俺には四つ年上の姉がいる。
姉さんは俗に言う「視る」人だ。そう言っておけば、堪の働く人も、そうでない人だってピンとくるんじゃないだろうか。いやいや、何が「視る」なのか全く分からないよという人もいるかもしれないので注釈を入れておくがーーー姉さんは「怪異」を「視る」人だ。
怪異とはーーー幽霊、妖怪、アヤカシ、マヤカシ、或いは神。生きているようで生きていないモノ、死んでいるようで死んでいないモノ、生きているようで死んでいるようなモノ。それらを総称して怪異と呼ぶ。
当たり前といえば当たり前なのだが。姉さんは「視る」或いは「視える」、自虐的な言い方で「視えてしまう」人なので、よくよく不可思議な事件に遭遇する。そして姉さんの腰巾着ことこの俺ーーー玖埜霧欧介もまた、不可思議な事件に遭遇する。遭遇させられる、といったほうが文脈的には正しい。何が言いたいのかというと、決して自分から首を突っ込んでいるわけではないということだ。言ってて自分でもせせこましいとは思うけれど。
怪異に纏わる事件なんてのは頻繁に起き得るため、今では呼吸をすることと同じくらい日常茶飯事的なこととなってしまっていて。夜道で化け猫に会おうがぬらりひょんに出会そうが「やあ、今晩は。今夜は月が綺麗に出てるから明日は晴れそうですね」と挨拶なんてすらすら口に出来てしまう。
……なんてのは嘘だ。こればっかりは慣れるなんてものじゃないし、慣れてしまいたくもない。非日常が日常的だなんて。そんなのはどう考えたって厭だ。
厭だけれども。姉さんと一緒にいる限り、姉さんと姉弟でいる限り、怪異とは縁が切れないというのもまた事実なのだ。そして姉さんと縁が切れるくらいなら、俺は何をしようと何をされようと、怪異と縁深くなってきている自分を赦せる。慣れるものじゃないし、慣れてしまいたくもないが。慣れない程度に、お付き合いくらいはしようと思う。
言うなれば、怪異との切れ目が姉さんとの切れ目だ。
◎◎◎
その日は土曜日でも日曜日でもなく、祝日でもなく、開校記念日でも振り替え休日でもなく、平日だった。平日ーーーつまり、普通に学校がある日。それにも関わらず、俺は何だってか姉さんに拉致され、電車に乗らされ、名前も知らない山に来ていた。
まあ、山とはいえ。富士山みたいな名所じゃない。小高いという言葉がぴったりなこじんまりした山。森林浴とかが出来そうな、木々にぐるりと囲まれた山だった。まさかの平日、山に連れて行られるとは思わなかったし、学校に行くつもりだったから、バリバリ学生服なんですけど。
「さあ、欧ちゃん。見なさい、この緑なす山を!風のせせらぎを感じ、土の匂いを体に取り込みなさい!さあ、叫ぼう!ヤッホー!」
「……やっほー」
それって普通、山の頂上から叫ばねえか?
