俺には4つ年上の姉がいる。
破天荒及び横紙破りな性格の姉であり、堅物というより人間嫌いの気があるため、生半可な興味本位で近付こうものなら火傷をする。火傷をするというのはそのままの意味で、一介の高校生という立場にある癖にスタンガンなど持ち歩いているのだ。まあ、実際にスタンガンで攻撃されれば火傷などでは済まないだろうが。
本人曰くスタンガンはあくまでも「護身用」なのだそうだ。殺し屋に追われている諜報員であるまいし、幾ら何でもスタンガンは物騒だろうとは思うが・・・・・・。本人曰く「私に指一本でも触ってきた他人がいれば、もうそいつは私の敵以外の何者でもない」そうである。我が姉ながら、将来の行く末が恐ろしい。この人、結婚どころか一生彼氏が出来ないんじゃないかなどと危ぶむ俺だが、当の本人は全くと言っていいほど男に興味がないらしい。かといって、別に女に興味があるわけではない。百合ではないことを報告しておこう。
実に危険極まりない、暴力的な人間なのだが。実はこの人、それだけではない。
彼女には視えるのだ。この世ならざるモノが。アヤカシが。怪異が。視えるし、祓える。そこまで力の強くない、低級な怪異に限るらしいが。どこで仕入れてくるのかは知らないが、オカルトに関する知識も豊富だ。妖怪の名前でしりとりが出来るくらいだし、昔ながらの風習やならわしにも詳しい。
そんな姉さんと幼いころからいつも連れ立って行動を共にしている俺は、ちょこちょこ怪奇現象ならぬ怪異現象に遭遇する。棺桶に片足を突っ込んでいるというより、あちらの世界に首を突っ込んでいる、と言ったほうが文脈的にも真実的にも正しいのだろう。視える人間というものは、少なからず視えない人間よりも怪異と縁深い位置にいるということなのだろう。そして必然的に、視える人間の傍にいる人間もまた怪異と縁深くなるのだ。否が応でも。
ただ。最近は姉さん以外の人間と行動を共にしていても、怪異現象に首を突っ込まざるを得ない時もあるのだが。
◎◎◎
「何だよ、ショコラ。体育館裏に呼び出したりして。因縁でもつける気か」
そう切り出すと、ショコラは猫みたいに細い目を更に細めてにいいーっと笑った。こいつ、よく見ると黒目が大きいな。人間の平均的な黒目の大きさなんて測定したことがないから知らないけれど。細めの割に黒目がち、というか。白目の部分が極端に少ない気がして、何だか寒気が走った。
「因縁つける気だなんて。そんなことあるわけないでしょうよ。いったい私達、何年付き合っているというの。幼稚園からの知り合いであるショコラちゃんにそんなこと言うなんて、欧ちゃんのほうが私に因縁付けてるじゃないよう」
「何年付き合っているかといえば、恋人同士とかそういう意味を除けば、お前とは中学に入ってからの付き合いだぞ」
幼稚園からじゃねえよ。記憶を勝手に書き換えるな。
俺はジト目でショコラを見つめる。彼女の名前は日野祥子。俺と同じクラスに所属している女子で、無類のチョコレート菓子好きなことと名前の祥子をもじってショコラと呼ばれている。ぽへーっとしている割には要領が良く、友達も多いし教師受けもいい。成績も優秀で、クラスの人望もある。そんなショコラだが、どういうわけかよく俺に絡んでくるのだ。絡んでくるというか、話し掛けてくるというか。時には厄介な頼みごとをしてきたりもする。
俺とショコラの間に、何か特別仲良くなるような接点があるわけでもないし。別に仲が極端に悪いとかそういうわけでもないけれど、仲が良くなるきっかけも仲が悪くなるきっかけもないくらい、俺達の間には接点がないのに。俺は俺でクラスで孤立しているわけではないが、和気藹々とした雰囲気はどちらかといえば好まない、草食男子だし。自分を動物に例えれば、馬か牛か鹿だ。間違ってもライオンとか豹ではない。
ショコラを動物に例えるなら、見掛けからしても内面的な面から見ても猫だ。一見、無害そうな顔をしているけれど、時に爪を立て相手を(主に俺を)引っ掻くし。それに猫って肉食だろう?まさにショコラだ。
