独り言を言いながら、シャワーで泡を流す。体を洗い終わり、次は頭を洗おうとシャンプーのボトルに手を伸ばす。何回かポンプを押したが、一向に中身が出てこない。どうやら終わってしまったようだ。確か買い置きのシャンプーが洗面台の下に入っていたと思うが、素っ裸で出ていくのも気が引ける。私は家族の誰かに頼むことにした。
「誰かー!新しいシャンプー取ってくれない?」
少しして、カララ……とお風呂場の扉が開いた。裸を見られたくない私は前を向いたまま、後ろ手を伸ばす。
「はい」
鏡越しに、白い手が新しいシャンプーを持っているのが見えた。私は「サンキュー」と受け取り、軽く頭を下げる。白い手が静かにお風呂場の扉を閉める様子が鏡に映っていた。
お風呂から上がり、髪の毛をドライヤーで乾かしていると。玄関のほうから物音がして「ただいまー」と声がした。はっとして、生乾きのまま玄関へ駆けつける。そこにはコンビニの袋を下げたお母さんが立っていた。
「お母さん、出掛けてたの?」
「そうなのよー。ほら、牛乳切らしててさあ。あんた、毎朝牛乳飲むでしょ?ないと困ると思って、コンビニに行って買ってきたのよ。で、今帰ってきたとこ」
「え……。それ、どれくらい前の話?」
「それがさあ、二時間くらい前なの。コンビニから帰ろうとしたら、知り合いの奥さんにバッタリ会っちゃって。ついつい長話してたら遅くなっちゃったのよねー」
……お風呂上がりで火照っていたはずの体がすーっと冷えていく。無言で立ち尽くす私に、何も知らないお母さんはにこにこ笑いながら言った。
「ごめんねー、長いこと一人っきりにさせちゃって」
作者まめのすけ。-3