隣に立つ、えらく清々しい顔をした姉さんをちらと見やる。姉さんもバリバリのブレザー姿だ。パパやママには学校に行くフリして出て来たんだろうから当然なんだけど。
あーあ、初めて学校サボっちゃた。今頃、3時間目くらいかな……。
溜め息を吐く俺のことなど何のその。姉さんはばさりとスカートを翻し、「ここってさあ、知る人ぞ知る名所なんだよな」と山を仰ぎ見る。
「名所ぉ?こんなちっちゃい山がぁ?小学生でも登れそうじゃん」
「登山家じゃあるまいし、デカい山だけがいいってもんじゃない。人の手が加えられていない、自然にあるがままの山はそうそうあるもんじゃないよ。こういう場所は空気が清浄だし、厄祓いにも向いてる。欧ちゃんもさ、たまにはこういう場所で祓い清められたほうがいいんだよ」
「んじゃ、今から登山するの?俺、学生服なんだけど……姉さんだってスカートじゃん」
「スカートが何。むしろいいじゃん。後ろを歩く欧ちゃんにパンツ見せられるじゃん」
「開き直られると、俺が間違ってるみたいだけど。でも、姉さんのほうが異常だからね。その考え方とか道徳心とか」
やっぱり登山かあ……。ジャージ持ってくりゃ良かった。学生服だとズボンの裾とか枝で擦り切れそうだし。日除けの帽子や虫除けスプレーもないし。かといって、姉さんに逆らえば身包み剥がされるし……。
気分が一気に急降下したその時だ。
「あー、あんた達もアレ?心霊写真撮りに来たの?」
首から高価そうなカメラを下げた若い女の人が、愛想良く近付いてきた。キャップを被り、ボーイッシュな服装をした小柄な人。ニコニコしながらこちらに来ると、親指を立てて山を指した。
「うちのばーちゃんがここの地元なんだけどね。この山、出るらしいじゃん。白い猿みたいな妖怪っつーか、お化け?よく目撃されるとか何とか。アタシもそれ目当てで来たの。ばーちゃんに山に行くっつったらえらい剣幕で叱られてさ。よく知らないけど、この山って地元の人でも滅多に入らないんだって。話の途中で飛び出して来ちゃったから、詳しいことは知らないんだけどね。アタシ、フリーターなんかやってるから金なくて。本屋で雑誌を立ち読みしてたら、たまたま心霊特集やっててさ、心霊写真も募集中らしくて。採用されると金一封出るっつーんで来てみたの。あんた達もそうなの?」
「や、あの……いえ、俺達は別に」
ベラベラ喋る女の人に気圧され、口ごもっていると。後ろから襟足を掴まれ、姉さんがここぞとばかりに割り込んできた。姉さんは雪女すらも凍えそうな視線を女の人に向け、うっすらと微笑を浮かべた。
「いいえ。心霊写真なんてとんでもない。私達、デートに来てるんですよ」
出た、姉さんの営業スマイルが。姉さんは稀に見る人見知り・・・・・・というか人嫌いで、弟の俺や両親以外の人間にはとことん冷たい態度を取る。表向きには荒立ったことはしないし、言葉遣いも物腰も丁寧なんだけれど、纏う雰囲気が怖い。近付くな、近寄るな、話し掛けるな、見るな・・・・・・そんなオーラをビシバシ飛ばすので、大抵の人はその圧力に押し潰されてそそくさと退散するのがお決まりなのだが。
「へーえ。デートなの?そういやあんた達、制服じゃん。何々、学校サボってこんな場所でデートなの?山で?うわ、色気ない。若いんだから、もっとスケールのデカいデートしなさいよ」
・・・・・このお姉さんにはオーラが通じないのか、あっけらかんと笑われた。俺が何とも言えない気まずい笑みを浮かべていると、彼女は「そいじゃあね」と片手を振り、山に入っていく。それを黙って見ていた姉さんが、小さく呟いた。
「この山にカメラを持ち込まないほうがいいですよ」
「ん?何か言った?」
「カメラ。持ち込まないほうがいいですよ」
「は・・・・・・?だって、心霊写真撮りにわざわざ来てんだよ。カメラ持ち込まなきゃ写真が撮れないじゃない」
「正確に言うなら、山に鏡は持ち込んではいけないんです。もっと突き詰めて言えば、被写体を、風景を映す道具を持ち込んではいけない。カメラのレンズがまさにそれです。全ての山に持ち込んではいけないとは言いませんが、この山には特に注意が必要ですよ」