そんなショコラから放課後、呼び出された。帰ろうと思い、靴箱からスニーカーを取り出そうとしたら、一昔前の少女漫画にでも出てきそうな白い封筒にハートのシールで封をしたラブレターのような物が入っていたのでドキリとした。
ラブレターが入っていたことにドキリとしたわけではなく、今どきこんな古い作法でラブレターを寄越す奴なんかが存在するものだろうかと畏怖したのだ。
悪戯かもしれないが、それでもと思い封を破いて中から手紙を取り出す。そこには綺麗な字でさらりと、
「体育館裏で待ってます。来て下さい。あなあたのショコラより(原文まま)」
呆れも根も尽き果てるという瞬間が今だった。何だか昭和の香りがするなあと思いつつ、ショコラが俺に用があるということは事実なようだったので、スニーカーを靴箱に戻し、上履きを履く。そのまま重い足取りで体育館裏へと向かった次第だ。
体育館裏と言えば、絶好の告白スポットとして名高い学校の名所である。ショコラ以外の女子から呼び出されれば、そういった色恋沙汰の想像も出来ただろうが、相手はショコラだ。色恋沙汰などではなく、今回もまた厄介ごとを押し付けられるのだろうなぁと思いつつ、それでもこうして体育館裏に来てしまうあたり、俺はお人好し以外の何でもない。
ショコラは俺を見ると「嬉しい。来てくれたのね」と、如何にも芝居が掛かった口調で出迎えた。それでさきほどの掛け合いがあった、というわけである。
「今日という今日は何なんだよ。パンツでも盗まれたのか」
「パンツが盗まれたんなら、こうして欧ちゃんを体育館裏に呼び出すわきゃないでしょ。そんなまどろっこしいことしないで、欧ちゃんの首筋を片手で掴み上げて警察に盗品の容疑で突き出してるって」
「俺がパンツを盗んだ犯人として想定するな」
首筋を片手で掴み上げてって。お前は村に女を攫いに来た鬼か。
そんなことよりー、と。ショコラは甘ったるい猫撫で声など出しながら、上目遣いでじっとこちらを窺う。
「欧ちゃんにお願いがあるの」
「断る」
ほぼ食い気味に言った。ショコラが言い終わる前に、俺のほうが先に言い終わっていた。ショコラはむう、と頬を膨らませると、俺の両頬を抓った。
「あ、の、ね。お願いごとの内容も聞かずして断ることは無礼だと思うの。引き受けてくれるにしろ断るにしろ、とりあえず最後まで聞くのが人としての最低限の礼儀でありマナーであると私は思うのよね」
「ひゃって・・・・・・おみゃえからのおにぇがいごとって、いつもやっかいにゃんだもん・・・・・・」
両頬を抓られているため、上手く喋れない。ショコラはもう1度むう、と唸るとぱちんと俺の両頬を叩いた。これは地味に痛い。
「痛い!」
「うちの親戚の話なんだけれどね」
ショコラはじいいっと俺の目を食い入るように見つめてきた。黒目がちなその瞳に圧倒され、俺は黙るしかなかった。こいつ、マジで目力があるよなあとある意味で感心しつつ、半ば呆れつつ。聞くだけならタダだしと思い、耳を傾けた。
「昨夜、遠縁の親戚が亡くなったって家に連絡が入ったの。遠い親戚だから、血が繋がっているのかも怪しいんだけどさ。場所は家からさほど離れた場所ではないんだけれど、ほとんど付き合いはなかったのね。だから別に亡くなったって言っても、通夜にも葬式にも出る筋合いはないんだけど。でもねー、その親戚の家なんだけど。どっか知らないけれど、地方から移り住んできた人でさ。そこの地方では変わった風習があって、通夜の晩は死守りって言って、親族や血縁者が4人集まって遺体の番をしてなきゃならないわけ」
「死守り・・・・・・?この辺じゃ聞かないな。遺体の番って何だよ。見張り番とかそういう感じか?」
「見張り番というか守り番っていうか。欧ちゃん、火車って妖怪は知ってる?」
