あの黒い影には名前が無い。無い方が良いのだと、そう縁さんは言った。
「名前を付けるというのは、其の存在を認め、定義付けるということだからね。」
向かい側の木葉が首を傾げる。
「定義付けた方が、対応をパターン化出来るのではないですか?蟒蛇とかみたいに。」
うわばみ。
「・・・・・・うわばみ?」
なんだそれ。聞いたことの無い単語だ。察するに、何かの名詞らしいが・・・。
「大きな蛇の妖怪ですよ。煙草の脂を嫌うと言われています。」
「有名なのは・・・・・・そうだね。昔話や落語の《たのきゅう》かな。嫌うのは柿の渋もそうだと言う話だがね。」
「逆に好物は酒。だから、お酒を飲む人を表す言葉としても使われていますね。」
交互に説明された。初対面のくせに息ピッタリだ。
何だか圧倒されてしまい「おお・・・。」と小さく頷く。
縁さんがニヤリと笑って足を組み直した。
「知識不足の少年への説明も済んだことだし、さて、話を戻そうか。」
「知識不足とはなんだ!!」
普段言葉として使わないだろ蟒蛇なんて!
《やれやれ》みたいな顔すんな!
「私の助手だろう?もっと勉強したまえ。」
「まだなってから一時間も経ってねーよ!」
此処まで馴染んでいる木葉の方が、寧ろおかしい。
悠々とコーヒーを啜っている縁さんを睨み付けていると、横目でフンと鼻を鳴らされた。
「まあ、知らなかったら尋ねれば良いだけの話だ。そうカリカリするなよ、少年。」
誰がカリカリさせていると思っているのか。
そう言おうと口を開いたが、木葉の一言に邪魔される。
「真白君。怒らないで。」
見ると、さっきまでの大人びた様子とはまるで別人の、情けない顔をしていた。
怒らないでって・・・・・・。なんだか、俺が悪者みたいだ。こう、釈然としない。
此処で更に駄々を捏ねるのも、大人気無いか。
「別に、怒ってないって・・・。話、止めて悪かったな。進めよう。」
「うん。」
小さく頷く木葉を見遣りながら、縁さんが顔をしかめた。
「格差社会とは此のことだね。老人差別だ。」
「うるさい。早く話進めろ。」
「そうだね。君のペースに合わせていたら、其れこそ日が暮れてしまう。・・・さて、何処まで話したかな。」
何処までも人を小馬鹿にした物言いだ。
・・・けど、此処でまた何か言ったら・・・。我慢だ、我慢。
木葉が一瞬俺を見て、ホッとしたような溜め息を吐いた。
「名前を付けない理由の所までです。」
「そうか。」
相槌を打ち、縁さんは組んだ足をほどいた。
軽くテーブルに身を乗り出し、話を始める。
「諺に《噂をすれば影が差す》というのが有る。人の噂をしていると、本人がやって来るって話だ。」
そう言って空になったコーヒーを継ぎ足す。
そして、手を伸ばしてクッキーを摘まみ上げ、一口かじった。
何か言い出しはしないかと見ていたが、何も話さない。・・・・・・まさか、此れで終わりなのか?
隣を見ると、木葉は何やら真面目そうな顔で考え込んでいる。其れから暫くしてポツリ、と呟く。
「あの影に名前を付けてしまうと、話しただけであの影を呼んでしまう・・・ってことですか?」
「毎回ではないけどね。ただ、言霊とは恐ろしいね。呼び寄せてしまうことも希に有るんだよ。特に、ああいった始終揺らいでいるような輩はね。」
「揺らいでいる?」
首を傾げた木葉。縁さんは何処か満足そうに笑う。
「感覚的な話だから、少し説明しづらいな。けど、君もいずれ分かるだろうさ。」
「はい。」
俺は完璧に萱の外だ。
仕方無く、クッキーをかじりながら呟いてみる。
「ヴォルデ○ートみたいなもんか。」
「いや其れは微妙に違うかも。」
「聞いてたんかい。」
若干恥ずかしくなりながら前を向き直す。縁さんは僅かに眉を潜めながら右手をひらひらと降った。
「寧ろヴォ○デモートみたいに目的や意識があった方が楽なのかも知れないけどね。自我が有るかも怪しいからなぁ・・・。」
「でも、僕の方を見ましたよ。」
「知能は無くとも其れぐらいは出来るよ。まあ、眼球も無いんだけどね。いや、眼球は無くとも目は有ると言うのか・・・・・・」
うーん、大きく息を吐き出しながら呻き、縁さんがぼやく。
「何だか説明が今一上手くいかないなぁ。」
「力量が不足してんじゃないか?」
「きっと資料が無いからだね!」
「話聞いてねぇな。」
木葉が目をぱちくりとしばたかせる。
「資料・・・。本屋さんか図書館に有りますか?」
「いや、自分で持っているよ。友人に預かって貰っているから、此処には無いけれどね。」
なんだよ。木葉の声は聞こえるのか。
都合の良い耳しやがって。
「保管、まだしてくれてるかなぁ。いや待てよ。其れ以前に死んでしまっているかも知れないのか。引っ越してる可能性もあるな・・・。」
そう呟きながら縁さんは立ち上がった。電話台から電話帳を取り出し、ペラペラとページを捲る。が、直ぐに手を止めてしまう。戸棚から何かを取り出して・・・あ、老眼鏡か。体は年寄りだもんな。傍目から見ていて、何となく哀しい。
だが、俺がそんな薄らわびしい気分になっているとは露知らず、縁さんは改めて電話帳から誰かを探す。
「・・・・・・ん、ああ居た。生きてる。」
そして、何処かに電話を掛ける。そして、十数秒と経たない内に受話器を置いた。
「留守電だった。何処の誰ともつかんジジイの声だったけど、あれが友人だったら悲しいね。でも、多分そうだろうなぁ。」
「此れから、どうします?」
「どうしようね。何時帰って来るんだろう。直接取りに行くのも遠いしなぁ。出来れば日の落ちる前に君達を家に返してあげたいんだけど・・・。」
大きな溜め息。そして暫くの沈黙。
其の間、木葉はじっと縁さんの方を見ていた。
待つこと凡そ三分。
カップ麺一つ分の時間を掛けて、縁さんは答えを見付け出したようだった。ふー、とまた溜め息をし、苦笑いをする。そして、困ったような顔で言った。
「・・・直接取りに行こうか。」
散々悩んで、結局其れかい。
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電車とタクシーを利用し、俺達は其の縁さんの友人だという人物の家へと辿り着いた。
広い庭と立派な木製の門。背後にはそう高さはないが山までそびえている。
そうそう見られないような家だ。一見すると、旅館か何かに見える。
「あはは、相変わらず物々しい家だ。私は、時代劇の悪代官が住む屋敷みたいだと見るたびに思うんだ。君達が驚くのも無理はない。」
縁さんは顔を強張らせている木葉を見て、愉快そうに笑った。
木葉はーーーーーーー
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目の前の《時代劇の悪代官が住む》みたいな屋敷に当に住んでいる木葉は、一言
「・・・・・・そうですね。」
と呟いた。
作者紺野
テスト及び模試が無事終了致しました。