「わけ分かんない。何でだめなのかを聞いてるんだっつーの」
お姉さんは少し苛立ってきたのか、口調がきつくなる。だが、姉さんはどこ吹く風で淡々としている。でも、人見知りというか人嫌いの姉さんのほうから他人に話し掛けるだなんて、珍しいこともあるものだ。雨ならず飴でも降るかな。キャンディーとか喉飴とか降るんじゃねえか、これ。
姉さんは低い声で続けた。
「山には山の神様がいるんですよ。ヒトの姿をしていたり、ヒト以外の姿をしていたり、或いは山そのものが神様として成り立っている場合もありますが。おばあさんが仰ってたんでしょう?白い猿みたいな生き物がいるって」
「あんた、まさかその猿が山の神様だって言うつもり?違うわよ、莫迦ね。野生動物か何かでしょ」
「それは分かりませんが、油断は禁物です。人間の行いを監視するため、動物の姿で現れるといった逸話もありますし。それに山に鏡を持ち込むのは禁忌です。山で鏡を使用すると、現時刻が昼間でも夜の風景として映るといいます。そうなれば手遅れだと思って下さい。その現象は山の神様の怒りに触れたことを示し、殺されます。神様にもよりますが、人間に容赦ない、慈悲の心を持ち合わせていない神様だっておられるのですから」
「あんた、何?オカルトマニア?くっだらない、何が山の神様だか」
せせら笑いを浮かべ、お姉さんは山へと足を踏み出した。
「じゃあ、その猿の姿をした山の神様ってやつを写真に収めてきてやるわよ」
お姉さんの姿は、木々に掻き消されるが如く、あっという間に見えなくなる。俺は何だか胸騒ぎがしてきた。さして高い山ではないにしろ、慣れない山歩き、しかも女性の一人歩きは危険だ。あの人の言いっぷりからして、恐らくこの山に来たのは初めてなのだろう。素人がヘタに山に入ると、遭難したり事故に遭うって聞くし。それに姉さんが危ないと忠告したことが今まで外れたことはない。姉さんが危ないというのなら、それは十中八九危ないのだ。
「待って下さい!やっぱり引き返したほうが・・・・・・」
お姉さんを呼び止めようとその後を追うように一歩踏み出すが。
「止めな。とばっちりくうから。欧ちゃんだって十年殺しの目に遭いたくはないでしょ」
姉さんに手首を掴まれ、行く手を阻まれる。
「十年、殺し?」
聞き慣れないワードに首を捻る。姉さんは「この辺りじゃ鬼殺しって言うらしいけどね」と言いながら、尚も俺の手を離さなかった。そしてお姉さんが消えた方角を見つめ、こう言った。
「十年掛けて殺されるんだよ」
ここから先は姉さんから聞いた話。
今から二十年ほど前のこと。この辺りに住んでいた大学生の男の子達数人が、カメラを持って山に入った。彼らは大学部で写真部に所属しており、風景画を撮るために山に入ったらしい。コンクールを控えていたこともあり、彼らは意気揚々と出掛けた。だが、いつまで経っても下山してくる様子がない。携帯電話も繋がらず、一切の連絡もない。心配した写真部の顧問や家族が警察に通報し、大掛かりな捜索が施された。しかし、見つからない。仮に道に迷って遭難したとしても、さして広くもない山だ。捜索隊が発見出来ないわけがなかった。
その事件を聞きつけた村の年寄り達は、口を揃えてこう言った。
「十年殺しだ」「今はどんなに探しても見つからない。見つかるのは十年後だ」「可哀想に・・・・・・。脳味噌吸われて殺されるぞ」
この地方では、山の神様は動物の姿をしているという言い伝えがある。鹿だったり熊だったり、或いは狐とか猿だという人もいる。山の神様は鏡を嫌い、それを持ち込む人間には容赦なく祟り殺したのだそうだ。この山で鏡を覗くと、遥か遠方に動物の姿が映るのだそうだ。それもただの動物ではない。よくよく見れば、頭にもう一つの巨大な口が付いており、僅かに開いたその口には、乳歯のような細かい白い歯がびっしり生えているんだとか。