火車なら姉さんから聞いたことがある。火車というのはその名の通り、炎に包まれた獣に近い姿で描かれる妖怪である。通夜の晩にどこからともなく家の中に侵入し、安置してある遺体から魂を持ち去ってしまうのだ。持ち去られた魂は永遠に成仏出来なくなる。そこで火車の侵入を防ぐために、通夜の晩は夜が明けるまで蝋燭の炎や線香を絶やしてはいけないのだそうだ。
「火車から遺体を一晩守るために死守りが行なわれるの。死守りっていうのは遺体の番人というか、守り番みたいなものなの。本来は親族か血縁者の人間が4人で死守りをするんだけどね。火車は家の扉や窓から入り込むみたいで、通夜の前には必ず御札を貼るのよ。で、その御札が剥がれていないかを1時間に1回のペースで見回らなきゃならないわけ。一晩中、気が抜けない仕事なのよ。たいていは体力がある若者がやるんだけど。その家、残念なことに若い連中がいないのね。年寄りっきりなの。で、年寄りに一徹夜は厳しいっていうんで、私にその話が回ってきたわけよ。遠縁の私にそんなことを言うことからして、かなり切迫した状態なのかもね」
死守りを怠ると、その一族は破滅の道を歩むことになるって言われてるみたいでさ、と。ショコラはまるで他人事のように付け加えた。
「何が何でも私に死守りをさせたいんでしょうね。年寄りっていうのは迷信深いから。ま、昔ながらの風習やならわしを破ることがどれだけ禁忌であるかということくらい、能天気な私でも分からないわあけじゃあないんだけれどねー。ただほら、私ってオンナノコじゃない。夜更かしや徹夜はお肌に悪いし、困ってたんだよねー」
「・・・・・・ふーん。で?」
何やら悪い予感がひしひしとするが。敢えてそれには触れず、ショコラのほうをちらりと見る。ショコラはにっこりと優しげな笑みを浮かべ、キッパリと言った。
「私の代わりに死守りをしてきてほしいの」
◎◎◎
ショコラの奴はちゃっかりしたもので、既にその親戚とは話をつけてあるらしい。自分はどうしても外せない用があるので無理だが、代わりに従兄に死守りをやるよう説得するから、と。その従兄というのが他でもない、この俺だった。いや、言っておくが、それこそ俺とショコラの間に血縁関係は一切ない。ただのクラスメートという関係以外の関係はないにも関わらず、ショコラは死守りをサボりたい一心で口からでまかせを言ったらしい。
親戚のほうもそれ以上に追及することはなく、それならそれでいいと納得したと言うのだから2度呆れる。とどのつまりは、誰でもいいらしい。若くて体力があるのなら、男だろうが女だろうが問題ではない。どころか赤の他人が死守りを務めたとしても、さして問題視しないのではないかと疑ってしまうくらいだ。
ショコラから代わりに死守りを務めてほしいと言われた時、俺はとにかく嫌だ嫌だとごねた。これがごねらずにおられようか。通夜やお葬式というもの自体、苦手だったし。ああいう堅苦しい雰囲気はどうも慣れない。慣れたくもないが。それに一晩中起きていること自体も抵抗があったし。俺の場合は肌の心配より、単に睡眠不足になることが嫌だった。
そもそも、死守りとかいう役を仰せつかるのは、親族とか血縁者だとショコラ自身が言っていたじゃないか。えんもゆかりもない俺がのこのこと出て行って死守りを買って出るというのは、向こうのご家族にしたって迷惑極まりない行為だろう。ショコラも日頃からの付き合いはないにしろ、遠縁というからには筋の繋がりが多少はあるということである。だったら肌の心配なんてしていないで、大人しく死守りを務めろよと言ったら、お尻を蹴られた。
「酷い!酷過ぎるわ欧ちゃん!もうっ、ショコラのネットワークを舐めんじゃないわよ。こうなったらツイッターやブログやフェイスブックで洗いざらい欧ちゃんの悪口書き込んでやる!欧ちゃんに弄ばれた上、多額のお金を毟り取られて、外国に売り飛ばされそうになったとか書き込んでやる!見てなさいよ、ショコラちゃんにはお友達が多いんだから!物騒なお友達だっているんだから!明日の太陽拝めなくしてやる!むきー!」
甲高い声で喚きだした上、究極の急所を蹴られそうになったので、承諾するしかなかった。「分かったからどうにかお怒りをお静め下さい」と泣いて懇願すると、ショコラは憑き物が落ちたかのような、実に晴れ晴れとした表情になり、
「じゃ、これ親戚の家までの地図ね」
それだけ言うと、ショコラはぴゅうと立ち去った。まるで旋風に攫われたのではないかというくらい、素早く逃げた。風と共に去った。あとには地図を片手に呆然と立ち尽くす俺が虚しく佇んでいるだけだった。
◎◎◎
一連の出来事が終わった後、携帯電話で姉さんにメールをした。不本意ながらも死守りという遺体の番をすることになった以上、一晩家を明けなければならない。うちは両親共に仕事人間で、いつ家に帰ってきているかさえ分からないような状態なので、親に断る必要はないのだが。高校生の姉さんは学校が終われば家に帰ってきているし、自分で言うのも気恥ずかしいが重度のブラコンなので、俺が帰ってこないとなれば心配を掛けてしまうからだ。
至って簡潔に「友達の家に泊まることになったから、今日は家に帰りません」という内容のメールをさらさらと書いて送った。そしたら1分もしない間に返信が来たので、これには度肝を抜かれた。しかもその内容が、
「そんなこと絶対に赦しません。学校が終わったら速やかに家に帰って来て下さい。私は欧介がいないと夜も眠れないのです。欧介は私の貴重な安眠を妨害するというのですか」という文面を、もう少し乱暴な口調で言い換えたようなものだった。これはまずいと思い、即座に電話で折り返し、事の内容を正直に話したところ、
「じゃあ、私も付き合う」
とだけ言って電話が切れた。付き合うということは、つまり死守りに参加するということだろうか。いやいや、そんな勝手な・・・・・・と思ったが、1人で参加するのも気が引けるし、姉さんがいてくれるのならありがたいのだけれど。
不安を感じながら、とりあえずいったん家に帰った。人の家に泊まるのだから、着替えや洗面道具などを持っていこうと思ったからだ。だが、玄関を開けたらそこに姉さんが立っており、「さ、行こうか」と当然のように言われて、結局家の敷居を跨げなかった。服だって着替えていないため、まま学生服である。鞄だけは何とか玄関に放り投げてきたが。
「俺、着替えとか歯ブラシセットとか何にも用意してないんだけど」
そう言ったらおでこを小突かれた。
「莫迦、お泊り会に行くわけじゃなし、何でそんな物を持っていく必要性があるの。着替えなんてしてられないし、歯を磨く時間なんてないよ。お風呂にだって入れない。ただ遺体の番をするだけだよ」
「げ。お風呂にも入れないの?」
「そうだよ。私は一応シャワーを浴びてきたけど」
「・・・・・・」
だったら、俺だってシャワーくらい浴びてきたかったよ。てか、お風呂に入れないと知ってるのなら、シャワーを浴びるように教えてくれれば良かったじゃんか。
面倒なことを引き受けてしまったという後悔を感じつつ、そして俺に付き合って他人の家の死守りを務めることになった姉さんもまた、相当なお人好しだよなあと思いつつ。ショコラから貰った地図を頼りに進む。
「ここだ」
そこは平屋の一軒建て。古い造りの建物、というより単にボロい。家の周りを朽ちかけた木の塀がぐるりと囲んでおり、表札は取れてしまったのか外されていた。庭の手入れもしていないらしく、雑草がぼうぼうと生い茂り、羽の生えた細かい虫達がぶんぶんと飛び回っている。玄関まで続く飛び石には、これでもかというほど苔むしていた。呼び鈴がないため、そっと声を掛ける。応答がないため、そっと引き戸に手を掛けるとカラカラと開いた。鍵の施錠はしていなかったようだ。不用心な、と思っていると、奥から顔色が悪い年配の男が現れた。頬はこけ、顔色は土気色をしていたが、目ばかり大きくてぎょろぎょろしている。
彼は俺と姉さんを見ると「おまんらが死守りを務めるっちゅう子か」と呟いた。俺が黙って頷くと、男は首を動かして入れと合図した。そして俺達が家に上がるのを待たずして、1人だけ先に行ってしまった。