最初は遠くで小さく映っているそれは、鏡を覗きこむ度にだんだんと近付いてくる。近付いてくる度、口は大きく大きく開かれていき、最後には自分の目の前まで迫ってくる。その姿を見た者は神隠しに遭い、どんなに探しても見つからず、十年後にひょっこり見つかるのだそうだ。
___ただし、遺体として。
遺体は全く朽ちておらず、腐乱した様子もない。目立った外傷も、衣服の汚れすらない。十年前、行方不明になる前の姿だ。そしてその遺体には決まって共通点がある。致命傷と呼ばれる傷跡だ。
後頭部に口ほどの小さな穴が開けられており、脳味噌はおろか脳漿までもが吸い尽くされたようになくなっているらしい。山の神様の嗜好は、人間だという説がある。若い人間の娘が山に入ると連れ去って嫁にし、脇の下から血液を啜るのだそうだ。血を吸い尽くされた娘は不思議な力を得るが、まともな人間には戻れず、化け物と化す。或いは後頭部から脳味噌や脳症を吸い尽くすといった、おぞましい方法で喰われる___らしい。
神様は捉えた人間をすぐさま殺しはしない。十年という長い月日を掛け、ゆっくり貪るのだ。果たしてその拷問とさえ言えるような十年間、生存が可能かはどうかは定かではないが・・・・・・仮に生きていられたとしても、死んだほうが幾分マシではないかと思えてしまうくらい、残酷な仕打ちともいえる。荒ぶる山の神様に、人間に対しての慈悲など通じないのが妥当なのだろうが。
現に行方不明となった大学生らも、十年後に遺体として見つかった。山に山菜を摘みに来た老夫婦に発見されたらしい。どの遺体も全く腐乱しておらず、生前の姿のまま。だが、どの遺体の後頭部にも小さな傷跡があり、脳味噌及び脳症が一滴残さずなくなっていた___のだとか。
「当時のマスコミは結構騒いだ。<山で怪死体を発見!朽ちない遺体の謎>とか銘打って。少しの間、その事件は取り上げられてニュースや新聞沙汰にもなったんだけど。自称霊能研究家達が毎日のようにテレビに出て、この事件の解明に勤しんだみたいだけど、謎は謎のまま。警察は他殺の線で動いていたけど、今じゃ迷宮入り。触らぬ神に祟りなし___人間同士のいざこざならまだしも、神様が関わっていなさるのなら手出しは無用。ヘタな手出しは、火傷どころか腕の一つや二つ持っていかれる。関わり合いにならないようにするくらいが丁度いい」
姉さんはそう言って、小さく肩を竦めた。
「人間は時として自己を過信する。昔からの言い伝えや習わしに従わなくとも生きていけると鷹を括る。人の厚意を、叱責を、お節介だ五月蠅いお小言だと撥ね付けるのは勝手だけれどね___それに、私は彼女に選ぶ選択肢は与えたのだから。その先、あの人が何を選び、どうなるかまでは介入出来ない。あの人が選んだことはあの人が責任を取るしかない。誰も肩代わりしてくれないからね。人生の選択はどうあっても自分で決めなくてはならないし、それについての責任も自分で果たすしかない」
「でも・・・・・・あのお姉さんも行方不明になって、それで十年後に発見されるなんてことになったら」
「欧ちゃんはこの話、信じた?」
話を信じたというより、姉さんが口からでまかせを言うような人ではないことを信じている。知っている。知り尽くしている。知り尽くしているから___怖いんじゃないか。
そもそも、そんな謂れの山に連れてきた姉さんの精神を疑うよ。厄祓いどころじゃない、厄拾いしそうだ。
「まあ、空気が清浄なのは本当だよ。さっきも言ったけど、ヒトの手が加えられていない山っていうものは少ない。自然は穢れを落としてくれるからね。山の神様だって怒らせればそりゃ怖いけれど、こちらが何もしなけりゃ何もしてこないさ。要は怒らせなければいい。怒らせる要素を持ち込まなければいいだけ。でも、あの人のせいで山の神様は怒ってると思うし、今日は止めとこうか。まだ時間あるし、一緒に映画でも観ようか。うん、そうしよう。観たい映画があったんだよねー」
姉さんはにっこり笑って俺を見た。そして俺の耳に唇を寄せて囁いた。
「十年後にまた来てみようか」
作者まめのすけ。-3