・・・・・・何だか拍子抜けしてしまった。もっといろいろ聞かれるのではないかとビクビクしていたのだ。だが、意外にあっさりとしたものだ。要は死守りを務めさえしてくれれば、誰でもいいのではないかという風にさえ思ってしまう。赤の他人とバレればタダでは済まないかもしれないが・・・・・・。
玄関先にはびっしりと靴が並んである。今晩が通夜のだということもあり、その準備で集まっているのだろう。その靴をふと見た俺は、眉を顰めた。
「逆様だ・・・・・・」
靴という靴が全て逆様にされていたのだ。いったい誰がこんなことをしたのか知らないが、悪戯にしては不謹慎じゃないか。仮にも今晩が通夜だという家の玄関先でこんなことーーー俺は近くにあった靴から順番に元に戻そうと手を伸ばした。が、その手を姉さんが掴み、首を振った。
「異様な光景に見えるかもしれないけれど、これは悪戯の類じゃない。古いしきたりなんだよ。珍しいものではあるけどね」
「しきたり?靴を逆様にすることが?」
姉さんは親指を立て、靴箱の上にある花瓶を指した。今まで逆様に犇めく靴に気を取られていて気が付かなかったが、そこにある花瓶もまた逆様だ。花瓶の横にある瀬戸物の飾り物も逆様である。
「靴や花瓶、飾り物だけじゃない。家にある家具という家具が逆様にされていると思うよ。家具を逆様にすることで、厄が祓えるというしきたりがあるんだよ。立て続けに悪いことが起きると、厄祓いとして家中の家具を逆様にする。すると悪い気も逆様になって事態は好転する、という風に考えられていてね。これも多分、そういうことだと思う」
理屈としては理解出来るが、異様であることは否めない。ここではそのしきたりに倣っておこうと姉さんが言うので、俺達は靴を脱いだ後、逆様にした。ちょうどその時、見知らぬ若い男が入ってきた。こちらもまたやけに顔色が悪く、覇気がない。男は何の挨拶もせずに玄関から入ってくると、勝手知ったる他人の家とでもいうように靴を脱いで上がった。靴は脱ぎ捨てられたまま、揃えもしない。どころか逆様にもしていなかったので、思わず声を掛けた。
「あ、あのう・・・。靴、逆様にしたほうが・・・・・・何か、しきたりみたいですし」
だが男は何も言わず、少しだけムッとした表情になると、そのまま立ち去った。通夜の準備を手伝いに来た親類か血縁者なのだろうが、それにしても不愛想な人である。そりゃ赤の他人から靴を揃えろならばともかく、靴を逆様にしろとかわけの分からないことを言われて機嫌を良くする人間はいないのかもしれないが。俺はやれやれと溜息をつき、お節介とは思いながらも彼が脱いだ靴を逆様にしておこうと手を伸ばした。が、またしても姉さんに手を掴まれた。
無闇に触らないほうがいい。しきたりを守るにしろ守らないしろ、それは自由。ただ、しきたりを破ることによって降り掛かる災難を受けるか受けないかは自分で選ぶことが出来る。そこに手出しは無用だよ」
そのまま家に上がる姉さんに続き、靴を逆様にして上がった。見れば玄関の両脇に盛り塩がしてあった。てっぺんの辺りがじとっと溶けて、何故か黒っぽく変色していた。
廊下を歩いていくと、少しだけ障子戸が開いていた。中からガヤガヤと人の話声や衣擦れの音が聞こえてくる。どうやらここが通夜の会場らしい。障子戸は和紙の部分が黄ばんでおり、穴が幾つか開いていた。その穴からぎょろりとした目玉が覗いた時には、驚いて声を上げそうになった。
目玉は赤く充血しており、何日も徹夜が続いた人のような目立った。右に左にせわしなく動くそれは、俺と目が合うと、じーっと見つめてきた。そして障子戸の奥から低い声で、
「少し待ってろ」
という声がした。姉さんを見ると、「待ってろって言うんだから、待ってればいいんじゃない」とだけ言い、その場に腰を下ろして正座した。俺も姉さんの隣に座り、正座する。相変わらず障子戸の中からは人の声と衣擦れの音が聞こえてくるだけだ。退屈に感じていると、いきなり獣の唸り声のような、雄叫びみたいな声が聞こえた。
「ぐうううううううううううううううううううおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」」
耳をつんざくような絶叫に、姉さんが素早く立ち上がった。そして障子戸の前まで行くと、先ほど誰かが覗いていた穴から中の様子を覗いた。
「あーあ。もう出たか」
呆れたように呟く。俺が慌てて傍に行くと、「ほら」と穴を覗くように言われた。恐怖心もあったが、それよりも勝ったのが、中でいったい何が起きたということを知りたい気持ちだった。好奇心というやつである。そろそろと穴から中を覗くと、男が喉元を掻き毟っている姿が目に飛び込んできた。遠目だったが、服装や背丈からして、さっき玄関先で出くわしたあの若い男だった。彼は膝立ちの姿勢であり、やや仰け反るようにして虚空を見つめ、顎が外れるのではないかと不安になるほど口を大きく開き、喉元を掻き毟っていた。
人は首を絞められると、物凄い力で首を掻き毟るという話を聞いたことがある。自分の首を絞めている縄だったり人の手だったりを何とかして外そうと、爪を立てて掻き毟るのだそうだ。その時、自分の皮膚をも引っ掻くので、皮膚が裂けて血が滲むのだが、その痛みより首を絞められているという苦しさのほうが何倍も辛いため、引っ掻き傷など痛いとも思わないのだとか。
男の様子は、まさにそんな感じだった。だが、誰も彼の首を締め上げているわけではない。というよりも、彼の周囲には通夜の準備で集まった親族なり血縁者だと思われる人間が10人ほどいたが、みんな平然としていた。慌てもせず、騒ぎもしない。こういう時はまず救急車を呼ぶなりするものだが、そんな様子もない。呆れたような、冷めたような顔をして黙っているだけだった。
「ど、ど、ど、どうしよう。何かヤバいことになってるみたいだよ」
振り返って姉さんにそう訴えたが、姉さんもまた不思議なくらい冷静だった。
「私達が騒ぎ立てたって仕方ないでしょ。無関係な人間が焦ったところで何も出来ないしね。さっきも言ったけれど、しきたりを破るも破らないも自由なんだから。彼もまた知っていたはずだよ。玄関先で靴が逆様になっていることの意味をね。この家の人間は随分と信心深いというかしきたりを大切にしているみたいだし。ならば親類や血縁者の人間ならば、それを知っていて当然ということになる。今までは何ともなかったのだから大丈夫だと鷹を括っていたのかもしれないし、もしかしたらしきたりのことは何も知らなかったのかもしれないけれど。だけれども、しきたりを前にして無知であることは何の意味も為さないよ。無知は時に罪だから」
容赦のないというか、取り付く島もないというか。姉さんは他人に対してはシビアだ。それが例え命に関わることでも。自分の責任は自分で取れと、そういうことなのだろうが。だが、かといって知らぬ存ぜぬでは後味が悪い。絶叫は聞こえなくはなったものの、もう1度障子戸の穴から中を覗いた。
若い男は首筋からだらだらと血を流していた。切れた血管だろうか、ぶらりと何か細長い物が垂れ下がっている。呆けたようにぽかんと宙を眺め、生きているのか死んでいるのかさえ分からない。体勢がまた何とも奇妙なもので、絶叫を上げる前とほぼ同じだった。つまり、膝をついてやや仰け反気味になっている。腕は流石にだらりとしていたが、その状態のまま身動ぎ1つせず硬直していた。
周囲の人達は通夜の準備だか何だか知らないが、やはせわしなく動いている。太くて長い蝋燭の束を運ぶ者、遺体を安置するであろう布団を敷く者、遺影を飾る者___ばたばたと忙しそうに動いており、男のことなど眼中にないようだ。それもまた気味が悪かった。それからは障子の穴から中の様子を覗く勇気はなく、かといってヘタに騒ぎ立てることも出来ず、居たたまれない気持ちで姉さんと一緒に待っていた。たっぷり1時間ほどは待っただろうか。障子戸がからりと開き、中年の男がぬうっと現れた。
「ちょうどいい。お前ら手伝えや」
「え、な、何をですか」
「うちの莫迦息子がやりやがった。あいつ、脱いだ靴を逆様にせんまま上がってきたんだろう。お前らは大丈夫か。靴、ちゃんと逆様にしてきたか」
どうやらこの人は、あの若い男の父親のようだ。しかし、息子が今あんな目に遭っているというのに、酷く落ち着いている。普通ならもっと慌てるとか騒ぐとかするだろうに。顔を皺くちゃにしかめている感じからして、苛立ってはいるようだが。
「あの・・・。だ、大丈夫なんですか。さっき、叫び声が聞こえてきましたけど」
覗いていましたとは口が裂けても言えず、やんわりと嘘をつく。中年の男は「自業自得だ」と毒づくように言う。
「通夜の前の忙しい時間に・・・・・・。全くあの莫迦野郎め。あいつはもう正気を失っちまってるよ。自分で喉元掻っ切って虫の息だ。しきたりを破るなと散々言ってきたのにあのザマだ。最後の最後で面倒掛けやがって」
「虫の息って・・・・・・じゃあ、救急車とか呼んだほうが・・・・・・」
「呼んだって無駄だろ、もう遅かれ早かれ死ぬんだから。そんなこといいから、お前らちょっと来い」
中年の男はぶっきらぼうにそう言うと、俺達を連れて玄関から周り、さして広くもない縁側に来た。そして庭の隅に立て掛けられてあったスコップを2つ持ってくると、俺と姉さんに手渡し「穴掘っておけ」と言い残し、立ち去った。穴を掘れったって・・・・・・この非常事態ともいえる最中、落とし穴でも作るというのだろうか。スコップを持って呆然としていると、姉さんがスコップで穴を掘り始めた。手伝うべきかとも思ったが、姉さんに止められた。
「いいよ、私がやるから。欧ちゃんは何もしなくていい」
姉さんが掘った穴は、思っていたよりずっと小さかった。落とし穴くらいの大きな穴を掘るのかと思っていたのだが、サッカーボールがすっぽり収まるくらいの大きさだった。そういえば、穴の大きさとかどれくらい深く掘るのかとか詳しく聞かなかったけれど、これでいいのだろうか。
すると、廊下にわらわらと6人出てきた。どうやらあの若い男を運んでいるようだ。流石にまずいと思い、医者にでも見せに連れ出したのだろうか、などと思っていたが。俺達と同じように玄関から縁側へと回り、「どけ」とあしらわれた。姉さんに腕を引かれ、縁側の隅でじっと様子を眺める。縁側に連れ出してどうしようというのだろう。
「ーーーせぇのっ!!」
掛け声が上がり、若い男はぐわっと頭を下にして足を上に持ち上げられ、姉さんが先ほど掘った穴に頭を突っ込まれた。何をしているのだかさっぱり理解出来ない。1つだけはっきりしていることと言えば、死にかけている人間に施す行為ではなかった。それとも荒療治か何かなのか?
若い男の頭が穴に収まると、3人がかりで足を押え、残りの3人は一心不乱に穴に土を掛けて埋めていた。すると男の足はぴんと伸び、足を押えていなくても倒れることなく綺麗に倒立していた。言葉にし難い、何とも奇妙で異様な光景だった。
「な、何してるの、あれ・・・・・・」
姉さんにそっと問い掛ける。姉さんは目を細め、その光景を眺めながら教えてくれた。
「さっきも言ったけれど。立て続けに悪いことが起きたりすると、家の中の家具を逆様にして厄を祓うしきたりがあって話したでしょ。悪い気の流れを逆様にする意味で、家具を引っくり返すと厄も落ちると言われてきた。それは人も同じ。人間に良くないモノが憑いた時、逆様にすると同じように落とせると考えられているんだ。厄祓いというか憑き物落としに近いのかな」
「あの男の人には、何か良くないモノが憑いてたってこと?」
「アレはしきたりを守らなかったから来ただけだよ」
「アレは・・・・・・何なの」
「さあ。何だろうね。私には視えないし、感じないから分からない」
姉さんはうっすらと笑って俺を見た。
「怪異が必ずや姿形を留めているわけじゃない。怪異の専門家にさえ視えない場合もある。ただ、視えないからと言ってそこにいないわけじゃない。いつでもそこにいるし、いなくなったりはしない。神様の類なのか、それとも全く違うタイプのものなのか。それさえも分からないんだけれどね。
アレにやられると、人間は心神喪失状態になる。それか気が狂うかのどちらかだね。アレは近くにいた人間の臓器を1つだけ食い尽くす。心臓だったり腎臓だったり、或いは精巣とか子宮とかね。アレの近くにいた人間は臓器を1つ食われた上、廃人同様になる。楽しみも悲しみも怒りも欲望すら感じずに、ただ生きるだけ。でもアレは別に人間に怨みを持っていたり、襲ってやろうとと構えているわけじゃない。しきたりを破ったから来ただけ。何もしちゃいないよ」
あの若い男には何も取り憑いていないし、祟られたわけでもない。アレは特に何もしていないんだよ、と。姉さんは小さく付け加えた。
「アレは無作為だからね。目的や意図があって動くものじゃない。人間に対して怨みがなく、祟りもしない。だけれど、近くに来ただけで人間の害になる場合もある。そしてそれを未然に防ぐ有効な手段は___ない」
「あれは・・・・・・どうなの」
俺は震える手で未だに倒立を続ける若い男を指差した。その周りを囲み、6人が何やらひそひそと話し込んでいるが、その内容までは聞き取れなかった。ああして彼を逆様にすることで、厄は祓われるのだろうか。落とせるのだろうか。姉さんはその問い掛けに対し、淡々と答えた。
「あくまでも気休めだけれど、しないよりはいいんじゃない?目には目を歯には歯を。しきたりにはしきたりを____ご用心ご用心」
◎◎◎
その後、どうなったかをここで説明しておこう。
結論からして、俺達はあの後すぐ帰された。夜に予定されていたお通夜はいったん中止となり、死守りの話もなくなった。あとは身内の者だけで何とかするらしい。今回のように通夜を行う前に誰かが亡くなることは不吉とされ、日を改めて通夜を行うであろうとも言っていた。追い出されるように家から出され、ふと玄関の盛り塩を見る。盛り塩はぐっしょり濡れて溶けていた。
更に気味が悪かったことは、帰り際に中年の男に呼び止められ、分厚い茶封筒を渡された。ちらと覗くと中には皺くちゃの札束が入っており、驚いて顔を上げると「今日見た出来事は他言しないように」とキツい口調で言われた。つまり、口封じのための謝礼らしい。受け取るのを躊躇っていたが、受け取らないと家から出して貰えなさそうだったので、仕方なく受け取った。こんなお金を貰わずとも、他言なんてするはずがない。したところでどうにもならないし、また面倒なことになっても嫌だからだ。
「姉さん、これどうする?」
俺は茶封筒を姉さんに差出し、肩を竦めた。いらないと思ったが、かといってその辺にぽいと捨てていい物ではない。完全に持て余してしまった。姉さんは俺から茶封筒を受け取ると、ポケットからライターを取り出し、何の躊躇いもなく火を点けた。封筒は端からめらめらと燃え上がり、大金はものの3分ほどで黒い煤となった。
「このお金は使わないほうがいい」
姉さんがやけに固い声音で言ったのが余計に怖かった。
家に帰宅してすぐ、俺はショコラに電話をした。他言しないよう言われていたものの、事の発端であるショコラに何も報告しないのはまずかろうと思ったのだ。ショコラは俺が死守りをやらないと分かった途端、残念そうに「なーんだ、つまんないの」とほざいていた。電話を切ってやろうかと思ったが、最後まで事の次第を説明し終えた。
「そうかー。ま、とりあえずお疲れ様ー。大変だったみたいだねー」
「お前、他人事みたいに・・・・・・。こっちは大変だったんだからな」
「何にせよ良かったじゃない。死守りしなくて良くなったんだもんねえ。悪いことは続くって言うけど、マジだね。まさかお通夜を前にして誰かが亡くなるなんてねー。脱いだ靴を逆様にーーーふうん、それで厄払い、か。なるほど。お姉さんがそれを教えてくれなかったら、今頃は欧ちゃんも危なかったのかもね」
ショコラはふふふ、と小さく笑うと呟いた。
「どうしてお姉さんを連れてっちゃったの?」
作者まめのすけ。-3